日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ヨハネによる福音書21:1~14 「復活顕現」

2016-04-12 15:52:38 | 説教
陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
ヨハネによる福音書 21:9


主イエスは、ガリラヤ湖畔に復活されたお姿を弟子7名に現されます。
 ガリラヤ湖に、ペトロ・トマス・ナタナエル・ゼベダイの子たち二人、他に二人の弟子の計七名がいます。共観福音書によると、かつて漁師であったペトロは、この時何をしていたのでしょうか。もしかすると宣教するのを諦めて、以前していた漁師に戻ろうと思ったのかもしれません。ペトロは、「わたしは漁に行く」と言いますと、他の6名も「わたしたちも一緒に行こう」と同調します。彼らは舟に乗り込んで、湖に一晩中網を打ちましたが、何の収穫もありません。夜が明けて来て、岸に復活されたイエスが立っておられます。でも、彼らはその方がどなたか分かりません。
 復活された主イエスが言います。「子たちよ、何か食べる物があるか。」彼らから「ありません」と返されます。すると主が言われます、「舟の右に網を打ちなさい。そうすれば獲れるはずだ。」言われた通りにすると、余りにも多くの魚が網にかかり、もはや引き上げることができません。
愛弟子がペトロに「主だ!」と叫びます。ペトロはその声を聞くやいなや、復活のイエスの許に直ぐに行きたい、という衝動にかられます。死んでしまったと思っていた主イエスが、生きておられるのですから、無理もありません。裸同然であった彼は、律儀にも上着を引き被って、湖に飛び込みます。
最後に漁獲がありホッとしています。岸に上がると炭火が起してあり、魚とパンが乗せてあります。香ばしい匂いさえしてきます。この季節のガリラヤ湖の朝はかなり冷えています。暖かい食べ物は、冷えた体に何よりの御馳走です。その炭火にあたって、彼らは体を暖めたかもしれません。
復活された主イエスが言われます、「今獲った魚を何匹か持ってきなさい。」
 人間の体は24時間稼働の工場のようなもので、その体を維持するために1日3回の食事が必要です。
 特に朝ご飯は起きてから体が活動を始めるスイッチの役目をするそうです。

 「朝のパン」という詩があります。「毎朝 太陽が地平線から顔を出すように パンが 鉄板の上から顔を出します。どちらにも 火が燃えています。私のいのちの 燃える思いは どこからせり上がってくるのでしょう。いちにちのはじめにパンを 指先でちぎって口にはこぶ 大切な儀式を 『日常』と申します。やがて 屋根という屋根の下から顔を出す こんがりとあたたかいものは にんげん です。」 これは詩人の石垣りんさんが1976年に書かれた詩です。
 幼児などは朝ご飯を一緒につくるなどして、親と一緒に作った朝食を食べると、親子の交流にもなるし、自分は愛されていると実感できる時間となります。
 
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
 疲れて腹が減っていた弟子達に、主は素敵な朝食を準備していて下さいました。寒さに震えている弟子達に、主は炭火を用意していて下さいました(9節)。朝食のメニューはトーストと魚でした。その魚に今取れたばかりの奇跡の魚も入れるようにと命じられました。エリヤが落ち込んだ時も、主は何も咎め立てをせずにパンと水を与え、元気を回復させなさいました。
彼等は何も言わずに黙々と朝食を食べました(12節)。何を考えていたのでしょう。
 主を裏切った自責の念もあったでしょうが、主が黙って給仕して下さる姿に、ゆるしと愛を感じ、主イエスの愛をじっくりと噛み締めていたことでしょう。心にも栄養が与えられました。
 炭をおこし、魚を焼いて、パンまで用意しておられたイエス様は、幽霊ではありません。
 初代教会が語りついだ復活の主イエスの出現物語の中で共通していることは、甦りの主との食事の場面です。イエス様は彼らを招かれます、「さあ、朝食をとりなさい」と言われたことは、彼らにとっては嬉しい出来事です。主イエスが生きておられる、そして自分たちに朝食を用意され、迎えてくださるのですから。
 本日の場面におきましては、食べている最中に主イエスが現れたのではなく、イエス様の方で、食卓と料理を用意してふるまわれています。
 私達の命も、愛とゆるしのもとで、復活のイエス様によって、くりかえし養われています。
 信仰とは、まず私たちが努力をして、主を喜ばせ、主のために食卓を用意することではなく、それに先だって、主が私たちのためにパンと魚とを用意して招いてくださる。その招きに応じることから始められるのです。」
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とあるように、主イエス・キリストの到来を光として表しています。
 3節に、「しかし、その夜は何もとれなかった」とあり、4節に「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」とあります。彼らの心は夜であったが、主が一緒にいてくださったので、夜が明けてきたと、理解できるのではないでしょうか。
 そして、朝の光の中での食事です。
 闇が深くても夜明けは近づき、復活の朝を迎えることが出来るのです。

