日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ルカによる福音書16:19-31 「金持ちと貧者」

2015-09-29 17:30:37 | 説教
わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に超えて来ることも出来ない。 
  ルカによる福音書16:26
本日の箇所には二人の人物が登場します。一人は大金持ち、もう一人はラザロという貧乏人です。
金持ちが安楽な暮らしを楽しむ一方で、ラザロはその家の入り口でおなかをすかせてはいつくばっています。その後、二人とも死んでしまいます。金持ちは「死んで葬られた」とありますが、ラザロのほうは葬られたとは書いてありません。考えすぎかもしれません葬りにおける差となっています。
しかし、死後は逆転しています。葬られた金持ちはいわゆる地獄のようなところに行き、葬る人もいなかったラザロは、アブラハムのところへ行きました。
 アブラハムとは、旧約聖書・創世記の登場人物です。
ユダヤ教徒は、アブラハムを自分たちの血筋のはじまり、信仰の父として尊敬します。そのアブラハムのふところに抱かれる、というのは、天国の神様のもとへ行く、ということです。
金持ちは生前は、裕福な暮らしをして、毎日贅沢をし、非常に高い衣服を身につけていました。しかし、その富を困窮しているラザロのために少しも用いることが出来ませんでした。愛に欠けていました。ラザロのできものをなめていた犬がいました。犬の方がラザロに同情を寄せていました。愛においては犬よりも劣るお金持ちでした。
神の憐れみの求めに対して閉ざされていました。
金持ちがおいやられた場所は、とても熱い炎に焼かれて苦しい場所であったようです。ラザロとアブラハムが楽しそうに宴会をしている姿が見えると、金持ちはアブラハムに「自分に水を浸してもらうためにラザロをここによこしてください」と頼みます。アブラハムの答えはこうです。
「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」
金持ちは、自分を炎の中から救って下さるようにアブラハムに訴えます。しかしアブラハムは、「わたしたちとお前たちの間には<大きな淵>があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と言います。
ここで<大きな淵>と日本語で訳されている言葉は、聖書の原文のギリシア語では<カスマ>という言葉になっています。<カスマ>とは、そこに入れば全てが虚しく、無にされてしまう、底なしの大きな穴を意味します。
《カスマ》(新共同訳では「淵」)は、死後の世界の二つの領域(楽園と陰府)が越えることができない断絶した領域であることを象徴しています。
関心を無関心に変え、責任を無責任に変え、関係を無関係に変える、底なしの大きな穴です。アブラハムは金持ちに、「死んだ今は、ラザロとおまえの間にそのカスマがある」と言います。
しかし、カスマは、実は、生前に金持ち自身がラザロに対して作っていた、愛のない態度です。それが、大きな淵です。
富の奴隷となり、自分だけの幸せを求めた金持ちです。しかし、富は最後の砦にはならないのです。どれだけ、神の愛と憐れみに心が開かれていたのでしょうか。
大きな淵、カスマを、埋め尽くして無くすことができる力があります。それは、愛です。
主は私たちの罪をゆるし、深い淵を越えて私たちに関わって、救いの道を開いて下さいました。主の愛によって、私たちは他者の幸せを願う者にされていくのです
芥川龍之介作のくもの糸はこのようなストーリです。
カンダタは悪党であったが、過去に一度だけ善行を成したことがあった。それは小さな蜘蛛を踏み殺しかけて止め、命を助けたことだ。
そのことによって、彼を地獄から救い出そうと、一本の蜘蛛の糸をカンダタめがけて下ろした。
ところがふと下を見下ろすと、数多の罪人達が自分の下から続いてくる。カンダタは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ」と言った。すると蜘蛛の糸がカンダタの所から切れ、彼は再び地獄の底に堕ちてしまった。
他人への無関心、人間がどうしたらその溝を乗り越えることが出来るかが問いかけられているようです。大きな淵、カスマを、埋め尽くして無くすことができる力があります。それは、愛です。
戦争はこの溝を深めます。愛を持って。溝を埋めていくことが平和につながります。イエス様からたくさんの愛を頂くことが大切で、その愛が、愛に生きることを促します。

