日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

月主題0-2歳児「たのしい」  3-5歳児「やってみる」

2015-06-30 13:14:21 | キリスト教保育
月主題聖句「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民
      主に養われる羊の群れ」 
詩編100:3
 
羊は弱く 臆病な動物です。自分で自分の身を守ることも出来ません。だから導き手、守り手としての羊飼いが必要です。そして羊飼いの「声」を覚えて羊飼いに従うことによって自分を守ることが出来ます。
神様が羊飼いとしてわたしたちを守り、導いてくださることを信じています。
常に聖書に学び、神様に喜ばれることを問いつつ、保育の実践に生かすことを願っています。こどもたちとご家庭の幸せ、豊かな成長 未来の幸せのために励んでまいります。
 牧者なる神様は、わたしたちを青草の原(食べ物の場所)と憩いの水のほとりに導いて下さいます。
 心の栄養(人間としての栄養)の場所へと導いて下さいます。神様の愛を伝えること子どもを信頼すること 自然の中で共に遊ぶことなど、成長に必要な栄養です。 
聖書の中に、「心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天にはいることは出来ない」(マタイ18:3)という御言葉があります。
おとなたちはもう忘れてしまった はなびらはどんな味がするか おさじはどんな重みがあるか 時計はどんな音がするか ・ ・ ・
このようなことを忘れることが大人になることかもしれません。(吉原幸子作)
しかし、子どもを育てる大人はその視点を忘れてはいけません。子どもは、出会ったものを五感で感じ、理解して育ちます。子どもの好奇心・心の動きを大切にする幼子の視点が大人に求められています。  神様はその視点へと私たちを導いています。
さるかに合戦で「早く芽をだせ柿の種、出ないとはさみで切っちゃうぞ!」というセリフがあります。保育園で子どもを見守るとき 「早く芽を出せ柿の種!」という姿勢より、しっかり、ゆっくり、確実に、ひとつひとつ、消化し、納得し、認められ 育っていくことが大切です。
子どもに自分を置き換えれば、見えてくる大切なことが、子育ての中にあります。
 羊飼いなる神様が、そこへ私たちを導いている見方です。

ヨハネによる福音書1:1-5 花の日合同礼拝

2015-06-23 17:48:44 | 説教
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。ヨハネによる福音書1:4

小さな事に愛を込めるのが真心と、マザーテレサが言いました、みんなが語る一言一言にも愛を込めることが大切ですね。
 「ばか」「ぶす」とか人を傷つける言葉、それはのろいの言葉となって、聞いた人に不快感を与えていきます。でも、聞いたら、窓を開けた時のように、さわやかな風がはいってくるような言葉もあるし。聞いて、元気が出てきたり、立ち上がることが出来る良い言葉があります。
 今日の聖書では、神様は命の源であると語られています。命を与える方が神様ですね。
そうです、神様の言葉は、聞く人に力を与えるすごい言葉です。
 わたしたちは、神様から命をもらって生きています。
 悲しい 悔しい 腹がたつなど嫌な気持ちになった時に、神様の言葉は聞こえてきます。
 「君がすきだ」ってだれかぼくに  いってくれたら ソラ   元気になる
 「きみがだいじ」ってだれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく
 「きみといくよ」ってだれかぼくに いってくれたら ホロ   その気になる

 神様の言葉を聞いて励まされた人がいます。ペサニ--ハミルトンさんは
 ソウルサーファーという映画の主人公のモデルとなった実在の人物です。
 ある時、海で彼女は 、 突然サメに襲われ、左腕をもぎとられた彼女は「何が神様の計画なのか、わからない」とお見舞いに来た教会スタッフに泣いて訴えました。
 その教会スタッフはエレミヤ書29章11節を引用しました。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」
「わたしは、あなたたちのために立てた計画は不幸ではない、あなたに輝く未来を与える」ということであり、平和というのはまわりの人にも希望と力を与えることです。
 彼女の両親は何度も何度も聖書の言葉を、彼女に読み聞かせました。彼女の心に元気をあたえ、再びサーファーになったそうです。
神様の言葉は私たちの心を元気にする命の言葉です
 この言葉を心に宿していると、心の中に明るさや喜びがあり、他のお友だちも明るく元気にする言葉を語ることが出来るようになります。

 言葉のうちに命があります。
 
神様の言葉を聞いたら、元気が出てきて、友だちを励ましたくなるのです。


イザヤ書55章10節、11節に次のように記されています。


 「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、

  地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、

  種まく者に種を与え、

  食べる者にかてを与える。

  

  このように、わが口から出る言葉も、

  むなしくわたしに帰らない。

  わたしの喜ぶところのことをなし、

  わたしが命じ送った事を果す。


10節では、天から降る雨について語っています。雨が降るからこそ、地は潤い、食物は育ち、食べる者に糧を与えます。天からの雨がなければ、地上は何も育ちません。それと同じように、神の言葉も人の心を潤し、生かすのです。

使徒言行録4:5-12「キリストを信任する教会」

2015-06-23 17:44:59 | 説教
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
                                 使徒言行録4:12


