日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

使徒言行録24:10-21「復活の希望」

2020-07-25 16:53:23 | 説教

 


       神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。

                                              使徒言行録24:16

 

 

 パウロがカイサリアに到着して5日後、祭司アナニヤは、テルティロという弁護士を伴い、わざわざ総督フェリクスにパウロを訴えに来ます。テルティロはローマの総督フェリクスに向かって、歯の浮くようなお世辞を並べた後、パウロを「世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者」で、神殿を汚そうとした、と告訴します。(24:1-9)

 

  テルティロは弁護士でアナニヤに雇われた通訳兼、話術の立つ告発者でした。

 テルティロの訴えではパウロさんを、『疫病のような人間』(24:5)と言っています。それほど、パウロに敵対する人々にとって、パウロの宣べ伝える主イエスの福音は脅威だったのです。

 多くのユダヤ人にとってキリスト教は、ユダヤ教の異端と考えられていました。

 

  大祭司の告発は根拠のないものだった。

 ローマの総督の前でパウロは弁明します。

「ローマの法律に反することはしていない」「むしろ暴動の首謀者はユダヤ人である」「私はまちがった教えを述べているのではなく、復活の希望を語っている」

 使徒言行録は一貫して、キリストの教えが騒乱をもたらすものではないと主張します。

 総督に促されて意見陳述を行ったパウロは、堂々と身の潔白を述べ、たじろぐことはありませんでした。

-使徒24:10-13「総督が、発言するように合図したので、パウロは答弁した。『私は、閣下が多年この国民の裁判をつかさどる方であることを、存じあげておりますので、私自身のことを喜んで弁明いたします。確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠もあげることができません。』」

 16節にもありますように、パウロは自分が助かるために弁明するのではなく、良心に従って話しています。

 「良心」という言葉が出てきました。良心とは良い心という意味ですが、辞書を引きますとこうあります。「何が善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」(広辞苑)。善悪を判断する、それぞれの人が持っている道徳意識だと説明されています。

 つまり、自分の心の内にある道徳意識に従って行動することが、良心に従って行動することである。一般の辞書はそのように説明をしています。

 

 しかし聖書が言う良心とは、これと少し違うところがあります。改めて一六節ですが、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心」とパウロは言っています。パウロは第二三章の一節のところでも、「良心」という言葉を使ってこう言っています。「あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」(二三・一)。パウロは単に良心という言葉を使うだけでなく、「神に対しても人に対しても」「神の前で」という言葉と共に「良心」という言葉を使います。

 自分の内にその基準があるのではなく、パウロが持っていたのが神から与えられた基準だったからです。神と人に対する基準を良心としていたのです。

 良心という言葉はギリシャ語ではシュネイデーシスという言葉が使われています。英語のconscienceの語源になっている言葉です。それはCON(共に)SCIENCE(知る)という意味です。良心は単にひとりよがりの判断ではありません。

 共に知る上での判断となります。一緒に知り合うのは対話や話し合いで物事を決めることになります。神と自分との対話を通して、物事を知り、判断していった良心ということです。権力者の前でへつらうことなく、自分の思いを隠さず、対話にはいっております。

 パウロはフェリクスと対話の姿勢をもっています。そして、そこに神様の視点を持っているということです。

15節に正しい者も正しくない者もやがて復活すると書かれています。

 ファリサイ派の人々は、正しい者のみが復活するという考えに立っていました。一方サドカイ派は復活そのものの否定をしていました。

 このパウロの言葉が意味するところは何でしょうか。

 万民が等しく、復活して、神の裁きを受けることを意味しているという説もあり、これも確かなことであると思います。

 又ファリサイ人が正しくないものと排斥した人が、本当に正しくないのでしょうか。逆転の構造を受け止めてもいいかとも思います。

 良心が対話によって位置づけられるとすれば、私たちが良心と思っていることがまちがった方向に行こうとした時に、軌道修正されることもあります。

 

