日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

3月主題「ありがとう」

2013-02-28 16:29:21 | キリスト教保育
 光の子として歩みなさい。
              エフェソの信徒への手紙5:8
 
 新しい春をむかえる月となりました。春は「張る」から来たという説が有力です。つぼみも膨らみ、張ってきます。また、様々な命が輝き始めます。グレース保育園の毎日の生活で、様々な体験をした子ども達が、大きくなりました。育てて下さって神様に心から「ありがとう」と感謝をあらわしたいと思います。
 幼児期に身につけることで大切なものは3つあります。「感動する力」「吸収する力」「考える力」です。この3つの力が心の土台となります。リンゴの真ん中に固い「シン」があり、そこに種が詰まっています。人格の中心は自我という強い「シン」(核)があり、幼児期にその基礎が作られます。
 感動の中でも、最も素晴らしい感動は、神によって感動させられることです。神様の愛に心動かされたイエス様の弟子達は、光の子として用いられました。尊い働きをしました。又困難に負けない強い人となり、周りの人に神様の愛の光を伝えました。
 幼い時の記憶は、いつまでも心の支えとなることでしょう。きっと、子ども達はこの世界を明るく、暖かい世界に変えていくことでしょう。
 そして、保護者の皆様にお勧めする感謝があります。それは、子どもの存在を感謝することです。
 子どもの笑顔や無邪気さ、好奇心、無垢なエネルギー、子どもから素敵なものを沢山受け取ることが出来ます。喜びや「ありがとう」の気持ちを、どうぞ、子ども達にお伝えください。
 自分のことを大切にし、喜んでいる皆様の姿を見て、情緒的に安定し、自己肯定感を育み、意欲を持って取り組む人となります。

マタイによる福音書12:22-32  「悪と戦うキリスト」

2013-02-28 16:26:01 | 説教
群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
                マタイによる福音書12章23節


 悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、主イエスのところに連れられて来られました。
 イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになりました。この奇跡を見た人達に二通りの反応がありました。
 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。
 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いました。主イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」と。悪霊の頭が制圧されているから、主は大きな働きをなされたのです。
 群衆の態度は、主のみ業を見ることによって驚いたということであります。
感動することは、私達の生涯にとって大切なことです。又小さい時からも心動かす体験は大切な事です。
 感動することが無い毎日は何か、張り合いがなくなってしまいます。
 12:23 群衆の驚き。群衆の反応は、心動かされる感情です。明らかにイエスさまの悪霊を追い出す権威に対する驚きです。
 山よりも周りの雲に目が引かれるように、この世界は悪の働きが大きいとみなしている
ニヒリズムの人がいます
この世では人を救うよりも痛めつける力が大きく働いているように思えたり、正しさよりも悪が力を振るっているように感じる時があります。そのような暗い悪に満ちた世界ばかりを見ていると。山よりも雲を見ていることになります。悪霊の力が強力であると認めてしまうのです。
 しかし、今日の箇所では、主が悪霊を倒されたのです。それを、悪霊の力によってなされたと言うのは、神の働きを疑わせる悪霊の虜になっているということです。
主は悪霊の虜になっているファリサイ派の人々を奪い返そうと、すでに悪霊相手に戦っておられます。
群衆は「ダビデの子」と主イエスに向かって叫んでいます。
来たるべきメシア(救い主)はダビデの家系から出てくると旧約の時代から信じられていましたが、「主イエス・キリストがその方である」と、悪霊追放の業を見て、驚き告白したのでありました。
 この「驚き」という言葉は、大いなる感動を意味しています。その驚きとは、イエスさまのなされたことに対する心からの驚きです。
 この世界には、いろいろと心動かされるものがあります。芸術・講演・スポーツと。
感動には心に潤いを与える効果があります。
 感動の中でも、最も素晴らしい感動は、神によって感動させられることです。
 目の見えない、口の利けない人への主の愛を驚きを持って受けとめることです。
 十字架にその身を捧げてまで、私達を愛して下さる主イエスの愛に感動することが、最も素晴らしい感動です。
 神様の慈愛に感動して、心動かされた人々は宣教の業に用いられていきました。
 困難をものりこえ、愛の証人となり、人々を支え励ましたのです。 
単に知的な関心だけで、聖書に触れていないでしょうか。聖書の中には私達の心を動かす神の深い愛が示されています。心の底から驚く聖書の読み方が大切です。
 目が見えずに口の利けない人が出てきます。状況が正しく認識出来ずに、語るべき言葉も持てないということです。頭の中で、ねじ曲げられたものしか伝えられないような状況があるとすれば、イエス様に心の目を癒して頂くことが大切です。心を動かし、心を支え、心を強くしてくださる神様の愛を見えるようにして頂くことが大切です。
  ことばというのは人間の宝物です。それを豊かに使えることが、大切なことです。
 豊かに使えるということは、神様の愛の証し人となることです。
 聖霊の照明の力が、悪魔の闇を駆逐し、神様の愛をこの世界に輝かせるのです。


