「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」
ルカによる福音書22章39節
ルカの福音書22章39節「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」とあります。
マタイの福音書26章36節には、その場所がゲッセマネ(油絞り)と呼ばれる場所であることが記されています。
39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
42節「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。」44節「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事をくり返して三度目の祈りをされた。」とあります。
ここでイエス様が言われた「杯」とは、十字架の死の苦しみのことを指しています。
40節で「いつもの場所に来ると」とありまして、イエスさまは、エルサレムにきたときには、オリーブ山のゲツセマネの園で、いつもお祈りしていたということがわかります。イエスさまは、お祈りを大切にされていたことがわかります。
いつもの慣習に従ってお祈りを献げておられたのです。
ゲッセマネという場所は、オリーブの油を搾る搾油所のある場所であったようです。イエスが祈った場所と弟子たちがいる場所との距離は「石を投げて届くほどの距離」とあります。
主イエスのこの時の祈りは、苦しい時の神頼みではありませんでした。言わばいつもの祈りでした。「いつものように」「いつもの場所」(40節)で祈る祈りでした。継続的な、積み重ねられて来た祈りでした。
祈りの人ダニエルは自宅でどんな祈りをしていたのでしょうか。ダニエル書6:11によると、 「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向って開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと讃美を自分の神にささげた。」とあります。
ダニエルは毎日、決まった時間に決まった場所で祈っていたみたいです。その決まった場所は二階にありました。
石井十次はお寺の一角を借りて孤児院を始めましたが、このお寺の墓場で彼はいつも祈っていたそうです。彼はいつも同じ場所にひざまずいて祈っていたために、彼の膝が当たる部分だけ草が生えなかったといいます。いくぶん伝説的な話ですけれど、そこだけ草が生えない、それほどに彼は熱心に祈ったのでした。
主イエス積み重ねられた祈りは、み使いの援助を促し、大きな使命を果たすための力の基となっていきました。それは、どんな重圧がのしかかっても破れることのない、厚い層となっているからです。
そして、主は世界中の人々をお救いになる大きな使命に生きられたのであります。
主は祈りによって、苦難を貫いて、復活されたのであります。
お祈りする時は、立って祈ることが、一般的でありましたが、イエス様は当初の姿勢が崩され、ルカの証言する「ひざまずき」の祈りに変わったと想像することが出来ます。
重い重圧がのしかかり、姿勢が崩されていったのです。
暗い夜に闇は主イエスを包みこんでいきます。誰も主のためにお祈りすることはありません。又その夜は火をたくほどにまで、寒かったということが聖書に記されています。
ひざまづき、最後には四つん這いになるまでに・・・
孤独と寒さと不安の中で、主イエスは一人祈られました。そして、主にのしかかる重圧は私たちの大きな罪であります。
全人類の罪と病と呪いの一切を一身に背負い、お祈りをされました。その重圧はおそらく天文学的な数字にも思えるのです。
十字架な過酷な死を前にして、主は立ち上がって、進まれていきます。
苦い怒りの杯を、主は、はねのけることも出来たかもしれません。そうされたなら私たちの口に、その杯の中身がはいってきたかもしれません。
厳しい神の裁きを受けなければなりません。
しかし、イエス様が代わりに裁きを受けられました。
イエス様はお祈りによって、私たちの罪を負われ、救いの道を開いて下さいました。
私たちは苦しみの時に祈られなくなったり、み心に適う祈りが出来なかったりすることがありますが、そんな私たちのために祈って下さっている方がいます。
いつもの場所で、いつものように。それは今も変わりはありません。
そして、私たちにも呼びかけておられます。「誘惑に合わないように祈りなさい」と。
それが、イエス様の十字架前の最後の教えてでもあります。
主イエスは弟子たちに、「誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と2度、言われました。
「誘惑」とは神から引き離す力です。苦しみや悲しみによって、神を信じられなくする力です。信仰を捨てないようにということです。
そうならないように、主イエスのようにいつものように祈ることも大切ですが、主が私たちの信仰がなくならないようにと、強力な力で祈って下さっていることも忘れないようにしたいと思います。
