日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マルコによる福音書8:14-21「パン種に注意せよ」

2014-07-25 11:31:58 | 説教
イエスはパリサイ人達をはなれて向こう岸、つまりカペナウム方向 へと向かわれました。 その時の話題は「パンを忘れた」ということでした。何は忘れても 弁当だけは忘れない、という人が多いのですが、弟子達はどういうわけか弁当を忘れた のです。四千人の給食から遠くない出来事でしたから、あのパンのかけらが残っていた でしょう。
 食べ物の恨みは恐いということでしょうか。
小さい時は、「しまった!」という体験が大切ですが、大人になってからはゆるされないことがあります。ある意味では、弟子達も旅の支度はしっかりとしておかなければいけないと言う考え方があったのでしょう。きっちりとした人が、主に喜ばれると考えていたのでしょうか。
主イエスが4000人を奇跡によって養った直後のことです。そんな時でさえ、このような思い煩いに囚われていた事実があるとすれば、私たちも、それ以上になる可能性があります。大きな神の業を目の当たりにしながら 、パンが幾つか足らないことで大騒ぎをしなければならないということです。
主イエスはファリサイ派とサドカイ派のパン種に注意しなさいと言われました。主イエスの新しい教えが示されていながら、その新しさが思い煩いによって受け入れられない状況が発生しています。二つの違う状況で語られたことですが、同じようなパン種の影響が見られる内容となっています。
パリサイ人のパン種=律法主義。パリサイ人のパン種とは、一口で言えば律法主義です。人間は神の定めた律法を守ることによって、神に受け入れられると思っていました。又先祖達の言い伝えを厳格に、真面目に行うことによって神に受け入れられると考えていました。
人間の業を第一に考え、人々を見下す傾向を持った人たちがいました。
サドカイ人のパン種とは一言で言うと世俗主義、物質主義です。
名前のサドカイとは祭司の系譜の偉大な祖先であるサドク(ツァド ク)から来たものと言われています。彼らはモーセの五書だけを権威あるものと認め、 それに記されていない復活の教理、天使や霊の存在を認めない立場をとっていました。 現実的には、当時の政治勢力と妥協したりしていました。主イエスはこう言った教えでまちがったものをパン種と、表現されています。
パン種というのはイースト菌のことです。その酵母を一部分取って おいて次のパンの種として遣ったのが当時の習慣でした。今でもこの習慣は続いていま す。
 このパン種はふっくらしたりパンに仕立てる中心的役割を果たします。しかし同時に、このパン種 の入ったパンは、小麦粉や大麦粉で出来た煎餅のような固いパンと違って、日持ちがしません。今のパン屋さんのパンは防腐剤が入っていますから多少持ちは違いますが、昔は腐りやすかったのです。つまり、パン種は影響力が大きく、しかも、腐敗を助長する 危険な思想の譬えとして使われているのです。小さなものですが、大きな影響力を及ぼすものです。
塵も積もれば山となる。火種も最初は小さいけど山火事に繋がります。タイタニック号も船と氷山は最大限10秒間ほどしか接触しておらず、船体の傷はせいぜい数インチ程度で、損傷幅を合計しても1m²程度の傷であったことが後の海底探索によって判明しています。
 小さなことって大きなことに繋がるなと思います。
 思い煩いも同じことです。パンを忘れたことだけに捕らわれていたら、貴重な時間が奪われてしまいます。それだけではなく、体力も気力も、そして自分らしさも奪われてしまう。
 もし生涯、その一つに捕らわれてしまうならば、自分の人生がボロボロになってしまうだろう。その一つを主に完全にゆだね、その代わりに新たな一つの恵みを主から受け取っていくことが大切です。
心が小さなことに捕らえられて、頑なになりつつある時、知らず知らずに内にこの世の悪いことに捕らえられて、その影響を受けている時 思い煩いに縛られている時 無意識のうちに心が不自由になっている時 小さなものの大きな悪影響について意識していない時どうすればいいのですか。
 悪しきパン種の影響を受けないようにするのにはどうすれば良いのでしょうか。
 電気を消さないと星の光や月の光が見えないのなら、自分自身の栄光や傲慢さという明かりを消して、静かな心で神の光を受けとめましょう。
日頃の思い煩いは棚に置いて、日曜日の礼拝で、神さまから良いパン種を頂きましょう。
その影響力は無限の可能性を秘めています。

