兵庫教区 被災者生活支援・長田センター柴田信也先生が、7月20日に来会されました。
耶馬溪、山国町、日田、玖珠、竹田をご案内しました。中津教会のみならず、玖珠教会、竹田教会も訪問して下さいました。
耶馬溪の橋が流されていました。
日田市社会福祉協議会もボランティアを募っていましたが。この日は、大雨
警報が出ていたので、活動はお休みとなりました。
竹田市にはいりました。線路の上には瓦礫があり、いつ再開するかがわかりません。
竹田市の災害廃棄物が置かれていました。
子どもの教会 大人の礼拝と二人の方が説教奉仕をして下さいました。
子どもの教会は、冨永健寛兄がお話を担当して下さいました。
子どもの教会担当者も、小さい時から 良く知っている兄弟の、初めて
の礼拝での証のご奉仕です。聖書はマタイによる福音書22章37節~39節。
中学時代に、つらいことがあった時に、御家族や御親友の方に支えを受け
「強い味方がいるんだと安心できた」と話されました。
そして、「今まで、自分を支え、守って下さったイエス様、皆様との出会いに感謝し
たい」と述べておられました。
いずみの森でのお仕事、がんばってください。
心を込めた、兄弟の東日本大震災の被災地へのお祈りに、礼拝出席者も心を合わせま
した。冨永健寛兄、ありがとうございました。
主日礼拝は藤吉文佳先生がご奉仕して下さいました。「生命の回復」
(使徒言行録9:36-43)と題しての説教です。
羊の群れである教会が、集まって集会を守っているところを狼に見つけられると
牢獄に入れられる。そういう時代背景の中で語られた聖書箇所です。
羊が集まれば、集まるほど狼に狙われる時代です。
ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、
「タビタ、起きなさい」 と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
9:40節に書かれています。
私達は、人の命の回復のために、真剣に祈っているだろうかと問いかけられました。
神は新しい奉仕のために、生き返りなさいと呼びかけられています。
その言葉に促されて、他者のためにとりなしの祈りを捧げたいと思います。
ゆったりした、語り口調に、礼拝堂が暖かい雰囲気になりました。
藤吉先生ありがとうございました。
子どもの教会は、冨永健寛兄がお話を担当して下さいました。
子どもの教会担当者も、小さい時から 良く知っている兄弟の、初めて
の礼拝での証のご奉仕です。聖書はマタイによる福音書22章37節~39節。
中学時代に、つらいことがあった時に、御家族や御親友の方に支えを受け
「強い味方がいるんだと安心できた」と話されました。
そして、「今まで、自分を支え、守って下さったイエス様、皆様との出会いに感謝し
たい」と述べておられました。
いずみの森でのお仕事、がんばってください。
心を込めた、兄弟の東日本大震災の被災地へのお祈りに、礼拝出席者も心を合わせま
した。冨永健寛兄、ありがとうございました。
主日礼拝は藤吉文佳先生がご奉仕して下さいました。「生命の回復」
(使徒言行録9:36-43)と題しての説教です。
羊の群れである教会が、集まって集会を守っているところを狼に見つけられると
牢獄に入れられる。そういう時代背景の中で語られた聖書箇所です。
羊が集まれば、集まるほど狼に狙われる時代です。
ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、
「タビタ、起きなさい」 と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。
9:40節に書かれています。
私達は、人の命の回復のために、真剣に祈っているだろうかと問いかけられました。
神は新しい奉仕のために、生き返りなさいと呼びかけられています。
その言葉に促されて、他者のためにとりなしの祈りを捧げたいと思います。
ゆったりした、語り口調に、礼拝堂が暖かい雰囲気になりました。
藤吉先生ありがとうございました。
わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
ヨハネによる福音書4:34
私達の食べ物は、摂取する、体内に取り入れることのみが多いのですが、別のすなわち神様の食べ物は、与えずしてただ受けることのみの貪り、私腹を肥やすこととは違い、神から受けた命・愛を他に与えるということです。
イエス様は一人のサマリヤの女に神様の愛を伝えました。そして、この人は変えられていきました。それのみらず、多くのサマリア人に伝道しました。その人たちがイエスのところに向かった来たのです。
一人の女の人を救うお働きに専念したイエスは、その実りを多さから、目の前に食事があるけれども、その飢えを満たされたような気持ちである。生きる力にあふれているとおっしゃっています。
今もこのイエス様の情熱は私達に注がれています。3度の飯よりも、デザートが好きという人が世にはいますが、イエス様は3度の飯よりも私達の救いのためにお働きになるのがお好きなのです。と言っても肉の糧をないがしろにしているわけではありませんが。 イエス様に救われたサマリアの女も、水瓶を捨てて、神さまのお手伝いをしました。
