日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ルカの福音書22章39節~46節「ゲッセマネの祈り」

2015-03-31 16:51:02 | 説教
「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」
                               ルカによる福音書22章39節



 ルカの福音書22章39節「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。」とあります。
 マタイの福音書26章36節には、その場所がゲッセマネ(油絞り)と呼ばれる場所であることが記されています。
 39節「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
42節「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。」44節「イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事をくり返して三度目の祈りをされた。」とあります。
 ここでイエス様が言われた「杯」とは、十字架の死の苦しみのことを指しています。
 40節で「いつもの場所に来ると」とありまして、イエスさまは、エルサレムにきたときには、オリーブ山のゲツセマネの園で、いつもお祈りしていたということがわかります。イエスさまは、お祈りを大切にされていたことがわかります。
いつもの慣習に従ってお祈りを献げておられたのです。
ゲッセマネという場所は、オリーブの油を搾る搾油所のある場所であったようです。イエスが祈った場所と弟子たちがいる場所との距離は「石を投げて届くほどの距離」とあります。
主イエスのこの時の祈りは、苦しい時の神頼みではありませんでした。言わばいつもの祈りでした。「いつものように」「いつもの場所」(40節)で祈る祈りでした。継続的な、積み重ねられて来た祈りでした。
 祈りの人ダニエルは自宅でどんな祈りをしていたのでしょうか。ダニエル書6:11によると、 「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおりニ階の部屋に上がり、エルサレムに向って開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと讃美を自分の神にささげた。」とあります。 
 ダニエルは毎日、決まった時間に決まった場所で祈っていたみたいです。その決まった場所は二階にありました。
 石井十次はお寺の一角を借りて孤児院を始めましたが、このお寺の墓場で彼はいつも祈っていたそうです。彼はいつも同じ場所にひざまずいて祈っていたために、彼の膝が当たる部分だけ草が生えなかったといいます。いくぶん伝説的な話ですけれど、そこだけ草が生えない、それほどに彼は熱心に祈ったのでした。
 主イエス積み重ねられた祈りは、み使いの援助を促し、大きな使命を果たすための力の基となっていきました。それは、どんな重圧がのしかかっても破れることのない、厚い層となっているからです。
 そして、主は世界中の人々をお救いになる大きな使命に生きられたのであります。 
主は祈りによって、苦難を貫いて、復活されたのであります。
お祈りする時は、立って祈ることが、一般的でありましたが、イエス様は当初の姿勢が崩され、ルカの証言する「ひざまずき」の祈りに変わったと想像することが出来ます。
 重い重圧がのしかかり、姿勢が崩されていったのです。
 暗い夜に闇は主イエスを包みこんでいきます。誰も主のためにお祈りすることはありません。又その夜は火をたくほどにまで、寒かったということが聖書に記されています。
 ひざまづき、最後には四つん這いになるまでに・・・
 孤独と寒さと不安の中で、主イエスは一人祈られました。そして、主にのしかかる重圧は私たちの大きな罪であります。
全人類の罪と病と呪いの一切を一身に背負い、お祈りをされました。その重圧はおそらく天文学的な数字にも思えるのです。
 十字架な過酷な死を前にして、主は立ち上がって、進まれていきます。
苦い怒りの杯を、主は、はねのけることも出来たかもしれません。そうされたなら私たちの口に、その杯の中身がはいってきたかもしれません。
 厳しい神の裁きを受けなければなりません。
 しかし、イエス様が代わりに裁きを受けられました。
 イエス様はお祈りによって、私たちの罪を負われ、救いの道を開いて下さいました。
 私たちは苦しみの時に祈られなくなったり、み心に適う祈りが出来なかったりすることがありますが、そんな私たちのために祈って下さっている方がいます。
 いつもの場所で、いつものように。それは今も変わりはありません。
そして、私たちにも呼びかけておられます。「誘惑に合わないように祈りなさい」と。
それが、イエス様の十字架前の最後の教えてでもあります。