ルカによる福音書16:1-13 「世の富」

2015-09-29 17:09:59 | 説教
小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、
大きな事にも不忠実である。 ルカによる福音書16:10

 
 今日のたとえ話の中に出て来る「管理人」(1節)は、お金の魔力に取りつかれた人です。
「無駄遣い」(1節)とありますが、おそらく彼は主人の財産を横領しました。
その罪が明らかになって、主人の知られてしまいます。彼は主人に呼び出され、仕事を解雇されることになりました。
そこで、小作人がした態度について、主イエスがどのように捕らえているかが、とても難解に思えます。
管理人が主人の財産を無駄遣いした上に、主人から借りのある人々の借金を書き換え、軽くしてあげています。それほど、不正を重ねているのに、被害をこうむっている主人から褒められています。
不自然な感じがします。
もう一つの解釈があります。
管理人は、最後の仕事として、「会計の報告」(2節)を提出が求められました。次に雇い入れる人への引き継ぎのためでしょうか。
罪を犯し、悔い改めた管理人は、油100バトス借りのある人には、50バトスと書き換えさせ、小麦100コル借りのある人には、80コル書き直させたのです。
ここのところをどのように理解したら良いのでしょうか。
おそらく、管理人は、借りのある人に、容量を誤魔化した器を使って水増し請求をしていたということが考えられますが、水増しの不正分を横領していたと考えられます。
小さめの器で、量を誤魔化していたのです。
彼は 悔い改め、回心して、借りのある人々の証書を正しく作り直して、主人に提出しました。
 主イエスがザアカイの住むエリコの町にやって来た時、数ある人々の中から、ザアカイを指名し、「ぜひあなたの家に泊まりたい」と言い出したのです。
その主イエスに感動したザアカイは、食事の席で、主イエスに向かって言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(19章8節)。その時、主イエスは言われました。「今日、救いがこの家を訪れた」と。

 ザアカイの財産は、自分でも言っていますが、ずいぶんとだまし取ったりして築き上げたものだったと思われます。つまり、今日の話の9節で言えば、「不正にまみれた富」です。しかし、彼は、その不正にまみれた富を貧しい人々に施し、4倍にして返しました。 不正の管理人も罪を悔い改め、不正の富を、友を作るために用いたのです。
 それをほめられたという解釈です。
この管理人は不正をしていたので、不正を告げ口されてしまったときに、窮地に陥ることになりました。
不正を悔い改め、主人に借金を返す道も考えられました。しかし、彼はそうせずに、首になった後の道を、お金を用いて開いていきました。主人から借りのある人の借金を帳消しにして、その報酬として、友達になってもらい、解雇された後に雇い入れてもらうことでした。
 どの部分が褒められているのでしょうか。
この管理人は、徹底的に富に仕えていました。富をもって生きるということを貫いたのです。不正を真似るようにとは言われていませんが、徹底的に仕えたところが褒められているのです。
この管理人が富に仕えたように、神に仕えることが大切です。神の友にしていただく道を追い求めることです。この管理人とは逆の道で徹底することです。
それは小事に忠実であることです。それこそがみ国に受け入れられる道であります。
 富の奴隷とならずに、富を自由に用いることです。神様に喜ばれる富の用い方をして、人々にも誠実に関わることです。
富を隣人の救いのために用いることが、富を清めていくことにもつながっていくのです。

「富は神の子どもの手によって、飢えた者の食物となり、かわける者の飲み物となり、裸なる者の衣服となり、旅人に宿りを与え、やもめと孤児を扶助し、おさえられる者を防衛し、病める者を治療し、苦しめる者を慰め、目の見えない人の目となり、足の不自由な人の足となり、死の門から人を引き上げる起重機となる」とウェスレーは言うのです。