 浴槽についたカビのように、私たちには罪があります。ほっておくとそれは広がり、健康にも害を与えることでしょう。

 誰もが罪を持っています。正しいと思っていても、人間には罪がありますから、神の正しさと照らし合わせることも大切です。

 みんなが罪人です。救われる道はキリストを信じ、その愛の導きによって生きるほかありません。その生き方が来たるべき復活後の裁きに備えることになります。

  新島襄のめざした同志社教育の原点は「良心」です。その「良心」とは聖書に示される良心です。新島襄が望む人は「少々角ありも可、良心溢るる若者」(少しぐらい変わっていて枠に収まらなくても、温かい心と良心が溢れた若者)だそうです。


使徒言行録9:36-43 「生命の回復」

2020-07-25 16:50:45 | 説教

ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。

                                                               使徒言行録9:40

 

ペトロとタビタという女性の物語です。

教会を巡回していたペトロが、リダという町に滞在していました。リダから20㎞ほどの港町、ヤッファから2人の人がやって来て、ペトロにお願いします。

「急いでわたしたちのところへ来てください」(38節)。「急いで」と、詳しい事情も告げられぬままに2人と一緒に出かけていくと、幾人もの人たちが待っていて、ペトロを階上の部屋に通しました。そこにはタビタの遺体が安置されていました。

タピタはアラム語です。ギリシャ語では「ドルカス」という名前です。「かもしか」を意味する言葉であります。この女性は、夫に先立たれたやもめの世話をして、大変評判の良い人でありました。多くの人から慕われていました。

死んだ後も、家族が出てこないので、この女性も夫に先立たれたと想像することが出来ます。共同体のリーダー的存在でした。かもしかを意味する名前に象徴するように、活動的で、敏速に対応する人であり、愛情深きやさしい瞳の持ち主でありました。たくさんの良い行いと施しをしていたということで、ヤッフアの信仰共同体の人々にとって、大きな支えになっていたと考えられます。

ヤッフアは港町であり、通商の要路でありました。海難事故などで命を落とす人もおり、やもめになる人がいたようです。そんな人たちのタビタは心の支えでありました。

そんなタビタが病気で死を迎え、みんなは悲しみと失意のどん底に落ちてしまいました。

死後すぐに遺体は埋葬することになっていました。死体は汚れを負っていると考えられていたからです。しかし、タピタはしばらく2階に安置されていました。

キリスト教の信仰的背景があったからでしょうか。死は眠りであり、永遠の命へとつながる入り口であるという考え方は、汚れというイメージを覆していったのであると考えられます。

又リダにいるペトロの噂を聞いたからでしょうか。ペトロならなんとかしてくれると思ったかもしれません。もしくは、主の言葉による葬儀をペトロに頼みたかったと思われます。

「急いで来てください」の使いの声は、切迫感 緊急性 ペトロへの信頼を表現しているように思います。

 ペトロは急いで、ヤッフアに向いました。

ペトロはヤッファのその家に到着しました。タビタの遺体のもとに来ると、たちまちやもめたちに囲まれます。やもめたちは涙ながらに、「ドルカスが下着を作ってくれた」、「彼女はこの上着を贈ってくれた」と衣を見せて訴えます。「ドルカスが一緒にいたとき」(39節)何をしてくれたかということを、一生懸命に伝えています。

 タビタはまさに、その名の通りに活発で慈愛に満ちた人であったということです。

ペトロは、感情の溢れ出た部屋で、皆を外に出します。そして静かに跪いて祈り始めます。祈りのうちにタビタの遺体に向かうと、ペトロはこう言います。「タビタ、起きなさい」(40節)。

小さい頃は、朝になると母親に起こしてもらった記憶があります。

今は自分の力で起きていますが、ここに書かれている「起きなさい」はそのような声にも似ています。子ども達もお泊りを幼稚園・保育園で経験することがありますが、彼らにとって大きな経験は、夜を過ごすことです。

