わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。
ヨハネによる福音書14:2
本日は、永眠者記念礼拝を守ります。天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にグレゴリウス3世という教皇が、この日を定めました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。
天に召された人々を偲び、やがて私たち自身も召されていく天に思いを馳せます。
死後について、どのようになるのか、二つの考え方があります。
地上の務めを終えて、死後は眠りにつくという考え方です。ただ、永遠に眠っているということではなく、キリストが再び来られる時に審判が行われ、現世での行いによって裁かれ、新しい世界に入れるかどうかが決まるのです。
もう一つの考え方は、死んですぐに、神の世界に迎え入れられるということです。ルカによる福音書16章に〈金持ちとラザロ〉という話がありますが、金持ちの家の前で、病を抱え、物乞いをしていた貧しいラザロが死んだとき、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(16章22節)と聖書にあります。
本日の箇所も人は死んだらすぐに、神の世界、天国に迎え入れられるという信仰を表しています。
1節~2節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と主イエスは言われます。
最初の「父の家には住む所がたくさん」という所は印象的な言葉です。「住むところ」は英語でマンションという言葉が使われています。横浜でマンションが傾いて問題となりましたが、英語で「マンション」と言う時は豪華で宏荘な大邸宅のことを表す言葉です。広大な邸宅……部屋数が幾つあるか分からぬようなものです。
モネというギリシャ語が使われていて、腰をつけて、長く住むことの出来る快適なところであります。
「場所」というのは、空間的なところでくくられるところではありません。関係性を表しているのです。
家があっても家にいられないことがある。職場があっても、学校があっても、そこに行きたくないことがあります。居場所が与えられると言うことは、ゆるしと受容と信頼と愛に包まれているところであり、それがないところでは、どんな大邸宅に住んでいても、幸せにはなれません。
豊かな関係の中で、私達は生かされていると言えます。信仰の諸先輩方はイエス様に愛され、守られ、ゆるされ、新たにされて生きてきました。その関係性はいつまでも、永遠に続いていくのです。
主イエスを信じて歩む者は、もう既に天の国に「住むところ」「場所」を予約していることになります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(6節)と主は言われました。
道がなければ歩く事も出来ませんし、真理がなければ知ることも出来ませんし。命がなければ生きることも出来ません。
山には、いくつかの登山道があり、どの道も山頂に続いています。しかし父のみもとへ行く道は、一つしかありません。
国道10号線に乗れば、大分市に必ず続いているように、その道に乗れば必ず目的地にたどり着くことが出来ます。
私達ではたどり着けない道をイエス様が切り開いて下さり、イエス様ご自身が道となって下さいました。「生ける神のもとへ通じる道がこの私。別の言い方をすれば、神の真実を代表するのがこの私。死んだ者を生かす神の命がこの私」と言われるイエス様にしっかりと結びついていくことが大切です。神は決して山の頂上にどっかりと腰を下ろして、何もなさらないというのではありません。さあ、自分の力で登って来なさいと言われるのでもなく、まして、登れるものなら登ってみなさいと言われるのでもありません。
そうではなくて、私たちが登ることができるように、ご自分のもとに来ることができるように、その道を開いてくださり、その道を示して下さいました。
道という漢字には意味があるようです。シンニュウの上に「首」が載っているのは、頭を目標に向けて進むさまです。
先に召された兄弟・姉妹は、しっかりとイエス様が用意して下さった天の居場所を目指して歩んでいかれました。その歩みは御国のしるし・み国を指し示す指です。その指はイエス様に私達の心を向けさせていくのです。
今日記念している永眠者の方々は、私たちが死ぬ時、み国にて私たちを永遠の住まいに迎え、案内してくださる方々なのです。ルカによる福音書 16:9に「あなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれる友」とあります。
この「友」というのは必ずしも文字通りの「友人」でなければならないということはありません。親友のような信頼関係で結ばれた親子、兄弟、夫婦、そういう繋がりのすべてを言います。今日記念している永眠者はみんなそうです。
みな、道という漢字のように同じところを目指して、同じ道を歩むのなら、天国で再会することが出来ます。
父のみもとへ行ったイエス様はちゃんとその再会の場所を用意して下さっています。
天国は、住宅難にも悩む場所でもなく、多く集まれば集まるほど余裕も出来て、みんなが幸せになれる場所です。