のちに偉い彫刻家となった者が、まだ召使いであった時です。大切なライオンの置物を他の僕がうっかり落として、壊してしまいました。その時この召使いは、バターでライオンを作ったのです。それが、大変主人や客を喜ばしたというのです。
材料はバターでも出来たのは素晴らしい芸術品でありました。
 この世の富は天国の恵みに比べれば、小さく、バターのようなものですが、それを用いて、信仰の芸術品をこの世につくることが出来るのです。
 それは信仰の友であり、神の家族です。
この世の生活と富を用いて信仰の作品を作りましょう。
永遠の世界に比べれば、この世の富は小事でありましょう。しかし、この小事に忠実であれば、大事にも忠実であると言っても良いでしょう。
ユダはわずかな銀すなわち富で、主イエスを裏切ってしまいました。そして、彼はその不正の富を結局放棄してしまいます。
私たちは富のために友を裏切るのでしょうか。それとも、富を隣人のために用いるのでしょうか。
光の子は永遠の家を天に備えるために富を用いるのです。
ザアカイだけではなく、当時、だまし取ったり、搾取したりして、富を築き上げた人々が大勢いたことでしょう。そういう人々の中に、主イエスの言葉を聞いて従おうとする人、クリスチャンとなって教会に加わる人が結構いたのではないかと思われます。
そういう人々は、だまし取り、搾取して築き上げた「不正にまみれた富」を、罪にまみれた過去をどうすれば良いのでしょう?主はやり直す道があることを教えてくださったのです。
神に仕え、友のために富を用いることです。



ルカによる福音書15章11節-24節「新しい人間」

2015-09-18 16:38:13 | 説教
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。      ルカによる福音書15:12
「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
次男はブタ以下の存在になり果てたということが書かれています。放蕩の限りを尽くした息子が、異郷の地で異邦人のブタを飼う身となりながら、それでも腹を満たすことが出来なかったと書かれています。ブタの餌すらも与えられなかったということは、ブタ以下の存在となり果てたということでしょうか。
チェコ生まれの作家フランツ・カフカの書いた名作に「変身」という小説があります。
その小説の内容はこうであります。
グレゴール・ザムザは、旅回りのセールスマンでした。ある朝目覚めたら、一匹の巨大な毒虫に変わっていたのです。背中は堅い甲羅に覆われ、腹は蛇腹に分かれ、そこから小さな足が何本も分かれていました。
事件が起こった次の朝、おそるおそるはいってきた妹は、床に広げた古新聞の上に半分腐った古い野菜、固まってしまった夕食の食べ残りの骨などを餌として置き、急いで部屋を出て鍵をかけてしまいます。
変身したザムザを取り巻く家族の心の変身を衝撃的に描いています。ザムザは家族の心の中でも次第にザムザから本当の毒虫へと変わっていくのであります。
○ブタ以下の存在に変わってしまった息子であったけれど、神の心は変身しませんでした。
放蕩息子が、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