ここで、ペトロの力が、彼女を起こしたと理解される方もいますが、そこにはイエスさまのみ力が働いております。

「タリタクム」という言葉に聞き覚えのある方がいらっしゃると思います。マルコによる福音書5:41に出てくる言葉です。「少女よ起きなさい」という意味のアラム語です。

ペトロの呼びかけとイエスさまの少女を甦らせた呼びかけの音が似ているのは、使徒言行録の作者が意図的にそうしたということであります。そこにはメッセージが込められております。すなわち、ペトロは主イエスの力・主の呼びかけによって、タビタを死から呼び起こしたのです。

死者が起き上がり、立たせられるという出来事が起こりました。

「起き上が」(アナカティゾー)ることは、タビタの息が吹き返したこと、そのことでタビタが横たえていた床から身を起こしたことを示します。「立たせ」(アニステーミ)られることは、身体を起して座っているタビタを、さらに立たせた、ということを意味します。この「立たせる」(アニステーミ)という言葉は、「立たせる」「復活させる」の二つの意味があります。

死と絶望が支配しているところに、神は栄光を表され、タビタと残された人を立ち上がらせたのです。

 この起き上がりは、復活に向かって歩き出すことを意味します。しかし、そのことにはいろいろな奥義があるように思います。

 本日の聖書の区切りは、ペトロが皮なめし職人のところに滞在したところにつながっています。

 皮なめし職人というのは動物の死体を扱うので、汚れを負った人として差別されていました。皮なめし職人と結婚したら離婚しても良いと言うまちがった考え方もありました。

 立ち上がりには、そういうまちがった考え方からの自由になることも含まれています。

ペトロは異邦人伝道の妨げになっていたユダヤの食物規定からも解放されていきます。

既成概念からの立ち上がり、勇気ある証言すべてが、立ち上がるには含まれています。

 立ち上がりは単に体が立ち上がるだけではなく、深い意味があります。

 イエスさまの力と知恵に支えられて、新しい一歩を踏み出すということです。それが復活的立ち上がり・復活的行動への促しなのです。

 私たちも虚無や死の力に抗いつつ、神様から起こされることを願いたいと思います。 


エフェソの信徒への手紙2:14-22 「異邦人の救い」

2020-07-11 16:17:40 | フォトギャラリー

「実にキリストはわたしたちの平和であります」 エフェソの信徒への手紙2章14節

 

 私たちの世界には、残念ながら、多くの「分裂」があります。国家や民族や宗教などの違いは、本来、社会の多様性として認められるべきものです。

 とこらが、敵意というものが加わると、平和をなぎ倒す力が働いていきます。

 違いを超えて互いに理解を深め、共に助け合い、支え合いながら、お互いの幸せのために力を尽くす関係が生まれる社会が実現していけば良いですね。

 

「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」2:14

 当時のユダヤの神殿には、イスラエルの庭、婦人の庭、異邦人の庭を隔てる厚い壁がありました。神殿の聖所の周囲にはユダヤ人の男性だけが入ることができ、女性は隔ての壁の外側に、さらにその外に異邦人の庭が設けられていました。異邦人たちは神を礼拝する聖所から遠く隔てられていたのです。

 そして、どれほど熱心に神を求める人でも、異邦人である限り、いけにえをささげる中庭に入ることは許されませんでした。もしこの石垣を超えて中に侵入しようとする異邦人があれば、死刑に処せられます。

 その壁の高さは1・5メートルほどの高さです。見える形では、大人なら乗り越えられないことはありませんが、見えない壁があったということです。

 この見えない壁というのは、異邦人に対するユダヤ人の敵意というものです。当時、ユダヤ人・異邦人には乗り越えられない壁でありました。敵意が満ちていたのです。それは水と油のように混じらないような関係であり、根深い壁でありました。

 ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人を蔑視していました。

  しかし、キリストにあってこの隔ての壁が打ち壊され、ユダヤ人と異邦人という二つの敵対する陣営が、一つの共同体として神様を礼拝する。かつての2つの敵対する陣営が、一つの教会をなすことが起こっていきました。