  主イエスは弟子たちに、「誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と2度、言われました。
 「誘惑」とは神から引き離す力です。苦しみや悲しみによって、神を信じられなくする力です。信仰を捨てないようにということです。
 そうならないように、主イエスのようにいつものように祈ることも大切ですが、主が私たちの信仰がなくならないようにと、強力な力で祈って下さっていることも忘れないようにしたいと思います。
 誘惑に陥らないようにするためには、祈りを「いつものように」繰り返し、積み重ね、厚みを増す以外にありません。 


ルカによる福音書20:9-19

2015-03-31 16:48:39 | 説教
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」
          ルカによる福音書20:17


 当時のユダヤ人の家は石造りです。石を積み上げて壁を造り上げていく時に、当然、この石は使えないというものが出てくるでしょう。ところが、使えないと思った石が、家を建てる上で一番大切な「隅の親石」(壁の角の一番下の石)になると言うのです。
 詩編118:22のみ言葉を引用なさいました。この詩編のみことばは、預言であるということです。
 エルサレムに行きますと、エルサレム・ストーンと呼ばれる白い石灰岩を積んで建てた家が並んでいます。隅の親石というのは、アーチ構造のそのアーチの一番真ん中の石のことだそうです。その石が崩れると、アーチ全体が崩壊してつぶれてしまう。そういう要の石のことだそうです。
 この「石」は、イエスさまのことを表しています。ぶどう園の農夫のたとえ話ではイエスさまは主人の愛する息子にたとえられていましたが、ここでは石にたとえられています。人々が捨てた石が、肝心要の石として用いられた。用いたのは神さまです。人間が捨てた石を、神さまが家の一番肝心な石として用いられました。1

 イスラエルは、70年代にローマによって征服され、神殿は崩壊します。しかし、主イエスを土台とする新しい共同体は、世界に広がっていくのです。
農夫達は次から次へと神の使者を殺していきました。自分はそんな酷いことはしないと思います。でも、これは私たちと無関係のことではありません。
悪い農夫のように、神からの使者を次々に排除したのは、私たちにもありえることです。そうやって、私たちは滅びを自ら招いていることがありえます。
 しかし、主イエスは、見失われつつある、私たちを取り戻して下さるのです。
 滅ぶかもしれない迷い出た羊を連れ戻した羊飼いのように。又どん底まで落ちた放蕩息子を迎えた父のように。
 罪を重ねて滅びつつある者が、牧者イエスによって見出され救われる物語です。
そんな力が私たちを捕らえていくのです。
私達も自分を中心に土台をすえて、"人生"という名の家を造り上げていく建築者でありましょう。
 一つ一つの計画や出来事という石を積み上げて、自分の人生を造っていきます。
 神への反逆という材料で石を組み上げていないでしょうか。自分が大工となり、人生という家を建てあげていく時、神の宮になりきれるのでしょうか。
 クリスチャンはある意味に置いて、プロ意識を揺さぶられていく者であります。
プロ意識を捨てて、主に従った漁師達が、大漁を経験したように、私達も主により頼みつつ、人生を積み上げていくことが大切です。
その中で、積み上げていくべき大切な石を知ることが出来ます。イエス様はプロの大工です。それは、私たちの人生という家を建てあげる上でも、信頼できるプロの大工です。
罪に揺さぶられ、滅びいく道を歩んでも、主は私たちを捕らえ、失わないように見いだし、
救って下さいます。
使徒言行録9章のキリスト教の迫害者サウロが復活のキリストに「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかけられる回心の場面があります。
 キリスト者に怒りをぶつけて、迫害をしていたパウロが、砕かれて、キリスト者に生まれ変わりました。ぶどう園の農夫のように、キリストに敵対し、十字架へと追いやっていた者が生まれ変わるのです。
「戻ってきてこの農夫達を殺し」(20:16)という、私たちを脅かさせる以外のものでないと思われる言葉ですが、「殺す」という言葉は、ギリシャ語では「アポルリューミ」という言葉です。
 見失った羊のたとえに出てくる 「見失った」という言葉。
放蕩息子のたとえの「いなくなった」という言葉などに用いられています。