「お父さん」と言って息子が父親に走り寄ったとは書いていません。走り寄ったのは父親だった。彼はおそらく帰る決心をしたものの、実際に父のもとに近づいた時に、やましさや惨めさで、走り寄るどころか、近づいていく足も凍り付いてしまったような状況であると想像されます。その中で走り寄ったのは父親であった。そうなのだ。
 神は走り寄る神として我々に臨んでいる。これが神の自画像、神の自己紹介なのです。主人公は放蕩息子ではありません。主人公は断固として走り寄る神そのものです。
何もかも絶望的状態であっても、神は私達を憐れんで下さるのです。
 暗さだけを見つめているふくろうのように、私達も闇だけを見つめていないだろうか。
光が近づいてくるのです。その光は変わることなく、私達の訪れのです。
 そして、私達を新しくするのです。姿が変わり、死にかけていた息子を、神は心からあわれんだのです。
神様ご自身が、罪人である私たちを迎え入れるために、ご自分の家を出て走り寄って来て下さったという出来事でもあるのです。
 鈴木正久牧師が、こう言っています。「あわれみ深いというのは、自分の前に壁のようになる人に対して、こちらから先に一歩踏み出すことである」
神のあわれみを経験した人は、あわれみ深い人になるのです。
人間関係、その大部分は、「ギブ」アンド「テイク」の関係で成り立っているかも知れません。
これだけの善行をしたから、これだけ良いことをしたから、それだけの報いがあって当然であるという考え
方です。
 介護サービス費は、一定所得以下の方には負担軽減策が設けられていますが、介護保険法の改正で所得だけでなく資産が一定以下であることも要件に加わりました。
「年金額が少なければ、多額の預貯金があるのに補助が受けられるのは如何なるものか」という意見があり、増える介護保険財政、高騰する介護保険料とその改正が必要になりました。
 まじめにこつこつと預貯金を貯めてきたのに、そういう心がけをしなかった人が優遇されるとは・・・そういう意見も聞いたことがあります。
 こういった不満を持っている人もいることでしょう。
しかし、「資産による軽減見直しをしないと、財政難で、次世代へ負担がさらに重くなる」という理由があります。みんなで、その問題を考えてのりこえていかなければなりません。
 すべては神様から受けたものですから、グローバルな視点で考えていかなければなりません。愛とはそういうものですから。
 律法主義というのは、われわれが神様に対して、これだけのことをしましたから、これだけあなたの律法を守ったから、神様はわたしを愛さなくてはならないのです、という生き方であります。
 父親の放蕩息子への待遇に対して兄は不満をぶつけます。
父親は、兄が家に怒って家に入ってこないのをみて、父親のほうから兄のほうに出て行って、なだめたというのです。父親の気持ちをわかってほしい。無条件に愛する親の愛、罪人を救おうとする神様の愛を知ってほしいと父親は長男に願います。
兄息子は、外に立っています。正しく生きてきた自分こそ愛される資格があると思っている。そんな苛立ちを抱えて家の外に立ち続けています。兄ももう一人の放蕩息子です。
彼に対しても父は、外に出てきて迎え入れようとします。共に立ち、優しく呼びかけによって迎え入れ、豊かな恵みの中に囲まれていることに気づかせようとしています。たぶん、彼は祝宴に戻っていったことでしょう。愛とゆるしの世界へと引き戻されたことでしょう。

