日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ルカによる福音書24章13節~32「復活顕現」

2015-04-16 17:04:48 | 説教
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
              ルカによる福音書24:32



 イエス様のご遺体をおさめていた墓の石の蓋が空いていました。そうです、イエス様が死から甦られたのであります。その知らせが、イエスの弟子達にも届きました。最初のイースタ-であります。さて、イースターの午後、「二人の弟子」がエルサレムからエマオへの道にありました。60スタディオン 約12キロも道のりであります。この二人の内一人はクレオパという名前です。いわゆる12弟子の内の一人ではなく、広い意味での弟子団の中にあった人でした。多分彼らはエルサレムで過越の祭りを祝うために出掛けていき、イエスが十字架にかけられたことに失望し、今帰路にあったと思われます。
 イエスの復活の知らせが女性達から届いたにもかかわらず、その事が信じられず、自分の村に帰ろうとしていたのであります。そして、日が沈む西方に向かって歩いていきました。
そこにイエスが近づいてきました。彼らはその方がイエスと気づきませんでした。17節を読むと、彼ら暗い顔をしていたと書かれています。「イスラエルを救い、解放する方はイエス様だと思っていたのですが、十字架で殺されてしまったのです。私達の望みが空しく消えてしまった」という彼らの失望がその顔に現れています。

 悲しみと失望の中で、暗い顔をしている弟子達にイエス様はお近づきになられました。クレオパともう一人の弟子は、その方がイエス様だと気がつきませんでした。地上で歩まれたイエス様と違う、天上のイエス様の異質性があったからでしょうか。16節に「彼らの目が遮られていた」と書かれています。開眼という言葉が日本にありますように、目が開かれるのは真理を悟るということです。しかし、目が遮られていたのは、25節にもありますように、彼らの心が鈍かったからです。鈍いという言葉の意味はのろまという事です。すなわち、私達は真理を悟るのがのろいということでしょう。しかし、イエス様はそんな私達と共に歩み、真理を示されるのであります。共に歩まれるイエス様は弟子達に聖書を丁寧に説き明かし、ご自分が復活し、今そばにおられるという生きた真実を教えておられます。
 そんなイエス様との交わりをもった、弟子たちは更に交わりを深めるために「今晩、家にお泊まり下さい」と言います。そして、食事を共にしている時にその方が復活されたイエス様だとわかったのであります。
イエス様の十字架の死以上に自分たちの情けない姿を見た彼らは、失望落胆して、一度は捨てた故郷に帰ってゆきました。しかし、不思議なことに、彼らはまた集まり、教会を建て、伝道を始めました。主イエスが復活したと信じたからだと世の歴史家は言います。一度、激しく失望したものが易々とそう簡単に信じられるとは考えられません。主イエスが事実復活して、疑問の余地のない形で彼らに示されたのです。主は生きておられるのです。
島崎光正さんという詩人がこの場面を題材に詩を書いています。彼は脊椎被裂症(セキツイヒレツショウ)という病気にかかり、不自由な生活を幼児から強いられてきた人です。
エマオ途上
エマオ村に向かう 足の重い二人の弟子に 復活のイエスは加わった それとは知れず 互いに 話はアネモネの花のように心にはずみ 虫ばまれた丸木橋の上では
  イエスが一番先に渡り また3人で並んでいった。
32節を読みましょう。 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
燃えたというのはカイローというギリシャ語の受身形です。神のみ業に触れて新しい人間が生まれることを表現しているようです。心が薪を入れた暖炉のようです。
 燃えておられるキリストが私どもに近づいてこられるとき、薪は燃え上がって熱と光を発するのです。
島崎さんは「燃える」の部分をアネモネの花のようにと表現しています。アネモネはパレスチナでは春に咲く赤い花であります。アネモネはギリシャの伝説では、愛するアドニスの死を悲しむビーナスの涙から生まれたと言われています。又他の伝説ではイエスの十字架の死以前はアネモネは白か青でした。ゴロゴダの丘で十字架から血がしたたり落ちて、その根本のアネモネを染めたと言われています。
主イエスが「思い煩うな 野の花を見なさい」と言われたのはアネモネと言われています。島崎さんはこの表現をどうして用いたのでしょうか。
 言葉を聞いている中で、主の十字架の愛に包まれ、慰められたということです。
又、主の守りを経験した弟子達の心情をアネモネで表現しているのでしょう。そして心に灯された炎を表わしています。
彼らの目が開かれた時に心が燃やされたのではなく、その前から心が燃えていたことを思い出した点です。懐炉がじわじわと燃えて体が温まる、そんな燃え方です。心が燃えた理由は、主イエスが語りかけてくださったこと、聖書を説明してくださったことであると彼らは分析しています。 
 み言葉の中には私たちの心を燃やす栄養がたくさん詰まっています。
というのも、聖書は私たちへの神さまの愛がたくさん詰まっているし、共に歩んで下さるイエス様の語りかけがあります。
穏やかな燃え方をする火でした。しかし、この穏やかな火は、まことに確かな火でした。
主が共にいてくださり、御言葉を示してくださる。それは、穏やかな、しかし、一生燃え続けるような、確かな恵みの火なのです。


