日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

しずけきいのりの

2011-09-26 00:30:26 | 教会音楽
しずけき祈りの    讃美歌21 495番

 ウィリアムウォルフォード(1772-1850)が原歌詞の作者です。彼はイギリスで伝道した盲人説教者です。聖書の言葉をほとんどすべて覚えていて、説教の時にはそれらを活用したと言われています。又彫刻が出来たと言われています。
1842年に彼が作った詩を、英国の組合教会のサーモン牧師が聞きとり、ニューヨークで発表したと言われています。
英語では、Sweet Hour of Prayerという題がついています。直訳すると「祈りの楽しい時」と訳せるでしょう。Sweetには、「気持ちが良い」「快い」という意味もあります。
 楽しいのは、慰めが与えられ、喜びで満たされるからです。
 ジャズベース奏者のロンカーターが、この曲を演奏していたのを聞いたことがあります。なんて、素敵なメロディーだと思いました。作曲はウィリアム・ブラッドベリーです。
 ファニークロスビーは彼の影響で讃美歌の作詞を始めたと言われています。彼女も目が見えませんでした。多くの讃美歌を残しています。、
申命記34章、モーセが神のご命令によってネボ山に登り、ピスガの頂から目の前に広がるカナンの地を見させられる場面。モーセは目の前に流れるヨルダンを渡って、約束の地へ足を踏み入れることは出来ず、天に召されます。
 3番の歌詞は、そのことを思い起こさせます。この讃美歌は、単に個人的な慰めを求める祈りではないと思います。後の時代に生きる信仰者への、作者の暖かい眼差しを感じるのです。

 しずけき祈りの  ときはいとたのし
 そびゆるピスガの 山のたかねより 
 ふるさとながめて のぼりゆく日まで
 なぐさめをあたえ よろこびをみたす

由木 康先生が讃美歌の特殊性についてこう述べています。
①歌詞の内容が聖書的であり、なんらかの聖句に基づいている。
②それらの歌は個人的でなく共同的な性格を持っている。
③讃美歌は含蓄的でなく、表現的である。
 讃美歌は表すべきことを的確に言い表す。
 
 本日の壮年会・女性会で、牧師の愛唱讃美歌が話題となり、愛唱讃美歌についての
解説・感想・その理由を書きたくなった次第です。

ルカによる福音書14:25-35 十字架を背負う

2011-09-25 20:55:10 | 説教
自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
          ルカによる福音書14:27



14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
 人間は目的実現のために、自分の持っているものや自分の力を調べます。それは、当然なことですが、持っているものを一切捨てることが勧められています。
 それは、生きる力の源、主に従う力の源を、自分や自分の能力に置くのではなく、神様の愛に置くことです。
14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
主が負いなさいと命じられる課題を、負うことが、自分の十字架を負うことです。「自分の」とは、自分が好きで選ぶ道ではありません。
 隣人に向かって、自分を超えて出ていくことです。その課題は、自分の力だけでは担えません。主イエスのお支えがあってこそ、なしていくことが出来ます。
 渡辺和子さんが、「小さな死」-リトルデスを説明されています。「『小さな死』というのは、小さな我慢 自分の利己心に勝つこと 他人に流されないで生きること 仕返しをすることなくゆるすこと 相手が恩知らずなのにこちらがやさしくしてあげること」
 麦は地に落ちて死ぬことによって、大きな実を結びます。
 腰をすえるということは、主イエスの愛に腰をすえることです。自分を超えて出ていく源がそこにあります。
 