マタイによる福音書4:1~11 「荒野の誘惑」

2013-02-28 16:05:58 | 説教
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」   マタイによる福音書4章10節

 レントとは日曜目を除いたイースター前の40日間のことを言います。この日数は、荒野でイエスが悪魔の試みにあった40日間に対応してします。
 40日40夜断食をしたイエスは、荒野で悪魔の試みを受けます。「石をパンに変える誘惑」「神殿の屋根から飛び降りる誘惑」と、自分の欲望を神としたり、神様を試すという誘惑に合うわけであります。しかし、イエスはそれらの誘惑に勝たれました。
2度の試みに失敗した悪魔は「世のすべての国々とその繁栄ぶり」、を見せて、「もし私を拝むなら」,それらをすべて与えますと誘います。悪魔は神の栄光ではなく、世の栄光を選ぶようにイエスを誘います。
 ここで「拝む」と訳された言葉は、相手の足や裾に接吻し、その相手が神であることを表しています。悪魔は自分こそが神であることを認めるようにイエスに求めます。
悪魔の示したのはパレスチナ全土であり、知る限りの広い世界でありました。高い山頂から下界を見ると、人間の営む業が眺められます。そこには建築物もあり運河もある。これら一切ものを支配することは人間の願望であります。
 しかし、それを手に入れるために、悪魔の手をかりてはいけません。
マルティン・ルターが、彼を悩ますサタンに向かって、インクの壺を投げつけたという話が伝えられています。彼にとっては悪魔は、現実的な存在だったのでしょうか。
陸にロープでつながれた船があったとします。ロープを引き寄せた時に、船がこちらに来て、陸は船の方に行きません。私たちも神様の思いを知る前に、神を自分の方に引き寄せようとしていないでしょうか。人の悩みを傾聴する時も、同じ姿勢が求められていきます。
イエス様はみ言葉に踏み止まりました。そして、神様の思いを受け止められたのです。私たちも、み言葉を傾聴して、神の思いを知りましょう。また、そこに豊かな祝福があり、悪に打ち勝つ力が宿っています。
 ヨーロッパの伝説に「ファウスト」がある。この伝説は悪魔に魂を売って若返り、世のすべての知恵や魔法を身につけるファウストの生涯に関するものである。しかし、最後には、悪魔が魂を売った契約書をたてに、その魂を奪いにやってくる。
 神様のことを思わないで、「あれも欲しいこれも欲しい」ということばかり考えていると、悪が来て、私達をさらっていくことでしよう。神様のおっしゃることを聞き、神様のくださることを頂くことが大切です。
 神様のことを思わないで、富や物質的豊かさのみを求めてしまうと、本当の豊かさを見失ってしまいます。
そればかりに心を奪われると、実現しつつある神の国も見えなくなります。
 子どもを見る時やその存在を受けとめる時は、「愛でる」という心の態度が必要です。
「愛でる」とは対象と程良い距離を置きそれを味わう気持ちをこめて眺める行為です。
 子どもは批評したり査定したり、評価される対象ではなく、まず愛でられる対象です。
 悪魔が示した繁栄への誘惑。それは、大人の心を、物質主義や物品の品質管理の価値観で染めていきます。むしろ、子どもに働きかける神様のみ業を受けとめたいと思います。
 人間の欲に心を奪われるのではなく、あるがままの子ども受けとめられた神様の思いを受けとめる時に、素晴らしい世界が開かれていくのです。
 10節の退けサタン」は、16章23節にもあります。直訳すると「立ち去れ。私の後ろにサタンよ」となります。イエスの前に立ち、その歩みを止めようとする者はサタンと呼ばれています。イエスの後ろに回り、イエスに従うことが求められています。

