日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

10月月主題0-2歳児「ためして」  3-5歳児「試行錯誤」

2016-09-30 13:28:01 | フォトギャラリー
「あたたがたは地の塩である」  
           マタイによる福音書5:13

 あなたがたは地の塩になれ、世の光になれとイエス様は言われていません。
「立派になれ」と言われないで、あなたがたはそのままで「地の塩」だと言われています。そのままで、世界に良い味付けをする者なのですよと言われています。私たちを丸ごと肯定して、丸ごと受け入れて下さる神様の姿勢が現れています。
 保育者も保護者も輝く時は、その人らしさが発揮出来た時です。自分が大切にされていることを知り、その自分らしさを十分に伸ばす時、一人一人が輝いていきます。
 幼児期の運動会は見せるためのものでしょうか。そうではなく、子どもたち一人ひとりが日頃積み重ねてきた多くの経験の中で培われてきた力を、自分自身で確認する時なのです。
 この力を見て頂くことは、子どもにとっても親にとっても、嬉しいことで、励みになることです。
 人間ほど共感能力を持つ動物は他にありません。共感によって、人の中に共感のスイッチがはいると言われています。この共感によって思いやりや優しさが育まれていきます。運動会は、沢山の愛する人が集う場所です。そこで得られる共感が、子ども達の「平和をつくりだす力」をひきだすことでしょう。
 かけがえのない一人ひとりの子ども達をやさしく受け入れて、共感してあげてください。

コリントの信徒への手紙二5:1-10「永遠のすみか」

2016-09-30 13:23:36 | 説教
5:1 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
                                コリントの信徒への手紙二5:1


 信仰者は、目に見える一時的な地上の住まい(幕屋)に生きています。家が何年も暮らすと傷んでくるように、肉体も永年の苦労で次第にボロボロになり、滅びていきます。
しかし、やがて、朽ちることのない永遠の命にふさわしい体が与えられます。地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられています。
 私たちの「地上の住みかである幕屋」とあります。これが、今地上を生きている私たちのこの体です。
その体は「幕屋」であると言われています。幕屋とはテントです。そこには二つの意味があります。テントは、たたんで持ち運ぶことが出来ます、一つの所にずっといるのではなく、あちこち移動していくことが出来ます。
私たちの地上の人生はそのように、変化していくものです。
たとえば、中津にずっと住んでいたとしても、様々な出会いがあり、別れがあり、喜びがあり悲しみがあり、また社会の変化、時代の荒波にもまれていくというのです。
私たちは、自分の体という幕屋を、いろいろな状況に立てていきます。
そこで幸せな日々をおくられるかと思うと、病気になったり、苦難にあったりと、揺れ動くところにテントが張られます。
又その幕屋は、人的環境にも左右されやすいものでしょう。順境や逆境にもおかれ、時にストレスの中に置かれたり、安定した地位についたり、稼働式のテントはある一定のところには留まりません。
テントは恒久的な家ではないということです。雨露・陽射しにさらされて、古くなり痛みだし、やがて、使えなくなります。
人それぞれにいろいろな故障や病気をかかえて歩み、次第に老いて弱っていくのです。あるいは若くても病気や事故で亡くなってしまう人もいます。
私達の肉体は、一時の間、地上に存在するのみで、やがて滅びてしまう。この意味においては天幕づくりの家の如きものであります。「この世は仮りの宿」に過ぎません。仮の宿に過ぎざる幕屋と永続的住居なる建築物とを対比して肉体と永遠の命に生かされる体とを対比させています。
テントを張って、地上で過ごす有り様は、とても、労苦が多いことは確かなことでしょう。
地上でのテント暮らしは、バラバラですね、みなさんがそれぞれの家を持って暮らしておられます。しかし、来るべきみ国・天国は、神の子とされた神の家族が全員、天という大きな家に住むのです。
テントにかわって、私達が永遠に住む建物が与えられるということです。
「天にある永遠の住みか」です。
地上での苦しみの生活を放棄して、早くみ国に行きたいと願う人もいるかと思います。しかし、定められた場所で、生き続けることの大切さも、この箇所では語られています。
終礼のベルが鳴るまで、教室でがんばるということに譬えられるでしょうか。どんなに厳しい先生の授業でも、留まり続けること。
死ぬべき幕屋は決して無駄な重荷ではありません。確かに重荷ゆえに、自ら教室から出てしまう人もいるかと思いますが、主はそのような方々にも働きかけ、み国の教室へとお招きされると信じています。
 そのことを以下のみ言葉は、重ね着ということで表しているようです。
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
住みかを着るというのは、不思議な表現です。聖書の翻訳者は苦労されて訳されたと思います。住み家というのは、御国にて、永遠の命に生かされていくための体です。
しかし、個人的な事として扱うならば、永遠の体と表現しますが、それを永遠の住みかを着るという表現は、集団的な要素とのつながりを表現しているように思います。
天から与えられる住みかを上に着たい。これは重ね着を意味しているようです。わたしのアイデンティティーはそのままで、他者にもわたしということがわかることを意味しているみたいです。
永遠のすみかに生きるように、ふさわしい体が与えられます。それは、自分から着るというよりも、神様に着せて頂くことではないでしょう。
天幕を着て生きている私達ですが、来るべき永遠のすみかを着る保証が与えられています。
それは、神様から与えられる聖霊です。この見えない力によって、私達は強められ、天幕を張って地上を生きるための慰めと励ましになっていると思います。
  ジョンクインシーアダムはこう言いました。「すこぶる壮健ですが、その住宅はすっかりだめになりました。」と。はげた頭をなでながら、「屋根はこのとおり落ちました」。やせたあばらをさすって、「壁もこのようにくずれて、中の柱が現れました」。又手にした杖を示して、「風がふけば揺るぐので、こんな支柱をしています。こんな破れ屋にいつまでも住んではいられませんから、近いうちに転宅します」
 パウロも体が悪く、そのように体のことを譬えることも出来ると思いますが、その弱い体の中に神が大きく働きました。パウロは人々の愛と協力に包まれていきました。 聖霊が働いていたのです。パウロの弱い衣を支える聖霊が働いていました。
パウロは確信しています。どんどん老いていくこの体、様々な不自由が溢れてくる老いた人生。この先には更に絶望が待っているのではなく、このような自分にこそ、キリストの上着を着せていただける望みがあることを確信しているのです。「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまう」という言葉で語るのです。わたしたちは、死後の生活に希望を持つことができるのです。
外なる人は破れて行くけれども、内なる人は日々に新たにされてゆくのです。内なる人が強化されてゆくと、心の目も強められ、キリストが生きて働かれる、見えない世界が見えてきます。信じて望んで生きていく力が強化されるのです。
老いを迎えることはスローライフを楽しむことでもあります。あまり、若い時のように自由に早くどこへでも行くことができないかもしれませんが、ゆっくりと主の恵を覚えていくことが出来ます。