ガラテヤ信徒への手紙6:14-18 「十字架を背負う」

2015-09-10 11:38:23 | 説教
割礼の有無は問題でなく、大切なのは、新しく創造されることです。          ガラテヤ信徒への手紙6:15


パウロはこの手紙を閉じるにあたって、11節で「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」と言って書き出しました。当時の手紙は口述筆記です。この手紙も、パウロが語るのを誰かが横で書き取るというあり方で書かれたのです。しかし、この手紙を閉じるにあたって、パウロ自身が筆を取って、今朝与えられている御言葉のところを書きました。最後の挨拶は自筆で書くというのが礼儀だったのかもしれません。
しかし、手紙の最後の部分はパウロ自身が書きました。大きな文字を使ったのは目立つようにするためであったはずで、なぜそうしたのかといえば、強調のためと推測されます。この点は最後に強調しておきたいという気持ちの現われです。
本日の箇所はガラテヤの教会の人々の心に刻んでほしいことが、心を込めて語られています。
6:17 「これからは、だれも私を煩わさないようにしてください」。
パウロは「もう面倒は起さないでくれ」と言っています。
パウロは苦労をいとわない人ですから、心からこの問題を乗り越えて欲しいと思っている気持ちの現れと理理解した方が良いと思います。
 当時のユダヤ的キリスト者は、ユダヤ教からの攻撃を受けていました。
 十字架は呪いのしるしであり、それを救いのしるしとして、全面に出して宣教するキリスト者は、ユダヤ教からの攻撃を受けやすかったと言われています。又ローマ当局はユダヤ教を公認宗教として認めていました。キリスト教徒もユダヤ教の一派として認められれば、迫害を避けられると考えました。
 ガラテヤに来た割礼を強要するキリスト者は、このような背景で生まれていきました。いつのまにか、福音の中心であるキリストの十字架のあがないについてのメッセージは後退していきました。
 戦時中日本基督教団は、戦争協力をした歴史があります。
 大切な平和の福音は語られなくなりました。
 パウロは、迫害を恐れずにキリスとの十字架を誇れと語り続けます。福音を曲げてはなりません。キリストによって、古き自分は死んで、新しい命に生かされていく。
14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
 キリストの十字架によって古き自分は死んで、新しい命に生かされていきます。
 15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
パウロは十字架こそ誇りとするだけの価値があると言いました。さらに、大切なのは、新しく創造されることだと言います。古い創造とは神が無からすべてを造られたことを指しますが、そこから全てが出発しました。創造は神の偉大なみわざです。ところがそれに比べられる新しい創造があるとパウロは語るのです。新しい創造とは何か。神の創造の偉大な業は人類の創造と言ってもよいでしょう。私たち人間は神の創造により存在するようになりました。その創造に比べて新しい創造とは何でしょうか。
この世の一時的な価値観に縛られず、神がお喜びになることに生きる新しい人類の創造です。
衣服を装ったり、外観を装ったりすることではなく、又割礼を受けていることを誇ることでもありません。神の力によって生まれ変わり、心が新しくされ、改められることです。
そして、それが外部にまで現れて、生活をも一新することです。十字架にはそのような力があります。
17節で、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」とパウロは告白しています。
 パウロはイエスの焼印を押されていると言います。当時の奴隷は所有者を示す焼印を押されたと言われています。パウロはキリストの奴隷だと自覚しています。だから、焼印を押されたもののごとく、という意味もあるかもしれませんが、ここではやはり、今まで彼が受けてきた迫害による肉体の傷ではないかと思われます。
 焼き印(スティグマ)と訳される言葉はいれずみとも訳される言葉です。
  パウロも伝道ゆえに体に傷がつけられた。その傷をキリストとの絆のしるしと受けとめることは考えられることです。
 傷があざとなって残ることも想像できます。
 焼き印は、羊や牛などが誰のものであるかを示すために、熱いこてでその主人のマークを付け、焼けどのあとのようなものを残します。痛みが癒えても火傷の跡ですから、消えませんし、消すことが出来ません。
キリスト者というのは、イエス様の焼き印を押された者であり、主人はイエス様であることを、周りに明らかにするものです。
 車の初心者マークです。車を運転する時に初心者であることをまわりに示すために、運転する時に、マグネットになってますから、ペタンと張ります。
 しかし、必要がない時は外しておきます。ご飯を食べる時、仕事に行くときなど、家族と過ごす時に服に初心者マークをつけている人はいません。必要ないからです。
 しかし、焼き印はいつでも体から消えることはありません。地域にいても職場にいてもクリスチャンであることを示し、キリストの十字架を誇る姿勢があります。
新しい命に生きるものたち。それは聖霊によって新しく生まれ変わらされたものです。再生の恵みを受けたものです。新しい神の民です。
パウロの手にはユダヤ人たちから受けた鞭打ちの傷痕が今もくっきりと残っていたかもしれない。しかし、パウロはもっと深い焼き印を、ここで語っているように思います。
彼の心に刻まれたキリストの焼き印です。キリストは十字架上に葬られたのみでなく、そこから復活されました。
パウロは洗礼を受けることによって、キリストの死に与るのみならず、復活の命にも与ったのである。パウロは、十字架によって救われ、キリストの十字架によって生きるものとなった。それ以外の生き方はなくなったのです。
大切にしている信仰こそが、十字架を背負っていることであり、心に刻まれ、押された焼き印であります。
十字架と言う焼き印が押されていることを忘れずに、それを隠さずに、多くの人々の前で誇っていくことが大切ではないでしょうか。 

コリントの信徒への手紙ニ11:7―15 「神からの誉れ」

2015-09-10 11:34:15 | 説教
あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。
コリントの信徒への手紙二 11:7