 この共同体が世に印象深く刻まれていきました。

 エフェソの教会には、ユダヤ人とユダヤ人ではない異邦人が共にいました。両者は独自の背景を持っていました。

 ユダヤ人たちは、旧約に描かれるように神の民としての長い歴史を歩んでいました。神に選ばれた民として、律法を与えられ、導かれてきた歴史を持っていました。独自の割礼という身体に刻む儀式を持っていて、それが神の民であることの印でした。

 国が滅ぼされ国土を失っても、世界に散り散りになっても、それぞれの土地で、神の教えを守り貫く独自の共同体を形成していきました。そして、国が再建され神を礼拝する神殿がエルサレムの町に再建されると、世界の国々からユダヤ人たちが訪れ、神を礼拝するために神殿に参っていました。

 

 そんな背景を持つユダヤ人たちは、初代の教会の中においても、我こそ神に選ばれた民に属すとの自負心を引きずっていたと考えられます。

 他方、ユダヤ人ではない異邦人たちは、様々な神々を礼拝し、その多様性と宗教的寛容を誇り、ユダヤ人たちの信仰を偏狭だと敵意を抱いていていました。

 教会の中になお残る、ユダヤ人と異邦人の対立に対して、この手紙の著者は、イエス・キリストによってもたらされた救いの原点に立ち返るよう促します。異邦人たちに呼びかけます。

 私たちの「平和」の原点は、神の平和であるイエス・キリストの御言葉を聞くこと、そしてイエス・キリストが十字架によって示して下さった愛をもって、隣人を愛することです。私たちが平和を実現してゆく力は、イエス・キリストに対する信仰によって与えられます。

 そのことによって敵意という壁は除かれていきます。

 ここでは「敵」というものよりも「敵意」を問題にしています。パウロも異邦人に対して敵意をもっていましたが、キリストによって救われて、異邦人の救いのために働きました。

 敵は他者ですが、敵意はまさに、自分自身にあります。主の十字架の愛とみ言葉が私たちの敵意という壁を滅ぼすのです。

 自分を十字架につけた人に対しても、主は敵意を示されませんでした、「敵を愛しなさい」ということをその愛をもって示されたのです。

 私たちもイエス様のようになりたいと思いますが、見えない壁を作ってしまいます。しかし、イエス様の方から近づいて下さり、私たちの壁に穴を空けてくださるのです。無条件の愛の力です。

 その愛によって、私たちの敵意の壁は壊されていきます。

 私たちの教会は主の十字架の愛によって一つにされていきます。初代教会の成長の原動力は、まさに民族の和解、敵対する階級間の和解、男女の和解にありました。それは今もここで起こっています。

 15節に「こうしてキリストは双方をご自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し」とあります。

 ギリシア語で「新しい」を意味するふたつの言葉があります。「ネオス」と「カイノス」という言葉です。「ネオス」は時間的な意味で「新しい」という意味です。このネオスというギリシャ語が英語のNewという言葉の語源になりました。一方で「カイノス」は「質的に新しい」という意味になります。「いつまでたってもかわらない新しさ」ということです。

 衣服、家、車、テレビも、古くなっていくのです。新聞も一日たてば古くなります。この世界の全てがいつかは過ぎ去っていくという宿命を負っています。しかしいつまでもかわらない新しさがあります。それが主の愛の教えです。永遠の命に通じていくものです。

 「新しい人」というのはカイノスというギリシャ語が使われています。多様性を認め合い、一致していく力が働く時に、教会は新しくされていきます。今までにあった新しさではない新しさです。多様な人がキリストによって新しくされて、一つとなる時に、キリストのDNAの影響を受けた新しい家族が形成されていきます。キリストの愛に促されて、引いている線を少し緩め、心の垣根を低くしていく時に、新たな歩みが始まります。