日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ルカによる福音書12:13-21「創造」

2014-10-29 17:09:07 | 説教
しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。
                    ルカによる福音書12:20-21


 群衆の一人が、「私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」とイエスに頼みます。当時遺産問題を調停するのはユダヤ教のラビでした。主イエスなら、いい解決策を出してくださるだろうと思ったのでしょう。しかし、主はこの願いを拒否されます。
ルカ福音書15章には父の遺産を分けてもらって旅に出る弟が描かれています。彼は譲り受けた財産を使い果たし、食べるものも与えてくれる人もいない苦境に追い込まれてしまいます。沢山の財産を与えられても、その用い方を誤れば、人の命は尽き果ててしまいます。
そこで主イエスはどんな貪欲にも注意を払い、用心しなさいと言っておられます。「どんな貪欲からも離れて、見なさい、そして見張りなさい」と直訳出来ます。欲望が異常に高められた時に、貪欲になっていくのです。
 財産を殖やすことで、自分の命が守られると考える時に人間は傲慢になってゆくと思います。
主イエスが、一人の金持ちの話をされました。ある金持ちの畑が豊作であったので、今ある倉では収まりきらないほどの収穫を前に、彼は考えます。そして倉を取り壊し、新しいのを建てる決断をするのです。彼は喜んで自分にこう言います。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。しかし、その時に神様の声が聞こえてきます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」
 愚か者と神様はこの金持ちに言われました。しかし、社会的にはこの金持ちは愚か者ではありません。豊作も運がよかったというよりも、この人の作物増産の計画がうまくいったということでありましょう。又多くの収穫を前にして、今の倉を建て替えるという大きな決断も素早く下しています。彼はこの世的には成功者でありますし、人々から愚か者とは言われなかったでしょう。
しかし、神様はこの人を愚か者と言われました。どうしてでしょうか。17節の作物 18節の倉
財産はすべて、わたしのという語が原文では加えられております。又19節の自分は「自分の魂」と訳することが出来ます。すなわち、私の命ということです。この金持ちは財産も冨も命までも自分の「わたしのもの」と考え、彼の中には神の場所も、隣人の場所もありません。
〇神の前に富めること
「セレブ」という言葉が日本語として定着したようで、「人々にほめたたえられ、賞賛される、有名な人」というような意味の言葉なわけですが、日本語となった「セレブ」は、どうも「お金持ち」という意味で使われているみたいです。「ちょっとセレブ気分を味わう」などと言うわけで、それはちょっと豪華な食事をしたり、高級な宿に泊ったりすることを言っています。
ゴージャスな生活へのあこがれは、私も含め人間だれもが多かれ少なかれ持っているものだと言えるでしょう。それは要するに、豊かさへのあこがれ、豊かな人になりたいという願いです。
 アメリカの女性達はパーティと他のパーティーに行くには、同じ服を着て行かないという暗黙の了解があるようですが、セレブの中にある窮屈さと限りない礼装への要求があり、そこに豊かさの中にある不自由さを感じます。そんなところからパジャマパーティーが流行ったようです。
 10月4日に日野原重明さんは、103歳のお誕生日をお祝いされたようですが、パジャマパーティーでお祝したようです。誕生日ケーキのロウソクの後、ご馳走を食べて、その後は、みんなで、カラオケで歌われたようですが、本当の豊かさとは、愛されていることの喜びではないでしょうか。
主イエスがここで教えておられる豊かさとは、神様の恵みによって生きることです。神様が与えて下さっているこの命、この人生が、独り子すらも与えて下さる神様の愛によって支えられており、その支えは死においても失われることがない、その神様の愛を信じて、神様と共に生きることこそが、「神の前に豊かになる」ことなのです。
 小さなものから大きな生物まで、時間という旅を続け、やがて、死を迎えなければなりません。地上の地位も財産も今の喜びも満足も、いつまでも続くとは限りません。そこでは、何を持っていたかというよりも、神様によってどれだけ与えられたかということが大切になりますね。
 神様に新しく創造されていく世界に目を向ける人が、幸いなる生き方ではないでしょうか。永遠の命という素晴らしい冨を、神様は与えて下さるのです。
 何かを得る生き方から、与えられているものに感謝する生き方へと押し出されていきたいと願います。
死は足音も立てずにやってくる。だから週に一度は自分の生き方を考えよう。礼拝は静かに自分の内なる世界を神の言葉に照らして考え、又神に新しく創造されるところではないでしょうか。

11月主題0歳から2歳「おいしいね」 3歳から5歳「みのりがいっぱい」

2014-10-28 12:57:12 | キリスト教保育
11月聖句 「大地は作物を実らせました」
                詩編67篇7節

 木々の葉が色づき、クルクルと葉っぱが舞い落ちます。赤や黄色の葉っぱが折り重なり地面を覆う風景にも思わず足を止めます。野に咲くコスモスの花もきれいですね。又沢山の実りの秋を楽しむことが出来ます。豊かな秋を子ども達と共に、沢山体験したいと思います。
「セレンディピティserendipity」という言葉を知っていましたか?
 「当てにしていないものを偶然にうまく発見する才能」を意味します。何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける才能・能力を示す言葉です。
研究者の中で、よく使われる言葉のようです。実験の途中で失敗から偶然、新しい発見をする、なんていうことだと思います。
これは、誰にでも等しく訪れる偶然ではなくて、何にでも興味を持ち、努力している人に訪れるようです。
自然の中で子ども達と過ごすと、豊かな体験の中で、子ども達にセレンディピティを感じます。「おや・・」と思えることに立ち止まり、見つめずにいられない驚きの世界へと、私達を導き、喜びを分かち合うのです。
子ども達の興味と関心を大切にしたいですね。セレンディピティにつながる時期を大切にしたいと願っています。
セレンディピティを伸ばすには、子育てが関わってくるということは確かなことだと言われています。
 恵みの秋です。様々な実りの季節はきっと、子ども達の心を豊かに育てて
くれることでしょう。
 「おいしい」「実りがいっぱい」の季節の中で、心も体も大きく育ちますように。