 ただ見失うことで終わっていないということです。この言葉には回復への願い、発見への願いが込められているということです。
御子イエスは、私たちの世界と人生の親石となってくださいます。
  滅びの穴への墜落を止めて下さり、世界の崩壊に歯止めとなって下さることでしょう。 それが十字架の勝利ということです。


ルカによる福音書9章18節-27節「受難の予告」

2015-03-13 11:13:08 | 説教
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
ルカによる福音書9:23


 ペトロが答えました。「あなたは神からのメシアです」。メシアとはヘブライ語で、それをギリシャ語に訳すとキリスト、救い主のこと 。
 イエスに対する正しい理解をペトロは示したのです。このことを悟ったのは人間的な力によるのではなく、神の働きかけがあったからであります。特に主イエスの祈りが大きな
力になっているように思います。
 多くの発見が私どもの生活を変えました。地動説・引力の法則・結核の薬など。イエスが救い主であると発見したことは前人類の運命を変えたとも言われています。知的学者でなく漁師のペトロがこのような偉大な発見をしたことは驚くべきことであります。
「我はキリストを救い主と信じる」という中の「我信ず」は、ラテン語でクレド-という言葉であります。これは任せる、託す、委ねるという意味です。あなたこそ神からのメシアですと告白し、その方に自分を委ね、託し、任せて、平安の中を生かされて生きることです。 主イエスを信じる者について23節に述べられています。
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
この主イエスの後についていく歩みは、「自分を捨てる」という歩みとなります。
 自分を捨てるとは、洗脳された人間のように、自分自身を失うということではありません。 主イエスの求めはそういうものではありません。むしろ弟子であることによって、自分らしさを十分発揮させるものです。
 主イエスがおっしゃるのは、イエスの命に対立し、その招きに応じない部分を捨てよということです。
 25節は、「自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか」と言われています。イエスに従うことによって、私たちが真の自己を発見するように招いておられるのです。
 イエス様は、ここで私と一緒に十字架で処刑されるようにと言っておられるのではありません。
 自分の十字架とは、見方によれば、鉄の十字架のように100%追い切れないイメージを持ってしまいます。人間の見方によれば鉄のように映るかもしれません。しかし、木の十字架です。自分だけが担ぐのではありません。可能性ゼロではありません。
 イエス様は、確実に死を迎える中で何をされたでしょうか。
  ここでイエスは「必ず」と言っています。「必ず」ということは可能性が100%だという意味に受け取ることができるでしょう。死ななければならない。それも多くの苦しみを受けた上で、処刑されるということです。
そのような途上の中で、イエス様は病気の人を治療したり、子どもを愛したり、人々に希望を与えたりしました。他者、とりわけ弱い立場に追いやられている人々や困難な状況の中に生きなければならなかった人々に寄り添い、それらの人々の希望となって生涯を送りました
 イエス様の招きに従うことが、私たちの心を輝かせることにつながります。
 地上では、様々な私たちが負うべき十字架があります。病・家族や隣人のために負う十字架・不条理・悩みなど どれも大変な重荷ですが。
 私に従い、生き、自分の十字架を負いなさいと言われています。
 鉄の十字架は重くのしかかり、可能性を奪っていきますが、木の十字架には、何も出来ないということではなくて、可能性が秘められております。
 十字架を負う歩みの中に、可能性を見つけていくことこそが、日々十字架を負うことです。主が共に担って下さるということを信じて。

ルカによる福音書11:14-26 「悪と戦うキリスト」

2015-03-03 09:29:40 | 説教
しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば 神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
   ルカによる福音書 11:20


イエス様のお力によって口の利けない人が、ものを言い始めました。主イエスの敵対者は、「悪霊の頭の力によって、悪霊を追い出している」と言いました。
 しかし、サタンは手下に内紛をゆるすほどに馬鹿ではありません。勢力の拡大を目指しているゆえに、自ら破滅する方向にはいかないのです。
イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
「 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」と。
 
