「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」(20節)
この家とは、これまでにも何度か言われていたガリラヤ湖西岸のカファルナウムの町にあったシモン・ペトロとアンデレ兄弟の家と思われます。
シモン・ペトロとその家族とは、全員が主イエスを信じ、従い、主イエスの福音宣教のみわざのために仕えました。彼らの家もまた主イエスの説教の場所として用いられました。今日で言えば、家庭集会の場として、家の教会として用いられました。それはその家にとって、どんなにか大きな神の祝福であることでしょうか。
その家には次から次へと群衆が集まって来て、主イエスと弟子たちは食事をする時間もないほどであったと書かれています。ここに集まって来た群衆は、必ずしもみな主イエスの説教を聞こうとしていたのではなく、病気を治していただくとか、悪霊を追い出していただくとか、あるいはその奇跡を見たいといった目的を持って来ていた人たちが多かったということが、これまでに語られていたことからも推測できるのですが、主イエスはそのような群衆をも追い払うことはなさいませんでした。彼らのために奉仕され、ご自身の労力と時間とをお捧げになり、そのために食事の時間を犠牲にされました。ここには、この世の人々のために徹底してお仕えくださる主イエスのお姿が、そのためにご自身のすべてを捧げ尽くされる主イエスのお姿が伺われます。 主イエスを慕い、多くの人々がイエスのもとにやってきました。食事を取る暇もないほどでした。
イエス様の活動に対して、2組のイエスに否定的判断を下す人々が出てきます。
一つのグループはイエス様の身内の人達すなわち母と兄弟達です。
「イエスが気が変になった」と聞き、「取り押さえ」に来ました。「取り押さえ」という言葉は「力づくで、逮捕」すると言う意味があります。主イエスの身内でさえ、デマを信じて、主イエスを誤解したのです。家族からすれば、一家の大黒柱が家業を捨てて放浪説教者になり、ユダヤ教の権威者と対立している。気が変になったと思わざるを得ない。
身内すらも、イエス様の言動の影響力を受け入れられなかったと考えることが出来ます。
又休む間もなく働かれる主イエスは身近な親族あるいは人間一般の中心とは、別の中心をめぐって回転していたのであります。35節それは神の意志を行うことでありました。
もう一つのグループはエルサレムから下ってきた律法学者達でした。彼らは、イエスがベルゼブル、悪霊の頭の力で悪霊追放を働いていると主張しました。
イエスの良い業を悪霊によるものだと反論したのであります。
イエスに近い人も遠い人もイエスを誤解する可能性があります。又無理解と反対の態度をとる人がいます。イエス様のなさることには、罪人である人間は、うけいれられないことがあったという
そう言った人たちに対してイエス様は反論されます。「悪魔が内輪もめして争えば、崩壊していく」と言うのであります。
世界征服を狙ったヒットラ-は、あらゆる民主的団体を潰していった。それぞれの団体の中にスパイを送りこみました。スパイ達は内部から分裂を起こさせましした。
外から圧力をかけるより、内部から分裂を起こさせることの方が効果的なのです。内輪もめしたら、内部から崩壊していくのです。
ベルゼブル、悪霊の頭の力で悪霊追放をしているのではありません。子分が一生懸命に働いているのに、方端から親分がぶち壊したのでは悪霊の世界も成立しません。
又悪霊の頭がやっつけられているからイエスは力あるお働きをされるのであります。
マルティンルターは「わたしたちはただ神の力を知っているだけでは充分ではない。悪魔の力を知らなくてはならない。その力強い悪魔に打ち勝つことのできない自分の弱さを知って、ただ福音にのみ頼ることを学ばねばならない」と言う。
鈴木正久先生はニヒリズムを警戒せよと言われている。ニヒリズムを警戒せよと言われている。そのニヒリズムとは何を意味するのでしょうか。山よりも回りの雲に目を引かれるように、神の働きよりも、ベルゼブルの影を強く認める。神の働きよりも悪霊の働きの方が強力であるとクリスチャンでありながら認めることを言います。
神の国は近づいていると信じ、人間を罪から救う神の力が働いていることを認める
ましょう。悪が力を奮っている世でもそうなのです。
ル-ドルフボーレンは、信仰が与えられることは「新しいメガネ」が与えられることであると語っています。なおサタンが力をふるっているように見える現実にあって、しかし、主イエスこそが十字架と蘇りの血みどろの戦いにおいて勝利をされ、私達の家の
主人となって下さっておられる現実を信仰のまなざし、霊のまなざしという「新しいめがね」で見るのである。
「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」 「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道 具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(23~27節)の二つの例えは主イエスの口から出たとは思えないような闇の世界からとられた例えです。
「聖霊をけがす」とは、ここでの律法学者のように、イエス・キリストの働きを悪霊の働きとすること、神が御子イエス・キリストによってなそうとされる救いの働きを心を閉ざし拒み続けること、神の救いの御手を払い退け続けることです。
ベルゼブルとは 「ハエの主」という意味です。
イエスは悪霊を集めるのではなく、追い出す方なのです。
蠅は飛び回り、あらゆるものに触れる。人間の食物をだけではなく、死骸や腐敗物、汚物に至るまで、清いものから不潔なものまであらゆるものに触れ回る。
ハエの影響力はケガしていくことであります。主を、権力者たちは「神を汚す者」としてとらえています。
主は、汚れた者とされている者にふれていきました。世の人には、それは外れているように思われ、奇妙に見えたのでしょう。普段接しないような病者と付き合うことが異常と看做されたのです。又ハエの業、悪魔の業とみなされたのです。
聖霊の力は、どんな批判にも抗う大きな力があります。それほどまでに主の愛の力は大きいのです。
傍らにいる心に寄り添うイエスこそが、悪霊を追い出す大きな力をお持ちになられて、癒やす力を持っておられるのです。そこに命がけの戦いがあります。
セラペウオー。それは「病気を治療する」というよりも、「病気の人に仕える、看病する」という意味の言葉である。イエスは町や村を巡り歩いて、人々の求めに応じて一生懸命病の人々に仕え、何とかその苦しみを和らげようと看病されたけれども、なおもイエスのもとには大勢の弱り果てた人たちが押し寄せてくる。そんな状況がそこにはあったのだろう。
病気を治すだけでなく、癒やす力 苦しみの本質にふれ癒やす力を持っておられるのがイエス様なのです。悪に勝利する力を持っている方は、このように傍らに立ち続ける方です。