マタイによる福音書14:22-36 奇跡を行うキリスト

2013-02-12 11:52:36 | 説教
イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」
               マタイによる福音書14:27


 主イエスは弟子達を強いて、船に乗せて向こう岸に渡らせました。船はガリラヤ西北の町を目指しました。ところが弟子達を乗せた船は逆風のために前に進まなくなりました。波に悩まされ、弟子達は右往左往していました。
ガリラヤ湖は、絶えず揺れ動くこの世界を象徴しています。陸に比べて海は、変化しやすく不安定であります。そこは不可測性・不気味な環境です。
聖書の中では荒れる海は人間に襲いかかる悪の力にしばしば譬えられます。
ペトロを代表するキリスト者の少数者の群れもユダヤ教やローマの迫害を受けて、揺り動かされました。
この世を旅することは常に沈みかける危険にさらされます。
人生にも様々な波風と嵐があり、自分の知識や力だけではどうにもならないことが多くあります。わたしたちにも祈りが必要なのです。静かな山の上と、嵐の海に象徴される山の下の動揺は、祈りの世界と祈りのない世界の違いを現しているように思います。
 山上の主イエスは、弟子たちの困窮に心を痛め、急いで山を下り、荒れ狂う湖の上を歩いて弟子たちのもとに近づきました。それは海の底へ引きずりおろすものとの戦いです。
人間を襲う死の力があっても、確かな基礎があるのです。波が押し寄せても揺るぎない岩があるのです。それが救い主イエス様です。
14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。
主イエスはわたしのところに来なさいとおっしゃっています。船にいるよりも、波の上の主イエスのところは平安であるというのは不思議な対立であります。ペトロにとって海上の安全地帯は、イエスのところにありました。
14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。
嵐の海の中で、ペトロが一歩を踏み出し主イエスのもとにいったことは、他の弟子になしえなかったことです。本当の失敗は私たちが主イエスのところに踏み出さないことです。 イエスについてきた人は自分の家や周りを見ているともうとても立つ瀬がないのです。沈むばかりです。しかし、イエスを見ていると元気がでてくるのです。イエス様から目を離すと、もう駄目だとなる人たちです。
イエスだけが頼りであり支えであるという信条がここに示されています。
現代も、さまざまな嵐が逆巻いて、私達を襲うことがあります。主はそこにも生きて働いておられます。
 私たちの生活は、嵐の中を歩く営みです。日常で、安全が確保された舗装道路を歩いていても、沈みかける危険は伴うことがあります。暗い海の中に身を沈めてしまいそうな時に、山でとりなしの祈りを捧げて下さったイエス様がそばにいらして下さり、私たちをすくい上げてくださるのです。
私たちの肉の目には主イエスは見えません。ある意味において、この記事のように「海を渡る舟にのっているのは私達だけだ」と思えるところに立っています。
 しかし、私達の歩みは主イエスに覚えられているのです。主イエスが父なる神様に私たちのことをとりなしていて下さいます。そのとりなしの祈りに私達は支えられています。
 そして、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」語りかけて下さるのです。
詩編107:20には、「主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された」とあります。
「安心しなさい」という言葉は。9章の2節と22節の「元気になりなさい」と同義語です。不在の船に主が降りてきて、み言葉を語りかけて下さいます。山の上の平安を分けて下さり、元気を下さいます。
 きっと後の時代の人にも同じ体験が与えられることを福音書記者が述べています。