 ペテロたちは権力者の前で臆することなく証言します。
「あなた方が十字架につけて殺したイエスの名によって、この男は癒された」と。
 ペトロは誰が、この足の不自由な人をいやしたのかを説明し始めます。
 人の目から見れば、足の不自由な人の手をとったペトロがしたのだと思えたかもしれません。
ペトロは「しかし、これは死者の中から復活されたイエスのみ名がなしえたものなのだ」と語ります。
ユダヤ人の社会の中で「名前」はその人の本質自身を表すものだと考えられていました。別の言葉でいえば名前はその人格自身を表すとでも言うことができます。つまり、ペトロのこの証言は、主イエス自身がこのみ業をなしたのだと主張しています。
今ペトロたちを裁いているユダヤ人たちこそこのイエスを十字架にかけ、殺してしまった張本人でした。しかし、「イエスを亡き者にしてやった」と勝利宣言をなした彼らに、「イエスはあなたたちに敗北してしまったのではない。復活されて、いまもすばらしいみ業を表しておられるのだ」とペトロは語ったのです。
ペトロは続いていいます。「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」(11節)。

 ここには詩編の118編の言葉が引用されています。家を建てる大工が集めた材料を吟味した結果、「これは何の役にも立ちそうもない」と判断して、捨ててしまった石材が、実際、立てられた建物の中でその中心を支える大切な「親石」になったというのです。
 神殿に働く人々、またそこに集まるユダヤ人たちは神様の救いの計画を告げ、またそれを実現するために選ばれた人々でした。
彼らは肝心の「親石」がわからなくなってしまっていたのです。いや、まるで自分たちこそがその建物の「親石」であるかのように、考えてしまいました。彼らが親石と考えていたものがぐらぐらと揺れて崩れていきました。
本当の「親石」は、彼らが捨てた主イエスであると、ペトロ達は強く宣言しました。
 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)

 実はここでペトロが語る「救われる」と言う言葉は9節に出る足の不自由だった人が「いやされた」という言葉とギリシャ語では同じ単語が使われています。
救われる(ギリシャ語ソーゾー)には、いやされる、解放される、保たれる、完全にされるという意味がある
救う」という聖書の言葉はソーゾー、救い主はソーテールですが、どちらも病気を治す、いやし主とも訳せる言葉です。聖書では、救いといやしは区別されないのです。

彼を「いやした」主イエスこそ、私たちを「救い・いやすことのできる唯一のお方だ」とペトロは断言しているのです。
 排他的な思想ではありません。
教会は長きにわたって、イエス様の名によって癒され、救われた人によって形成されてきました。主の名によって集められたこの世の教会が、人々の救いに関わるように用いられます。
 キリストの名は金看板です。世間に掲げる救いです。

使徒言行録2:37-47「教会の一致と交わり」

2015-06-23 17:41:32 | 説教
毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。
使徒言行録2:46-47


 「喜びと真心をもって一緒に食事をしていた」と言いますが、この「食事をしていた」と訳されているところも、元々の言葉遣いでは「糧を分け合っていた」という意味合いです。
主の食卓で裂かれたパンを互いに分け合って食べる食事です。教会では「愛餐会」と呼ぶ食事会をしますが、その起源が書かれています。初期の教会で行われる「聖餐式」には「愛餐」と呼ばれる食事会が伴いました。パンと葡萄酒ばかりではなくて、他の食べ物や生活必需品などのいろいろなものがその場に持ち寄られました。
 「喜びと真心をもって一緒に食事をした」と言われるのは、一緒に食事をする交わりに喜びがあります。家庭の食事・友との食事も楽しいですが、教会での愛餐は、主イエスの救いの恵みに感謝する思いが一つになって、実際に互いに分かち合う喜びと真心が教会生活に現われたということです。
そして、「真心」という言葉がここにともなわれています。ま心とは、純真で誠実で、穏やかでへりくだった人の心、表・裏のない心を表わしています。神に対する偽りのない心がこのとき教会に生まれていた。
それは同時に人に対する誠実な態度として現われていきます。
 「喜びと真心」が最初の教会の印象であります。聖霊の賜物であります。この信徒の交わりは「民衆全体から好意を寄せられて、仲間を増し加えていった」とあります。
教会はこのように豊かな祝福を受けて、力強く成長していきました。
 天国と地獄の食事のお話があります。出展は不明なところがありますが、宗教界ではよく例話として用いられています。
こんな話があります。天国と地獄では10人に対して全く同じものが用意されるそうです。豪華な食事と1メートルもある長いスプーンです。地獄の住人は長すぎるスプーンを使いこなせず、豪華な食事を食べることができません。それに対し天国の住人は長いスプーンでテーブルの向かい側の相手のお皿から食事をすくい、相手の口に入れてあげます。そこではみんな満足そうです。天国にあって地獄にないもの、それが愛です。それも隣人愛。天国とは互いに愛し合うところであり、神はそこにとどまられます。そこには長いスプーンがあります。地獄は、長いスプーンを取り合い、奪い合っています。天国の食事は、長いスプーンでお互いに、スープを口に運び合い楽しそうです。
 最初のキリスト者は、神が自分たちのためにひとり子イエス・キリストという大きな犠牲をはらってまでも愛してくださったということを、強く感じていました。そこから、人を大切にする真心が生まれていきました。それが教会を一つにさせていきました。
初代教会員ひとり一人が自ら喜んで礼拝し、御言葉を学び、交わり、互いに仕える姿が、いつの間にか周りの人々へ最高の「伝道」「宣教活動」とされていたのです。ルカは次のように記します。「(彼らは)…民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた(47節)」と。