イースター愛餐会  2015年4月5日

2015-04-09 16:29:37 | 出来事

イースター愛餐会が開催されました。
子どもの教会のハンドメイドロウソクも飾られました。


みなさんで楽しくお食事をしました。



おいしいお寿司とお吸い物です。



オカリナ同好会トトロの演奏がありました。



壮年会・女性会からは歌声のプレゼント



ミスターKさんの不思議な12のイースター卵
超能力でみんなが選んだ卵を当てます  すごいでぇーす!!!!



ピアノの弾き語り


牧師のギターの弾き語り


牧会25周年を記念して、牧師に教会員の皆様からステキなバラが贈られました。
ありがとうございます。いー

ルカによる福音書24章1節から12節「復活のイエス」

2015-04-09 16:11:11 | 説教
「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか」ルカによる福音書24章5節
 イ-スターの午後、墓地を持っている教会は、墓前礼拝をすることが多いのであります。墓とは地上の生涯の最後の宿りであり、同時に天につける生涯の最初の起点であります。

 イエスは十字架につけられて、息をひきとられました。そして、その御遺体は心を込めて葬られました。生前イエスに従っていた女性達はイエスの死を痛み、悲しみました。彼女達がイエスの墓に行ったのはイエスの遺体に香料を塗るためであり、イエスへの愛がそうさせていました。そんな彼女達が、驚くべきことを経験します。

 墓についてみると墓の石の蓋があいていました。それは、大人が数人でとりかからなければ動かせないほどのものでありました。その蓋が不思議なことに動かされていたのであります。そして、墓を覗いてみると、イエスのご遺体が無いのであります。そこで、女性は途方にくれていますと、二人の輝いた衣をきた二人の人がそばに現れました。この二人は天上の存在と言えます。又イエスの山上の変貌の時 復活の時 昇天の時に現れています。受難と復活と昇天の場面にこの二人の人が現れていますから、それぞれの場面は関連があります。キリストは私達の罪を負い十字架にかかられました。そして滅びの象徴である墓を空っぽにして甦られたのです。