使徒言行録13:1-12 「宣教への派遣」

2014-07-10 14:49:07 | 説教
使徒言行録13:1-12 「宣教への派遣」

パウロはエペソ3:8で、自分のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と呼んでいます。コリント第一15:9では「私は使徒の中では最も小さい者です。」と言っています。
使徒だけでなく、聖徒「クリスチャン」の中でも、一番小さい存在だと言っていることになります。
しかし、私たちが知っているパウロは、どのクリスチャンにもまさって、大きな働きをした人でした。パウロは、三回にわたる伝道旅行によってキリストの福音をアジアからヨーロッパへと届け、ローマに行った後は、ローマからさらに西の地域、おそらくスペインにまでも伝道したと伝えられています。
サウロは、別名のギリシャ名ではパウロと名乗りました。パウロの時代、多くのユダヤ人は、二重の名前を持っていた。つまり「サウロ」はヘブル名であり、「パウロ」はギリシヤ風の呼び名である。異邦人伝道に携わるようになってからパウロは、ギリシヤ名で呼ばれるようになります。
パウロという名前の意味は、小さいという意味があります。自らの小ささを知っている者が、聖霊の業によって大きなことをしたという記録が使徒言行録です。本日の聖書箇所にもその聖霊の大きな力が示されています。
 「み神の風をば帆にはらみて」(讃美歌302番 54年版)伝道しました。
パウロら一行はキプロス島のサラミスからさらに反対側のパフォスまで行きます。
パフォスは、紀元前22年ごろには、ローマ帝国によるキプロス島の首都となった町で、この時代(おそらく、紀元後46年ごろ)もローマ帝国の支配下にあり、地方総督が置かれていました。
 『使徒言行録』は、このパフォスで、一行が「バルイエス」という一人の魔術師・偽預言者と出合ったことを記します。
 「バル」というのはアラム語で「息子」という意味ですから、「イエスの息子」と言うほどの意味でしょうか。ヘブライ語で「ヨシュア(神は救う)」を意味する「イエス」という名前は、当時多くの人がつけていた名前でした。この「バルイエス」は、8節では「魔術師エリマ」とも記されています。
 当時の魔術師と呼ばれる人たちの多くが、呪文を唱えたり、占いをしたり、手品のようなことを行って人々の注目を浴びるようなことをしていましたので、このバルイエスもそうしたことをして、キプロス島のローマ総督セルギウス・パウルスに取り入り、おそらく顧問のような地位を得ていたと思われます。
 バルナバとパウロ、そしてヨハネ・マルコがキプロス島のパフォスのユダヤ人会堂(シナゴーグ)でイエスの福音を宣べ伝え始めた時、ローマ総督のセルギウス・パウルスが関心を示し、その話を聞こうとしました。おそらく、その時、バルイエスは自分の地位を失うのではないかと不安を覚えたようで、それを妨害します(8節)。
10節のパウロの非難の言葉、「どうしてもゆがめようとするのか」は、この妨害がかなりひどかったものをうかがわせます。

政治的に重責を負う人が、進むべき道を最終的に判断する時に、有名な占い師を傍らに呼んで、自分がなすべき判断の助けを願うこともあり得たでしょう。
バルイエスはそのような政治家の抱える不安につけこんでいて、利益を得ていたようです。
 セルギウスは「神の言葉を聞こうとして」、バルナバとサウロを自分の下に招きました。ところがバルイエスは「二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」のです(8節)。自分の商売を妨害されたら大変だと思ったのでしょう。
パウロはこのようなバルイエスの企みに対して厳しく非難しています。いえ、ここでのパウロの言葉は「聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけた」(9節)と語られていますから、神ご自身の言葉であったとも言えるのです。

 「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(10〜11節)。

 パウロの言葉の通り、ここで神がバルイエスの上に働き彼は「目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した」と言う状況に追い込まれました。興味深いのはこのバルイエスの上に起こった出来事は、パウロがかつてダマスコに向かう途中で、主に出会い、そこで体験した状態と酷似しています(9章8節)。
聖書において本当に見えると言うことは、神を正しく知り、神に従うことが出来る者の特徴だからです。その反対に、いくらこの世の知恵に満ちていても、神に従うことが出来ない者は「目が見えない者」と判断されるのです。
パウロの厳しさは、滅ぼすものではなく、聞いた者を生かし、救うためのものだったのです。この魔術師もキリスト者になったと言われています。
又救いたいと思う熱心さが、パウロをこのように激しくさせたのでしょう。
総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰にはいったと、エクプレーッソーは、単なる驚きを通り越し、仰天した、驚嘆したことを意味します。
まさしく、あのアメージンググレースの讃美歌のような。驚くべき恵みです。

固定した思想や生き甲斐としていたことが、一変する驚くべき出来事です。
又叩き出るほどの恵です。