二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
ルカによる福音書24:32
イエス様のご遺体をおさめていた墓の石の蓋が空いていました。そうです、イエス様が死から甦られたのであります。その知らせが、イエスの弟子達にも届きました。最初のイースタ-であります。さて、イースターの午後、「二人の弟子」がエルサレムからエマオへの道にありました。60スタディオン 約12キロも道のりであります。この二人の内一人はクレオパという名前です。いわゆる12弟子の内の一人ではなく、広い意味での弟子団の中にあった人でした。多分彼らはエルサレムで過越の祭りを祝うために出掛けていき、イエスが十字架にかけられたことに失望し、今帰路にあったと思われます。
イエスの復活の知らせが女性達から届いたにもかかわらず、その事が信じられず、自分の村に帰ろうとしていたのであります。そして、日が沈む西方に向かって歩いていきました。
そこにイエスが近づいてきました。彼らはその方がイエスと気づきませんでした。17節を読むと、彼ら暗い顔をしていたと書かれています。「イスラエルを救い、解放する方はイエス様だと思っていたのですが、十字架で殺されてしまったのです。私達の望みが空しく消えてしまった」という彼らの失望がその顔に現れています。
悲しみと失望の中で、暗い顔をしている弟子達にイエス様はお近づきになられました。クレオパともう一人の弟子は、その方がイエス様だと気がつきませんでした。地上で歩まれたイエス様と違う、天上のイエス様の異質性があったからでしょうか。16節に「彼らの目が遮られていた」と書かれています。開眼という言葉が日本にありますように、目が開かれるのは真理を悟るということです。しかし、目が遮られていたのは、25節にもありますように、彼らの心が鈍かったからです。鈍いという言葉の意味はのろまという事です。すなわち、私達は真理を悟るのがのろいということでしょう。しかし、イエス様はそんな私達と共に歩み、真理を示されるのであります。共に歩まれるイエス様は弟子達に聖書を丁寧に説き明かし、ご自分が復活し、今そばにおられるという生きた真実を教えておられます。
そんなイエス様との交わりをもった、弟子たちは更に交わりを深めるために「今晩、家にお泊まり下さい」と言います。そして、食事を共にしている時にその方が復活されたイエス様だとわかったのであります。
イエス様の十字架の死以上に自分たちの情けない姿を見た彼らは、失望落胆して、一度は捨てた故郷に帰ってゆきました。しかし、不思議なことに、彼らはまた集まり、教会を建て、伝道を始めました。主イエスが復活したと信じたからだと世の歴史家は言います。一度、激しく失望したものが易々とそう簡単に信じられるとは考えられません。主イエスが事実復活して、疑問の余地のない形で彼らに示されたのです。主は生きておられるのです。
島崎光正さんという詩人がこの場面を題材に詩を書いています。彼は脊椎被裂症(セキツイヒレツショウ)という病気にかかり、不自由な生活を幼児から強いられてきた人です。
エマオ途上
エマオ村に向かう 足の重い二人の弟子に 復活のイエスは加わった それとは知れず 互いに 話はアネモネの花のように心にはずみ 虫ばまれた丸木橋の上では
イエスが一番先に渡り また3人で並んでいった。
32節を読みましょう。 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
燃えたというのはカイローというギリシャ語の受身形です。神のみ業に触れて新しい人間が生まれることを表現しているようです。心が薪を入れた暖炉のようです。
燃えておられるキリストが私どもに近づいてこられるとき、薪は燃え上がって熱と光を発するのです。
島崎さんは「燃える」の部分をアネモネの花のようにと表現しています。アネモネはパレスチナでは春に咲く赤い花であります。アネモネはギリシャの伝説では、愛するアドニスの死を悲しむビーナスの涙から生まれたと言われています。又他の伝説ではイエスの十字架の死以前はアネモネは白か青でした。ゴロゴダの丘で十字架から血がしたたり落ちて、その根本のアネモネを染めたと言われています。
主イエスが「思い煩うな 野の花を見なさい」と言われたのはアネモネと言われています。島崎さんはこの表現をどうして用いたのでしょうか。
言葉を聞いている中で、主の十字架の愛に包まれ、慰められたということです。
又、主の守りを経験した弟子達の心情をアネモネで表現しているのでしょう。そして心に灯された炎を表わしています。
彼らの目が開かれた時に心が燃やされたのではなく、その前から心が燃えていたことを思い出した点です。懐炉がじわじわと燃えて体が温まる、そんな燃え方です。心が燃えた理由は、主イエスが語りかけてくださったこと、聖書を説明してくださったことであると彼らは分析しています。
み言葉の中には私たちの心を燃やす栄養がたくさん詰まっています。
というのも、聖書は私たちへの神さまの愛がたくさん詰まっているし、共に歩んで下さるイエス様の語りかけがあります。
穏やかな燃え方をする火でした。しかし、この穏やかな火は、まことに確かな火でした。
主が共にいてくださり、御言葉を示してくださる。それは、穏やかな、しかし、一生燃え続けるような、確かな恵みの火なのです。