パウロという人物はどんな人であったのでしょうか。パウロ行伝10:10によると、背は低く、頭ははげて、がにまた、病気がちで、説教は下手であったようです。
しかし、そんなパウロにキリストの大きな愛が働き、世界伝道という大きなことをなさしめたのでした。
パウロはコリント教会へ数通の手紙を書いたといわれていますが、その中で残っている手紙は二通だけ、第一コリント、第二コリントです。その第二コリントを読みますと、最初の1-9章と後半の10-13章は大きく様相が異なります。おそらく第二コリントの前半と後半は別の手紙、後半10章以下は失われたといわれている「涙の手紙」の一部ではないかと思われます。コリント教会において、パウロに反対する勢力がありました。
コリント教会は、パウロの開拓伝道によって出来た教会で、パウロは自分の子どものように教会を愛していました。しかし、エルサレム教会から来た巡回伝道者がパウロ批判を繰り返し、教会の一部がパウロに対して反対勢力になっていったようです。彼らは「パウロは、復活前のキリストに従った弟子ではないから。私たちはキリストの直弟子だった使徒ペテロから委ねられてここにいる。私たちこそ本当の福音を伝えている」と誇ったようです。
このような批判に対して反論したのが、第二コリント書10-13章です。
・反対者たちはパウロが使徒であることを否定しました。パウロはエルサレム教会からの推薦状を持っていないし、地上で活動されたイエスから直接の教えを受けた者でもないからです。
しかし、パウロは自分の使徒職は神から受けたものだと主張します(10:7-8)。「私はコリント教会を開拓伝道した、そのことこそ私が使徒であることを証している、コリントは神が私に委ねてくださった伝道の場なのだ」と彼は言います。
 パウロは、コリントからの献金援助を受けずに、自分で働いて生活の糧を得ていました。それを反対派の人々は、使徒職でないから受け取られないと批判したのです。
敵対者たちが、コリント教会から報酬を受けようとしないパウロの態度を取り上げて、使徒としての正当な権利を持たない証拠だと言っていたことです。パウロの言葉が報酬を受ける価値のないものであるように言う人もいました。このような教えのために、教会は動揺していました。
パウロが召された伝道地にも、自由人は自らの手で働かないというギリシャ特有の美徳がありました。その美徳からの価値観では、パウロのしていることは、劣ることのように考えられたのでした。
使徒言行録18章3節を参照。パウロは、職人仕事を、あえて続けながら生活します。
テントの材料となる皮革を裁断したり縫い合わせたりする手作業をしながら、少人数単位の人々に語り、時には一対一の対話のような形で伝道したようです。
そしてコリントでの伝道活動においては、マケドニアの教会からの援助がありました。
生活に困窮した時には、「マケドニア州から来た兄弟たちが、わたしの必要を満たしてくれた」(9節)と言います。マケドニア州にあるフィリピの教会の援助がパウロの活動を支えました(フィリ4:10~18)。パウロは、この手紙の8章でマケドニアの諸教会について前もって語っています。「彼らは苦しみによる厳しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(8:2)。
パウロは今、いわば報酬を目当てにして自分とは違った福音を宣べ伝えようとしてコリント教会に働きかけている者を、「彼らは偽使徒だ、キリストの使徒を装っている。だが驚くには当たらない。サタンでさえ光の天使を装うのだから。サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、たいしたことはでない」といっております。
しかし、今パウロは自分はコリント教会に対して、愛をもって仕えよとしているのです。 
パウロはフィリピの教会で伝道していたときには、フィリピの教会からは報酬を受けていなかったといわれます。
自分が福音を宣べ伝えている教会からは経済的援助を受けると、その教会に媚びるようになる、なにか制約を受けるようになる、あくまでそういうことから自由でありたいという気持から自分が伝道している教会からは報酬を受け取らない、という方針だったようなのです。お金儲けのために伝道しているのではないという姿勢でありました。
 コリントから援助を受けないこと、天幕職人として働くこと、コリントの人々の救いのために福音を正しく語ること、すべて批判されることではなく、パウロの深い愛です。
無報酬で教会に仕えることについて、パウロは自らこのように言っています。「あなたがたを高めるため、自分を低くし」(7節)た、と。
教会を富ませるために、貧しくなったパウロであります。でもなかなか理解されずに批判の材料となります。
全然成果が上がらなければ、撤退することもあります。しかし、パウロはキリストの深い愛に支えられていましたから、無理解に直面しても愛し続けました。
 コヘレトの言葉11章1節 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう」
「水の上にパンをまけ」、これこそが、本当の目覚めだということです。
己の身を捨てて施しをし続けること、現実に効果がないと知りながら愛し続けることこそ、唯一むなしくない行為だとしてこの書に書かれています。
パウロはお金のためにパンを変質させることなく流し続けました。人に良いものを与えたいという純粋な愛を持ち続けました。
人によいものを与えたい、そのことを、人に良い印象を与えることよりも優先させました。
川の流れの先にある、神からの誉れに目を向けていたのがパウロでした。
パウロは現実の効果や即効性よりも、いつか芽を出すと信じて、種を蒔くことに尽力したのだと思います。
自らを低くした時にへりくだりのキリストと出会い、大きな力を受けたことも確かなことでしょう。