ヨハネによる福音書20章19から31節「復活顕現」

2016-04-09 14:56:03 | 説教
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 
           ヨハネによる福音書 20:26



 本日はヨハネによる福音書20章19節から31節に聞く時を持ちます。弟子達はユダヤ人達を恐れて、自分達のいる部屋に鍵をかけていました。「夕方」「ユダヤ人を恐れて」「家の戸に鍵を締めて」19節は、その時の弟子達を示す端的な言葉であります。つい3日前、主は十字架につけられ、犯罪人の一人として処刑されました。イスラエルを救いうるものはこの人であると彼らは本当に期待していました。その望みは消え、虚無がたちまち彼らを支配し始めました。彼らは同じように殺されることを恐れ、愛する主を一人十字架に残し逃げたのであります。3日の間、自分の罪深さと弱さを思いしらされていました。又ユダヤ人達を恐れて居て、部屋の鍵をかけて居たのであります。
そこで主が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。シャローム ラケル
 主は、いつものように挨拶の言葉を口にざれた。けれども、主イエスのほうからそのように声をかけてくださったことは驚くべき事が含まれています。実際私達を含め、世の中で、関係が悪くなれば、挨拶もしないということが起こるからです。ここで、人間的な言い方をすれば、弟子たちこそ、まず・主におわびすべきでした。しかし事実は、主のほうが、十字架への道に加担し最後まで主とともにあることのできなかった弟子たちに、シャロームと言って声をかけ、その交わりに変わりがないことを証されました。このような主イエスの甦りが、その死の意味を明らかにしました。主の挨拶は彼らには、主を十字架へと追いやった罪のゆるしとして、心の底に響いたに相違ないのです。主の蘇りは死の支配からの脱出であり、死に対する勝利でありました。 甦りの主の平和の挨拶が厳密にどこから発せられたかに注意することが大切であります。主は、そこからまだだれも来たことのないところから来られた。どこからでしょうか。それは、墓のむこう側から、死の向こう側から、それに打ち勝って主は来られ、平和の挨拶をされました。それゆえに「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、永遠から発せられた挨拶でありました。
これは、単なる挨拶ではなく、この挨拶と共に平和が来たのです。この挨拶を受け取る者に平和が来るのであります。平和の挨拶を受け取る者はその中に受け入れられ、その中で安全に守られる一つの領域であります。罪許されこの挨拶を受け入れたものは一時的ではない平和の領域に入れられるのであります。
20節においてイエスは手をお見せになりました。御手によってイエスは病人を癒し、水に沈みかけたペトロを救い出します。イエスの手に包まれ守られている者は、そこから奪われる事はありません。復活のイエスの手には、人々の罪をあがなうための傷がありました。それは、神を信じきれずに闇夜を歩んでいる人をすくいだすための手でありました。その手が差し出され時、弟子達は喜びにあふれ、信じる者となりました。
22節には、平和の挨拶を受けた者に聖霊が注がれています。息が吹き込まれると言うことは、新しい命に生かされることを現して居ます。弟子達は、この力に押し出されて、平和の福音を伝える者になりました。
一般社会ではTさんの息がかかっているとか、あの大臣の息がかかっているとか、そんな言い方をします。それをはるかに超えた深い意味で、「息を吹きかけて言われる。聖霊を受けなさい」
私たちにもイエス様の息が吹きかけられています。そのような思いを持って、それぞれの居場所や職場に到着すれば良いと思います。
主から受けた揺るぎない平安は、私達が弱くなっても内側から強めていくものであります。イエスから平和の挨拶を受けるところが、まさしく礼拝であります。
 平和があるようにと21節にある言葉は、原語では平安汝らにとあるだけで、動詞が記されていません。平和が汝にあるようにとも訳せますが、平安汝らにありとも訳せます。
 この社会に出ることは、対人関係の中で不安やストレスを持つことが多くあると思いますが、平和の主が共に居て下さいます。
 主は私たちのマスター(主人)ですから、どこにでも自由に入ることができる心のマスターキーをもっておられます。