天上の世界を楽しみとして、しっかりと地上を目標を目指していきたいと願っています。
ヨハネによる福音書14:2
本日は、永眠者記念礼拝を守ります。天国に迎え入れられた人々を偲び、記念する日として、8世紀にグレゴリウス3世という教皇が、この日を定めました。だから、聖徒の日は、日本流に言えば、お彼岸やお盆に当たるものと考えてよいでしょう。
天に召された人々を偲び、やがて私たち自身も召されていく天に思いを馳せます。
死後について、どのようになるのか、二つの考え方があります。
地上の務めを終えて、死後は眠りにつくという考え方です。ただ、永遠に眠っているということではなく、キリストが再び来られる時に審判が行われ、現世での行いによって裁かれ、新しい世界に入れるかどうかが決まるのです。
もう一つの考え方は、死んですぐに、神の世界に迎え入れられるということです。ルカによる福音書16章に〈金持ちとラザロ〉という話がありますが、金持ちの家の前で、病を抱え、物乞いをしていた貧しいラザロが死んだとき、「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(16章22節)と聖書にあります。
本日の箇所も人は死んだらすぐに、神の世界、天国に迎え入れられるという信仰を表しています。
1節~2節で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と主イエスは言われます。
最初の「父の家には住む所がたくさん」という所は印象的な言葉です。「住むところ」は英語でマンションという言葉が使われています。横浜でマンションが傾いて問題となりましたが、英語で「マンション」と言う時は豪華で宏荘な大邸宅のことを表す言葉です。広大な邸宅……部屋数が幾つあるか分からぬようなものです。
モネというギリシャ語が使われていて、腰をつけて、長く住むことの出来る快適なところであります。
「場所」というのは、空間的なところでくくられるところではありません。関係性を表しているのです。
家があっても家にいられないことがある。職場があっても、学校があっても、そこに行きたくないことがあります。居場所が与えられると言うことは、ゆるしと受容と信頼と愛に包まれているところであり、それがないところでは、どんな大邸宅に住んでいても、幸せにはなれません。
豊かな関係の中で、私達は生かされていると言えます。信仰の諸先輩方はイエス様に愛され、守られ、ゆるされ、新たにされて生きてきました。その関係性はいつまでも、永遠に続いていくのです。
主イエスを信じて歩む者は、もう既に天の国に「住むところ」「場所」を予約していることになります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。」(6節)と主は言われました。
道がなければ歩く事も出来ませんし、真理がなければ知ることも出来ませんし。命がなければ生きることも出来ません。
山には、いくつかの登山道があり、どの道も山頂に続いています。しかし父のみもとへ行く道は、一つしかありません。
国道10号線に乗れば、大分市に必ず続いているように、その道に乗れば必ず目的地にたどり着くことが出来ます。
私達ではたどり着けない道をイエス様が切り開いて下さり、イエス様ご自身が道となって下さいました。「生ける神のもとへ通じる道がこの私。別の言い方をすれば、神の真実を代表するのがこの私。死んだ者を生かす神の命がこの私」と言われるイエス様にしっかりと結びついていくことが大切です。神は決して山の頂上にどっかりと腰を下ろして、何もなさらないというのではありません。さあ、自分の力で登って来なさいと言われるのでもなく、まして、登れるものなら登ってみなさいと言われるのでもありません。
そうではなくて、私たちが登ることができるように、ご自分のもとに来ることができるように、その道を開いてくださり、その道を示して下さいました。
道という漢字には意味があるようです。シンニュウの上に「首」が載っているのは、頭を目標に向けて進むさまです。
先に召された兄弟・姉妹は、しっかりとイエス様が用意して下さった天の居場所を目指して歩んでいかれました。その歩みは御国のしるし・み国を指し示す指です。その指はイエス様に私達の心を向けさせていくのです。
今日記念している永眠者の方々は、私たちが死ぬ時、み国にて私たちを永遠の住まいに迎え、案内してくださる方々なのです。ルカによる福音書 16:9に「あなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれる友」とあります。
この「友」というのは必ずしも文字通りの「友人」でなければならないということはありません。親友のような信頼関係で結ばれた親子、兄弟、夫婦、そういう繋がりのすべてを言います。今日記念している永眠者はみんなそうです。
みな、道という漢字のように同じところを目指して、同じ道を歩むのなら、天国で再会することが出来ます。
父のみもとへ行ったイエス様はちゃんとその再会の場所を用意して下さっています。
天国は、住宅難にも悩む場所でもなく、多く集まれば集まるほど余裕も出来て、みんなが幸せになれる場所です。
天上の世界を楽しみとして、しっかりと地上を目標を目指していきたいと願っています。