命を支える水を後回しにするほど喜びがあったのです。
食物は、その人の生を支え、その人を養い育てるものです。信仰生活を、非常に厳格なものとして、又喜びのないものとして受け止めていないでしょうか。
主イエスは、み国を来たらすために、食物を楽しむように、喜んで働かれたと思います。
そのために肉の糧を食べたのです。
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」というみ言葉は、私たちの生き方を根底から変えていく主の言葉です。
主は弟子達にまだ4ヶ月もしなければ刈ることの出来ない青い麦畑を見せたです。
しかし、そこから、サマリアの女の伝道によって救われた人々が、主のもとに押し寄せて来たのです。
私達も私腹を肥やす生き方ではなく、この喜びへと招かれています。
草食動物は、緑の草を食べて、それを自分の栄養とし、自分の命とすることが出来ます。草を食べられない肉食動物は、草食動物を食べることによって、草食動物が草を食べて得た栄養を自分のものと出来ます。
み心を行う力が、乏しくても、イエス様の愛を頂くことによって、イエス様の愛から他者に向かうことが出来るようになるのです。
人の救いのために働くこと。その人の幸福のために働くこと。その人の笑顔が私達を幸福にします。子どもの笑顔を見ると、子どもを喜ばせているはずの、自分がうれしくなるように。
井上ひさしさんの著作「握手」について、子どもの教会の担当者の久恒さんがお話をされました。
少年は孤児でルロイ修道士の孤児院で育ちます。ルロイ修道士は、指先を日本兵に潰されるという酷い仕打ちを受けたにも関わらず、子供たちに愛情深く接しておられました。
孤児院を卒業した少年は、久しぶりにルロイ修道士と会い、食事をします。かっての少年は、修道士の死期の近いことを感じ取ります。この方との出会いと交わりを、「人間としての栄養をもらっている」と表現されていました。
地上の食べ物以外に、人間としての栄養をもらう大切な食べ物があるのです。
「人間としての栄養」という言葉は、心の琴線にふれる、印象的な言葉でした。
ヨハネによる福音書4:34
私達の食べ物は、摂取する、体内に取り入れることのみが多いのですが、別のすなわち神様の食べ物は、与えずしてただ受けることのみの貪り、私腹を肥やすこととは違い、神から受けた命・愛を他に与えるということです。
イエス様は一人のサマリヤの女に神様の愛を伝えました。そして、この人は変えられていきました。それのみらず、多くのサマリア人に伝道しました。その人たちがイエスのところに向かった来たのです。
一人の女の人を救うお働きに専念したイエスは、その実りを多さから、目の前に食事があるけれども、その飢えを満たされたような気持ちである。生きる力にあふれているとおっしゃっています。
今もこのイエス様の情熱は私達に注がれています。3度の飯よりも、デザートが好きという人が世にはいますが、イエス様は3度の飯よりも私達の救いのためにお働きになるのがお好きなのです。と言っても肉の糧をないがしろにしているわけではありませんが。 イエス様に救われたサマリアの女も、水瓶を捨てて、神さまのお手伝いをしました。
命を支える水を後回しにするほど喜びがあったのです。
食物は、その人の生を支え、その人を養い育てるものです。信仰生活を、非常に厳格なものとして、又喜びのないものとして受け止めていないでしょうか。
主イエスは、み国を来たらすために、食物を楽しむように、喜んで働かれたと思います。
そのために肉の糧を食べたのです。
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」というみ言葉は、私たちの生き方を根底から変えていく主の言葉です。
主は弟子達にまだ4ヶ月もしなければ刈ることの出来ない青い麦畑を見せたです。
しかし、そこから、サマリアの女の伝道によって救われた人々が、主のもとに押し寄せて来たのです。
私達も私腹を肥やす生き方ではなく、この喜びへと招かれています。
草食動物は、緑の草を食べて、それを自分の栄養とし、自分の命とすることが出来ます。草を食べられない肉食動物は、草食動物を食べることによって、草食動物が草を食べて得た栄養を自分のものと出来ます。
み心を行う力が、乏しくても、イエス様の愛を頂くことによって、イエス様の愛から他者に向かうことが出来るようになるのです。
人の救いのために働くこと。その人の幸福のために働くこと。その人の笑顔が私達を幸福にします。子どもの笑顔を見ると、子どもを喜ばせているはずの、自分がうれしくなるように。
井上ひさしさんの著作「握手」について、子どもの教会の担当者の久恒さんがお話をされました。
少年は孤児でルロイ修道士の孤児院で育ちます。ルロイ修道士は、指先を日本兵に潰されるという酷い仕打ちを受けたにも関わらず、子供たちに愛情深く接しておられました。
孤児院を卒業した少年は、久しぶりにルロイ修道士と会い、食事をします。かっての少年は、修道士の死期の近いことを感じ取ります。この方との出会いと交わりを、「人間としての栄養をもらっている」と表現されていました。
地上の食べ物以外に、人間としての栄養をもらう大切な食べ物があるのです。
「人間としての栄養」という言葉は、心の琴線にふれる、印象的な言葉でした。