 敵に脅え、弟子達は解散寸前にまで追い込まれています。罪にうちひしがれ、このまま生き続けることへの不安を持っています。
だからこそ主は、そこにマスターキーを持って入られ、「あなたがたに平和があるように」と、一番大事なことを告げられたのです。
 そして、永遠の平和で包み、息を吹きかけられました。
 
こんな譬えがあります。自分の富を守るために壁を回りに築いた人達がいました。
彼らは高い壁を築き壁の外に敵がいるかどうかもわからないほど高くしました。恐れはさらに募り彼らは互いに言い合いました。「私達の敵は数が増したので、壁が破られるかもしれない。壁の強度が足りない。壁の上に爆弾をしかけよう」 その爆弾が敵よりも自分たちを傷つけると思うようになりました。彼らの死への畏れが実際に彼らを死に近づけたのであります。
 不安や恐れは軍備増強の道をつくります。十字架への道から復活まで、主が終始一環徹底されていたのは平和でありました。
 主が与える平和・平安が世界に広がるように。 
 

ヨハネによる福音書20:1-18「キリストの復活」

2016-04-09 14:24:37 | 説教
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
ヨハネによる福音書 20:16

ご遺体の納められたお墓にマリアがいってみますと、お墓が空っぽでありました。マグダラのマリアの主イエスへの愛がそうさせたのでありますが。
その対象であります。主イエスのご遺体がないのです。マリアは15節で「あの方の遺体をひきとりたいと願っています。それほどまでに主のご遺体に執着していました。しかし、それは生から死への方向性しか見えてないように思います。又過去の主イエスとの思い出に執着しているマリアの姿が描かれています。
 それすらも、奪われたマリアの悲しみはとても深かったと思うのです。
マリアに向かって、よみがえりの主が呼びかけられます。「婦人よ なぜ泣いているのか」と。ヨハネによる福音書の10章で、イエス様が語ったつぎのたとえを思い起こさせます。
 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」
 「マリア」というイエス様の呼びかけに、マリアは羊飼いに呼ばれた羊のように反応しました。 マリアという固有名詞で呼ばれる主の声には、深い主の思いがこめられています。古い世界に捕らわれているマリアを、新しい世界に導く主の声であります。そこには新しい命があります。
14節16節でマリアの「振り向き」が2度書かれています。これは心と体の振り向きを表現しています。古いものに執着していたマリアが主の声によって、新しい世界への目が開かれていきました。
2度目の呼びかけによって、マリアは園丁が主イエスだと気づき、「ラボニ」と呼びかけます。このことばは「先生」という意味です。ただし、「ラボニ」は、イエス時代のパレスチナ地方で使われていたアラム語です。当時の会話は、ヘブライ語、厳密に言うとアラム語でした。
ギリシャ語に訳されずに、当時の言語の響きがそのまま、残されていますが、深い意味があります。
すき焼きを、英訳されずにスキヤキと呼ぶのは。その響きでしか表現出来ないようなものでしょう。
録音機のない時代ですから、マリアの心の動きや感情をそのまま残したかったかもしれません。
マリアが深い尊敬を込めて、主イエスを呼んだその呼称は、復活の朝に美しく響きわたったことでしょう。
「人を深く愛し、闇から光へと導く真の先生の復活だ」と、「ラボニ」という言葉は、喜びと愛を大きく表現しています。
心の耳を傾けて、その声を受け止めたいと思います。 
 土の中の新芽は、春の日差しによって、土から出てくるようです。
 暗闇の中にいたマリアは、イエスの呼びかけによって、しかも、自分に向けて言われる主の言葉によって、目覚め、心の新芽が顔を出していくのです。
八木重吉の誌の中に「春の水」という詩があります。
 「春の水」 きりすと/われによみがえれば/よみがえりにあたいするもの/すべていのちをふきかえしゆくなり/うらぶれはてし われなりしかど/あたいなき/すぎこしかたにはあらじとおもう
「よみがえりにあたいするもの / すべていのちをふきかえしゆくなり」と、主の復活は私たちの中にも希望 生きる力 愛をよみがえらせます。大切なラボニです。