 20節で、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と主は言われます。
 イスラエルの民がエジプトで奴隷の民であった時に、エジプト王は、なかなかイスラエルの民を解放しようとしませんでした。そこで、神はエジプトに災いをもたらします。〈神の指〉という表現は、出エジプト8:19にあります。モーセと対決したエジプトの魔術師たちが、〈これは神の指です〉と告白しています。ですから、〈神の指〉とは、人間やサタンの能力を遥かに超えた、次元の違う「神の力」を意味します。
 頑な人は、なかなか、つかまえたものを離しません。ファラオの手は、人々を抑圧して苦しめている手でした。彼の頑なな心を屈服させたのが、神の指です。神の指は神の、ほんの一部分ですが、口のきけない人は、この指によって、癒され、口がきけるようになりました。 「神の指」とあります。神の指は、どのような指なのでしょうか。
 指は、神のわざの偉大さと同時に繊細さを表現しています。マクロとミクロです。神の愛は広くてかつ細やかです。 誰でも大自然に触れると、自分の小ささに気づきます。神の愛は広くあまねく大自然をまもり、かたや繊細に私たち一人ひとりの魂をもまもられるのです。
 日本人の手先は器用で、高度経済成長を支えてきたと言われています。小さい時から雑草で遊び、その草の微妙な動きとかを体験したからではと言われています。
 指というのは、経済的な影響力をもたらすほど、大きな影響力を持っているということです。
 創造時から、人と関わり続けた神の指は大きな力を持っています。
 その人が何をしているのか、それを見るために私たちがするのは、その指先を見ることです。その指先は働きの最前線です。           
悪霊の指は弱者の口をふさぎ、その声を聞こうとしない姿勢を持っています。
神の指が働いているところに、神の国が来ています。
人間自身の心にある頑固な罪も、神の指が働く時に、砕かれて、新しくされるのです。
そして、神の指は私達の心に新しい指針を与えます。又人を再出発させる力があります。 目に見えませんが、神の指の大きな働きを信じる時、私達は大きな力に満たされていくのです。
マタイ(12・28)の並行箇所では、「神の霊で」となっています。ルカの「神の指で」とどちらが原形であるのか議論がありますが、おそらく聖書の擬人的な表現(出エジプト記8・15)をそのまま用いているルカが原形ではないかと見られます。出エジプトの時に神がイスラエルのためになされた大いなる働きが、今イエスの手によって成し遂げられ、出エジプトを終末的に成就する出来事が目の前で起こっている、とイエスは言っておられるのです。
 イエス・キリストによって出エジプトが霊的に本質的に実現したのです。
私達を罪から自由にする、神の指の働きを告白する者として、共に歩みましょう。
霊の世界も自然界と同様に、真空を嫌います、私たちの心も良いもので満たしていきたいと思います。主イエスに敵対するファリサイ人達は、心の中を何で満たしていたのでしょうか。
 良いもので満たされていたならば、主イエスを攻撃することはなかったと思います。
 彼らの心も、これは良いもので、これは悪いものと自分の力で判断して、悪いものを追い出していったかと思います。
 心を何で埋めていくかということは、大切なことです。
 神様の愛で満たされていくことが大切です。
その他、家族との絆 休息 趣味 楽しみ他で心を満たしていく人間の現実もあります。
そういうものも、神の宣教の使命の中で大切な役割を果たしていることもあります。
 又負担と思うことが、逆にその人を支えていることもあったりします。
 心の段差になっていると思っていることが、心のリハビリになっていることもあったりします。湧き上がる不満も、み心に適っているのかと吟味することも大切なことです。 
 何が良いもので、悪いものであるかということは、とても繊細な事柄であります。
 私たちは神の指の業にある先を見て、その業を心に迎え、従う以外に悪霊を追放し、よいもので満たすことはできないと思います。
 主イエスにおいて、神の指が忙しく働いておられるのです。私たちの上に働いてくださる主の御業を受けとめましょうと、ルカによる福音書は、指という言葉を使うことによって私たちに伝えています
そして、神の恵みのご支配を受け入れてほしい、それが主イエスの願いであります。
さらに、もう一つの意味を含むように思えます。指はギリシャ語の(ダクチュロス)です。単数形なので「一本の指」のことなのでしょうか。すなわち、たった一本の指とは、全力ではないともとれますし、一本の指に神の思いが集中していると取れます。
主イエスの生涯を思い起こすと、後者の解釈をとりたいと思います。