エフェソの信徒への手紙3:14-21「キリストの住まい」

2016-09-13 11:52:58 | 説教
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。   エフェソの信徒への手紙 3:18-19




本日の箇所はエフェソの教会に対する、パウロのとりなしの祈りが書かれています。パウロはエフェソの教会の人たちのために何をお祈りしているのでしょうか。
 それは、「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(:17)ということであります。
 パウロ自身の体験から、とりなしの祈りが生まれました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きているのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」ガラテヤ書2:20
「主は我が内にいます」と言わせるのです。異邦人であるエフェソの人にもこの体験は起こります。
「住む」ということは、「永住、定住」することす。
人が住んでない家は傷みが早いと聞きます。風通しも悪く、悪いところも気づきにくくなるからでしょうか。無人家と人家とは、遠目にもはっきり区別できるとも言われます。
家は無人にすれば朽ちます。良い方に心の内に住んで頂くことが大切ですね。私たちの心も無人家ではなく、イエス様に住んで頂くことが大切であります。いつも、新たにされていくことが大切です。
そして、イエス様の愛に根を下ろすことが大切であります。
根付くと風が吹いても倒れることがありません。常に養分を供給され、花を咲かせ、実を稔らせます。
キリストの愛に根付くと、愛の養分を受け、愛の果実を実らせます。
賀歌8:7「大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない。」
愛はエネルギッシュなもので、人にも大きく働きかけていきます。
十字架の愛。その熱い思いと愛の深さは、私たちの理解をはるかに超えるものです。
主イエスの愛は、期間限定の愛ではないのです。
ですから、私たちは、帰って行くことが出来るのです。この主イエスの愛の長さが、私たちの救いであり、私たちの希望なのです。
主イエスの愛。その高さは、限りなく、気高い愛です。
それは、天に達するまでに、気高い愛です。
主イエスの愛。その深さは、陰府にまで、下って行かれる、深い愛です。どん底まで、降りて行ってくださる愛です。
優しさ・愛については、論じるよりも、自分がその持ち主かどうかが問われます。
愛は火のように強くなったり、弱くなったり、ある程度の水準に保つというわけにはいきません。私は、常に愛を持っていると言い切ることは出来ません。
優しさや愛というものは、自分の力で何とかするよりも、周囲の人たちとの交わりを通して芽生えてくるようなものです。
自分の弱さや破れ、傷をよく理解してくれる人、苦しみだけでなく小さな喜びをも分け合うような心の友によって育まれていきます。
愛に満ちたイエス様との交わりによって、人間には、優しさと愛の可能性が生まれてくるのです。
人知を超えた神の愛の触れる時に、このような私たちにも愛が生まれる可能性があります。
そして、その愛を受けたパウロが異邦人伝道という新しい業を始めたように、イエス様の愛は私達に新しい愛の形をもたらしていくのです。

