我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたう
えでなければ、判決を下してはならない。
ヨハネによる福音書7:51
権力者達は主イエスを捕らえようとして、下役達を遣わしました。ところが、下役達は主イエス
の教えに良心を動かされ、主イエスを捕らえることが出来ませんでした。主の教えは、まっすぐに人
の心に届きます。
人の心を動かす力に満ちていました。
下役達はその思いを権力者達に伝えました。
主イエスを死刑にしようとして動き始めた、ユダヤのサンヒドリンと言う議会で一人だけ、そのこ
とに反対する議員がいました。その人の名前はニコデモと言います。51で、主イエスを有罪にする
ことに対する、ただ一人の反対者でありました。
3章において、ニコデモは夜に主イエスを訪問したことがあります。心に乾きを持ち、求める心を
この人は持っていたのです。そして、新しく生まれ変わりたいという気持ちを持っていました。そこ
で、勇気を持って、少数者となって、主イエスの側に立ったのであります。
他の議員は、そんなニコデモのことを良く思いませんでした。そして、ニコデモに言います。「あ
なたもガリラヤ人なのか」と。これは軽蔑の言葉でありました。彼らは、エルサレムを救いの中心と
考えているのでしょうか。「貧しい民衆の多い、困窮を抱えた地域ガリラヤからは、神から遣わされ
てくる預言者は生まれない」と差別発言をするのであります。
ガリラヤという辺境の地からは、良いものは生まれないというのです。又少数者の立場もそれと同
じであると言うのです。
ヨハネによる福音書7:38「わたしを信じる者は、聖書に書いているとおりその人の内から生き
た水が川となって流れ出るようになる」と書かれ、「乾いている人は誰でもわたしの所に来て飲みな
さい」と主は言われています。
このみ言葉を聞いて思い浮かぶのは、砂漠でしょうか。乾いているという言葉がひっかかるのであ
ります。水がないと言う状況は不安・混乱・絶望・放棄をもたらします。そんなところで、主は泉と
なって下さり、私たちの魂に潤いをもたらすのみならず、周りの人々をも潤すことが出来るようにな
ると、おっしゃっておられます。
ガリラヤの辺境の地と、エリートの道を歩んできたニコデモです。どうして対照的な2つのものが
ガリラヤという言葉でくくられているのでしょうか。不思議な思いを持つ人もいらっしゃるでしょう。
私たちの国日本も、水道をひねると水が豊富に出てきます。でも、砂漠の経験をすることがありま
す。不安・混乱・絶望・放棄というものは私たちの根底をゆすっていきます。 ニコデモも議員であ
りましたが、そのことを痛烈に感じた人であったのではないでしょうか。
心に乾きを持ち、求める心を持っていたと考えます。
こんな砂漠にはオアシスはないとあきらめたらいけませんね。人間の判断でこの地から良いものは
生まれないと決めつけるのは不信仰であると思います。
どんな人であっても、どんなところに住んでいても、どんな状況にあっても、
救い主イエスと交わる時、永遠の命に至る泉があり、周りの人を潤す泉があります。
51節でニコデモは、真理である主イエスに聞き、何をしたかを確かめること
の大切さを訴えているのです。
主が真理であられるのは、私たちを生かされる方であるからです。敵対者の心を動かす力があります。
ニコデモはのちに、アリアマタヤのヨセフと共に主イエスの遺体を引き取り、丁寧に葬るお手伝いをし
ました。老年期には、ニコデモはクリスチャンになったと言われています。
砂漠のガリラヤに泉が湧き、周りの人々を潤していく人になりました。自分には何も良いものはない、
多数者の指示がないし、状況も恵まれてないと思っていても
大切なのは神様から真理を示されることですね。