ルカによる福音書24:32
イエス様のご遺体をおさめていた墓の石の蓋が空いていました。そうです、イエス様が死から甦られたのであります。その知らせが、イエスの弟子達にも届きました。最初のイースタ-であります。さて、イースターの午後、「二人の弟子」がエルサレムからエマオへの道にありました。60スタディオン 約12キロも道のりであります。この二人の内一人はクレオパという名前です。いわゆる12弟子の内の一人ではなく、広い意味での弟子団の中にあった人でした。多分彼らはエルサレムで過越の祭りを祝うために出掛けていき、イエスが十字架にかけられたことに失望し、今帰路にあったと思われます。
イエスの復活の知らせが女性達から届いたにもかかわらず、その事が信じられず、自分の村に帰ろうとしていたのであります。そして、日が沈む西方に向かって歩いていきました。
そこにイエスが近づいてきました。彼らはその方がイエスと気づきませんでした。17節を読むと、彼ら暗い顔をしていたと書かれています。「イスラエルを救い、解放する方はイエス様だと思っていたのですが、十字架で殺されてしまったのです。私達の望みが空しく消えてしまった」という彼らの失望がその顔に現れています。
悲しみと失望の中で、暗い顔をしている弟子達にイエス様はお近づきになられました。クレオパともう一人の弟子は、その方がイエス様だと気がつきませんでした。地上で歩まれたイエス様と違う、天上のイエス様の異質性があったからでしょうか。16節に「彼らの目が遮られていた」と書かれています。開眼という言葉が日本にありますように、目が開かれるのは真理を悟るということです。しかし、目が遮られていたのは、25節にもありますように、彼らの心が鈍かったからです。鈍いという言葉の意味はのろまという事です。すなわち、私達は真理を悟るのがのろいということでしょう。しかし、イエス様はそんな私達と共に歩み、真理を示されるのであります。共に歩まれるイエス様は弟子達に聖書を丁寧に説き明かし、ご自分が復活し、今そばにおられるという生きた真実を教えておられます。
そんなイエス様との交わりをもった、弟子たちは更に交わりを深めるために「今晩、家にお泊まり下さい」と言います。そして、食事を共にしている時にその方が復活されたイエス様だとわかったのであります。
イエス様の十字架の死以上に自分たちの情けない姿を見た彼らは、失望落胆して、一度は捨てた故郷に帰ってゆきました。しかし、不思議なことに、彼らはまた集まり、教会を建て、伝道を始めました。主イエスが復活したと信じたからだと世の歴史家は言います。一度、激しく失望したものが易々とそう簡単に信じられるとは考えられません。主イエスが事実復活して、疑問の余地のない形で彼らに示されたのです。主は生きておられるのです。
島崎光正さんという詩人がこの場面を題材に詩を書いています。彼は脊椎被裂症(セキツイヒレツショウ)という病気にかかり、不自由な生活を幼児から強いられてきた人です。
エマオ途上
エマオ村に向かう 足の重い二人の弟子に 復活のイエスは加わった それとは知れず 互いに 話はアネモネの花のように心にはずみ 虫ばまれた丸木橋の上では
イエスが一番先に渡り また3人で並んでいった。
32節を読みましょう。 24:32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
燃えたというのはカイローというギリシャ語の受身形です。神のみ業に触れて新しい人間が生まれることを表現しているようです。心が薪を入れた暖炉のようです。
燃えておられるキリストが私どもに近づいてこられるとき、薪は燃え上がって熱と光を発するのです。
島崎さんは「燃える」の部分をアネモネの花のようにと表現しています。アネモネはパレスチナでは春に咲く赤い花であります。アネモネはギリシャの伝説では、愛するアドニスの死を悲しむビーナスの涙から生まれたと言われています。又他の伝説ではイエスの十字架の死以前はアネモネは白か青でした。ゴロゴダの丘で十字架から血がしたたり落ちて、その根本のアネモネを染めたと言われています。
主イエスが「思い煩うな 野の花を見なさい」と言われたのはアネモネと言われています。島崎さんはこの表現をどうして用いたのでしょうか。
言葉を聞いている中で、主の十字架の愛に包まれ、慰められたということです。
又、主の守りを経験した弟子達の心情をアネモネで表現しているのでしょう。そして心に灯された炎を表わしています。
彼らの目が開かれた時に心が燃やされたのではなく、その前から心が燃えていたことを思い出した点です。懐炉がじわじわと燃えて体が温まる、そんな燃え方です。心が燃えた理由は、主イエスが語りかけてくださったこと、聖書を説明してくださったことであると彼らは分析しています。
み言葉の中には私たちの心を燃やす栄養がたくさん詰まっています。
というのも、聖書は私たちへの神さまの愛がたくさん詰まっているし、共に歩んで下さるイエス様の語りかけがあります。
穏やかな燃え方をする火でした。しかし、この穏やかな火は、まことに確かな火でした。
主が共にいてくださり、御言葉を示してくださる。それは、穏やかな、しかし、一生燃え続けるような、確かな恵みの火なのです。