 二人の天の使いがこう言います。「なぜ生きている方を死者の中に探すのか、あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。思いおこしなさい」と。
探し物をしながら見当違いの場所を探すこともあります。しかし、そのことによって前に探していたものが見つかったりすることもあります。新たな発見もあります。
「試行錯誤」も無駄ばかりではありません。
 しかし、生きている者を死者の中に探すことの愚かさは明確だ。はっきりと間違っていること、それでは絶対に答えが出ないということです。
 生きている者を死者の中に探すことから自由にされるようにと願っています。
 ルカの表現では、「生きた方を死者の中に捜す」ということに対する批判が込められているようです。イエスに逢うために墓地に来るということは、主イエスを死者とみなしていることです。
 死者に逢うために墓に行くこと、そこでできることは、ただ死んだ人と自分との関係を思い出すだけでのことです。つまり過去へと思いを向けるということである。
 「生きた方」とは、現在の人である。過去の人ではない。生きた方と逢うためには、墓場ではなく現在生きている世界に行かなければなりません。
生物学的にイエス様は命を所有していることを述べているというよりも、今もイエス様は活動されているということです。
過去の主イエスを伝える物語も、「ここにはおられない」とただ語るのではなく、現在生きておられるイエスの物語となります。
 福音書は、このように復活者キリストと共に生きる場で生み出され、同じ場で聴かれるべき物語です。
福音書に記された 「思いおこしなさい」という言葉に促されてイエスのことを思い起こすと、それが過去から始まって、墓で終わるといいうものではありませんでした。むしろその回顧は墓をつきぬけていったのであります。
 そして、現在活動されているイエス様に目が開かれていくのです。
それはたとえて言えば、元気な友達を病院で探し回るとか、中津でなくした品物を豊前で一生懸命捜そうとしているようなものです。
 主は生きておられるのですから、「死の力」が勝ち誇る場所から導きだそうとされています。
主は墓の中の人・過去の人としてしか、とらえきれていないなら、そのような無駄なことをしているのと同じであります。
 墓に行った女性達も私たちも、聖書学者もそのような間違いをする可能性があります。
又 困難にうちひしがれそうになるとき、私たちが「死の力」に支配されたままでは、イエス様を見つけ出すことはできません。
「困難の中にあっても、イエス様は道を開いてくださる」とみ言葉によって視点が変えられていく時、「死の暗闇」を打ち破ったイエス様に出会うのです。
 女性達は空虚の墓のこと イエスの復活のことを弟子達に伝えました。ペトロは疑いましたが、墓に走っていきました。こんなことが起こったのです。遊園地に子供が行くように、大の大人が墓に走っていったのであります。
墓に主がおられないことを確認した弟子達は、喜びに溢れてその福音を多くの人に伝えました。そして、生きて働かれる主と共にあることの恵みを多くの人々を分かち合っていきました。

『平和』をつくる

2015-04-04 14:32:22 | キリスト教保育
年主題聖句
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」
                            マタイ5章9節

桜も花が咲き、皆様の新しい生活を祝しているようです。新年度が始まりました。
新しい出会い、新しくなる時の喜びとなる季節です。皆様との出会いを与えて下さった神様に心から感謝を捧げます。どうぞ、よろしくお願いします。
ピアニスト辻井伸行さんのお母様のいつ子さんは、伸行さんにウィーンの美術館に連れて行って、絵の様子を伝えられました。絵の美しさを伝えるために、ガラス越しに彼の指を触れさせ、図の説明をしたりしました。
又花火大会にも連れていって、花火の様子を伝えたそうです。
又色を理解してもらうために「リンゴの赤」「バナナの黄色」と教え伝えたそうです。
 お母さんは、伸行さんに、感じとってもらいたいことが一杯あったと思います。
伸行さんは、インタビューでこう言われています。
「自分は目が見えないけれども、心の目が見えているので、満足しています。」
音楽評論家も、「辻井さんの演奏は色彩感豊かです」と言われています。
心は人間の中心であると思います。グレース保育園が、子どもたちの心の目に見させたいのは、神様の愛です。又その愛を感じとってもらいたい、心を満たして欲しいと願っています。
平和教育の基本は、幼児の心の中をたっぷり愛情で満たし、遊びや生活、お話や絵本を通して、平和の精神で満たすことです。
愛で満たされた子ども達が平和を奏で、平和を実現していく人に育つことを願っています。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」ユネスコ憲章前文