ヨハネの手紙一5:6-20「神に属する者」

2016-09-01 10:32:33 | 説教
「証しするのは三者です霊と水と血です」ヨハネの手紙一5:7-8

 この手紙を書いたのは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネだと思われる人は多いと思います。そうとお答え出来ます。
実はヨハネではないという人もいます。しかし、少なくともヨハネの流れを汲むヨハネの弟子が書いたと考えることはできます。

 ヨハネによる福音書19章には、主イエスの十字架の出来事が記されています。
イエスさまが十字架の上で死なれた時のことです。ユダヤ人指導者が、安息日になるから、イエスを含む十字架上にいる囚人をそのまま木にかけたままにしておかないでくれ、とピラトに願い出ました。
兵士は、あしの骨を折ることなく、わき腹を槍で突き刺しました。するとそこから、「ただちに血と水が出てきた」とあります(19:34)。ヨハネはこのことを言った後に、「それを目撃した者があかしをしているのである。そのあかしは真実である。その人が、あなたがたにも信じさせるために、真実を話すということをよく知っているのである。(35節)」と言っています。
心臓が破裂すると、水のような液体がその周りに溜まるそうです。それもいっしょに出てきたと考えられます。ヨハネはこれを確かに見た、そこで「そのあかしは真実である」と言っています。
 神が人となられて、洗礼を受けられ、十字架におかかりになったことによって、救いが実現しました。
ヨハネは確かに自分自身でイエスが肉をもって来られたことを目撃したのですが、私たち一人一人にあかしするのは御霊であると、神の証であると言っています。
 イエス様が私達の救いのために十字架につけられたこと、そして、イエス様を救い主と信じる者は永遠の命が与えられます。そのことが真実であると言う神の証言によって、私達は信仰者になっています。
 人間の証明はあやふやなところや間違いがあったりしますが、神の証言を信頼出来る者であります。
 日本に最初に電灯が灯った時に「人々は伝線を伝わってコレラが伝染する」と言ってなかなか電気会社の言うことを信頼出来なくて、電気の普及が遅れたというエピソードが残っています。
 神の証言を信じるか信じ無いかによって、大変な違いをもたらすことでしょう。
 
 神の証しは、イエス・キリストこそまことにわが救い主であり、信じる者に永遠の命が与えられるという確信を私達に与えます。
神に属する者とは、絶えず神に心を開き、日々新たにされている人を意味します。
死の不安 罪に苛まれる私達ですが、そういう私達を新たにし、命への道を歩ませるように導いておられる神様に心を開いていくことです。
私たち人間が本当の命に目を開かれていくことを願っておられます。
 迫害の中にあっても、永遠の命に生かされて教会は一歩を踏み出していきました。
力強い神様の証しに促されて、信じて歩む群こそが、神に属する者の群ではないでしょうか。

6節「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」。血液と体液(内臓)が流れ出たということは、イエスの死は決して見せかけでなく、真に人間として、私たちと同様に死なれたのです。
その瞬間をヨハネは見ていました。
お生まれになる時はマリアの羊水を通って生まれました。十字架の死と新しい誕生を重ね合わせているのが
特徴的な描き方であると思います。
イエス様は「水と血」を流して死なれた。しかし、そこから永遠の命が始まりました。
水と血は苦難・死の象徴です。
絶望の世界をくぐり抜けたイエス様が、私達を新しい命で生かして下さいます。
命への1歩を踏み出せるように働きかけてくださるイエス様が、すぐそばにいることを神様は証ししておられます。