2011年度修養会

2011-09-20 22:03:25 | 出来事
大分地区修養会

9月19日-20日 大分地区修養会が開催されました。参加者は約73人(17教会)。主題「神の家族」 場所 セントレジャー城島高原ホテル
主題講演は、土谷先生(三重教会)が担当。講演の中で印象に残ったこと。
 迷子の子羊の話しを何回か、週1回の礼拝でお話しされた。「迷子の羊が2度迷子になった」「『他の羊が、僕も迷ったことがある』と言った」など、聖書に書いてないことまでが、話す度に付け加わる。不安・恐れを抱えた羊ですが、「イエス様が来て下さるから大丈夫」と言うメッセージに、一人の園児から、「ありがとう」と心からのお礼の言葉。イエス様が子ども達の心の支えとなっているとのこと。
 興味深い熱帯雨林の話し 多種多様の種がある熱帯雨林は環境の変化に強い。単一であるならば、環境の変化によって絶滅。
メンバーが神の家族の一員なのだと自覚すること。円の中心はキリストで、皆が円の中心に向かっていく時に、互いの距離も近くなる。
欧米の評価基準に縛られず、アジア固有の芸術の特殊性を重んじた岡本太郎さん。教会も、その特殊性を重んじていくことが大切。
 それから、神の家族としての杵築教会の取り組み(教会活動 会堂建築 幼稚園他)  宇佐教会における子どもの活動について(毛筆・硬筆書き方教室・お楽しみ会・野外活動他)の発題。
 夜のお食事の後は、教会紹介と齋藤先生(別府不老町教会)の楽しいゲーム指導。
 中津教会も合間の讃美指導を担当。他、JPOPコーナー企画。湯元姉はピアノの弾き語りで、ユーミンの「オータムパーク」を披露。牧師もつられて、ギターの弾き語り。オフコースの「思いのままに」を歌う。
 最後に。
  礼拝・祈祷会・講演・分団・会食・交わり・宿泊・温泉他と、とても豊かな時を持つことが出来ました。情報交換も出来て、良い親睦の時でした。大分地区初めてのこころみでした。 

ルカによる福音書14:7-14 「神からの誉れ」

2011-09-18 21:03:22 | 説教
そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。
        ルカによる福音書14:10

 この世の「上席的なもの」とは、目の前のテーブルに、ごちそうが集まっていたり、沢山の僕がいたりする場所でしょうか。
 この世には、そのような地位につくことが出来る人もいることでしょう。
 主の時代の上席を好む人は、上席につけない人々を見下し、困っている人に仕えることもありませんでした。
 上席に座っている人は、人からのほめ言葉や社会的地位が与えられているので、この世的な報いを受けていることでしょう。
 高い地位について、人々の上に立つことが出来ても、神様からの誉れを受ける保証にはなりません。
 そのような状況の中で、主が言われました。「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」11節。
 世渡り上手の方法について述べているのではありません。人との関係の中での言葉ではなく、神様との関係の中で言われています
 末席には、イエス様がいらっしゃいます。
末席というのは、主イエスと出会う場のことを意味します。
 そこで、仕えることの大切さを知り、隣人に目が開かれるのです。又私たち人間が、「互いに相手を自分よりすぐれた者」(フィリピ2:3)と思うことの出来る場所です。
 へりくだるということは、そのような場所に身を置くことです。
 10節にこうあります。「あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう」。
「さあ、もっと上席に進んでください」と訳されていますが、原典では、「友よ」という呼びかけがあります。「さあ、友よ、もっと上席に進んでください」と言いかえて良いと思います。
 イエス様に「友よ」と呼ばれる場所は礼拝です。友としてくださるイエス様の招きに応える場所です。
 もしも、有名人に「友よ」と言われたとするなら、「うれしい」と思うでしょう。しかし、その友がどれだけ、自分のことを大切にしてくれるでしょうか。つきあってみないとわかりません。
 イエス様に「友よ」と言われることは、素敵な出来事です。
 私達の立場に立って、愛して下さいます。そして、私達の救いのために働いて下さいます。
友として招いて下さるイエス様にすがり、その恵みに応えて、生きていくことが大切です。
 そして、いと小さき者を大切にされるイエス様に、従う者となりたいと思います。イエス様の友建は、私達の友達です。
イエス様から、「友よ」と呼ばれる交わりに生きることこそが、神からの誉れと言えます。 イエス様に高めてもらう生き方を、大切にしましょう。