 ヘブライ人への手紙9:23~28

2014-10-04 11:06:03 | 説教
キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を捧げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している
人たちに、救いをもたらすために現われてくださるのです。
                              
                                ヘブライ人への手紙 9:28


 レビ記4章には、「もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。」と、人が罪を犯した時のことが書かれています。
祭司が罪を犯した時、つかさたる者が罪を犯した時、また、一般の人の場合など、いけにえにする対象物が雄牛、雄山羊、雌山羊などと動物が違うだけで同じことが書かれています。
ユダヤ教では無傷の動物の血を注がねばならず、たとえ自分の体に傷をつけて血を流してもダメで、他のものの犠牲によらなければ救われないという教義がありました。
 罪のゆるしと犠牲との関係はわかりにくいところがあります。
 しかし、このようにして、犠牲が繰り返されました。
血を注ぐ、という事柄。日本人には理解しにくいことであります。グロテクスな印象を受ける人もいます。しかし、ユダヤ人の感覚で言えば、あくまで命を献げる、という意味が込められております。

 アダムが善悪の知識の木の実を食べたとき、裸であることの恥ずかしさを知って、それを覆うためにいちじくの葉をつづり合わせて腰のおおいを作りました(3:7)。けれどそれは、すぐに朽ちるものですから、創世記3章21節では、神様は動物を殺し、皮をはぎ、着物を作ってくれました。
アダムは罪を覆うためには血を流さなければならないことを知りました。アダムの罪を悔いる心には「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ことが深く印象づけられたことでしょう。
 私たちは、多くの犠牲によって生かされていることは確かなことです。動物の肉や野菜などを食べて生かされています。
 神が罪深い者ですが、恵みで生かして下さっている。
 罪からのゆるしも、動物の犠牲により、そのことを思い起こさせているかもしれません。
 血は生命そのものをあらわし、尊いものによって、罪ゆるされることを願った民は犠牲を意識することが出来たということです。
 人間救われるためにも、犠牲が大きな意味を持つことは確かです。子どものために自分の時間をとられたくないと。でも、子どもの心の栄養となるのは犠牲です。小さな忍耐
我慢 献身というものが、心の栄養となることは確かです。
 動物の犠牲とあまり関係がない日本の国に住んでいますが、改めて無意識のうちにも、私たちは他の命によって支えられ、生かされていることを意識することも大切なことかもしれません。
 この世には、他人に代わってもらえることと、代わってもらえないこととがあります。物質にかかわることは、代理してもらえます。しかし、人格的なこと、精神的なことは、ひとに代わってもらうことはできません。自分の代わりに勉強してもらったり、代わりに死んでもらうわけにはゆきません。

罪の罰を受けることも、代理不可能な世界です。それなのに、世界にただ一度だけ、たったの一人のお方だけ、わたしの代理人がいます。十字架のイエス・キリストです。キリストが、わたしたちに代わってご自分の命をささげ、罪のゆるしを実現されたのです。
神様ゆえにそのことが出来ました。
 私たちに代って、主イエスは罪人の受ける裁きを受けられ、そのことによって私たちは神様によってゆるされ、受け入れられるのです。
 
 2000年前に十字架で死を遂げられたイエス様が、私たちの救いにとって大切なのです。
 ラザロの死に対して、主イエスは同情して、涙を流したと聖書にあります。
 私たち人間の罪と死に対して深い同情をあらわされる神の子は、私たちの罪の問題に対して、小さなことととらえずに、血を流されたのです。
 その血によって、私たちは贖われるのです。贖われるというのは
 たとえば、薬が、その病気に効果あり、病気を治せば、とても有り難いことです。しかし、しかし、薬が効かなくて、病気が続けば、薬ビンを見るごとに、自分が病気であることを知り、それに効果がないと知ります。
 手を洗っても、洗っても。罪の汚れはとれません。
 動物の犠牲もある意味では、罪のゆるしのためでしたが、罪からの救いとことに関してはあまり効果がありませんでした。
 
 イエス様の尊い十字架の犠牲が、多くの罪人をゆるし、きよめていることは真実です。
自分を堕落から救うために命を捧げてくださる方がいれば、その愛に応えたいと思います。
 一回限りのキリストの犠牲が、多くの命を贖い、共同体を生み出しています。
  世界聖餐日です。聖餐式の購いを通して、私たちも一つとされていくことを願いましょう。
 キリストに贖われた者同士、ゆるしあい、支え合い、助け合い、新にされていきましょう。
キリストの購いの血によって、罪から救われ、新にされていくことを願いましょう。
 人は様々な死や痛みに出会うことによって、よりよい生き方を目指すようになる。そうした意識を持つようになるのではないでしょうか。
 キリストの犠牲は私たちを愛する者へと促していくと共に、共に働いて下さり、救いへと導く大きな力の源です。今、その恵みの聖餐式にあずかれる喜びに感謝しましょう。
「創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面にはこうあります。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。
 罪を犯して、エデンの園を追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守ったり、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。
罪ゆえの惨めさが晒された時に感じる恥ずかしさ。それを神ご自身が動物の犠牲によって覆ってくださる!人間の弱さをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛が現われています。
キリストに贖われた共同体はキリストを着ています。罪という外敵から身を守ってくださり、罪と恥と絶望から私たちを守るために、キリストは衣となり、神にとりなして下さいます。キリストの犠牲の愛に包まれている共同体であることに希望を持っていきましょう。