誘惑に陥らないようにするためには、祈りを「いつものように」繰り返し、積み重ね、厚みを増す以外にありません。
ルカによる福音書22章39節
ルカの福音書22章39節「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」とあります。
マタイの福音書26章36節には、その場所がゲッセマネ(油絞り)と呼ばれる場所であることが記されています。
39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
42節「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。」44節「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事をくり返して三度目の祈りをされた。」とあります。
ここでイエス様が言われた「杯」とは、十字架の死の苦しみのことを指しています。
40節で「いつもの場所に来ると」とありまして、イエスさまは、エルサレムにきたときには、オリーブ山のゲツセマネの園で、いつもお祈りしていたということがわかります。イエスさまは、お祈りを大切にされていたことがわかります。
いつもの慣習に従ってお祈りを献げておられたのです。
ゲッセマネという場所は、オリーブの油を搾る搾油所のある場所であったようです。イエスが祈った場所と弟子たちがいる場所との距離は「石を投げて届くほどの距離」とあります。
主イエスのこの時の祈りは、苦しい時の神頼みではありませんでした。言わばいつもの祈りでした。「いつものように」「いつもの場所」(40節)で祈る祈りでした。継続的な、積み重ねられて来た祈りでした。
祈りの人ダニエルは自宅でどんな祈りをしていたのでしょうか。ダニエル書6:11によると、 「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向って開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと讃美を自分の神にささげた。」とあります。
ダニエルは毎日、決まった時間に決まった場所で祈っていたみたいです。その決まった場所は二階にありました。
石井十次はお寺の一角を借りて孤児院を始めましたが、このお寺の墓場で彼はいつも祈っていたそうです。彼はいつも同じ場所にひざまずいて祈っていたために、彼の膝が当たる部分だけ草が生えなかったといいます。いくぶん伝説的な話ですけれど、そこだけ草が生えない、それほどに彼は熱心に祈ったのでした。
主イエス積み重ねられた祈りは、み使いの援助を促し、大きな使命を果たすための力の基となっていきました。それは、どんな重圧がのしかかっても破れることのない、厚い層となっているからです。
そして、主は世界中の人々をお救いになる大きな使命に生きられたのであります。
主は祈りによって、苦難を貫いて、復活されたのであります。
お祈りする時は、立って祈ることが、一般的でありましたが、イエス様は当初の姿勢が崩され、ルカの証言する「ひざまずき」の祈りに変わったと想像することが出来ます。
重い重圧がのしかかり、姿勢が崩されていったのです。
暗い夜に闇は主イエスを包みこんでいきます。誰も主のためにお祈りすることはありません。又その夜は火をたくほどにまで、寒かったということが聖書に記されています。
ひざまづき、最後には四つん這いになるまでに・・・
孤独と寒さと不安の中で、主イエスは一人祈られました。そして、主にのしかかる重圧は私たちの大きな罪であります。
全人類の罪と病と呪いの一切を一身に背負い、お祈りをされました。その重圧はおそらく天文学的な数字にも思えるのです。
十字架な過酷な死を前にして、主は立ち上がって、進まれていきます。
苦い怒りの杯を、主は、はねのけることも出来たかもしれません。そうされたなら私たちの口に、その杯の中身がはいってきたかもしれません。
厳しい神の裁きを受けなければなりません。
しかし、イエス様が代わりに裁きを受けられました。
イエス様はお祈りによって、私たちの罪を負われ、救いの道を開いて下さいました。
私たちは苦しみの時に祈られなくなったり、み心に適う祈りが出来なかったりすることがありますが、そんな私たちのために祈って下さっている方がいます。
いつもの場所で、いつものように。それは今も変わりはありません。
そして、私たちにも呼びかけておられます。「誘惑に合わないように祈りなさい」と。
それが、イエス様の十字架前の最後の教えてでもあります。
主イエスは弟子たちに、「誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と2度、言われました。
「誘惑」とは神から引き離す力です。苦しみや悲しみによって、神を信じられなくする力です。信仰を捨てないようにということです。
そうならないように、主イエスのようにいつものように祈ることも大切ですが、主が私たちの信仰がなくならないようにと、強力な力で祈って下さっていることも忘れないようにしたいと思います。
誘惑に陥らないようにするためには、祈りを「いつものように」繰り返し、積み重ね、厚みを増す以外にありません。