日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マルコによる福音書3章20-27 「悪と戦うキリスト」

2018-03-08 08:55:27 | フォトギャラリー

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」(20節)

 この家とは、これまでにも何度か言われていたガリラヤ湖西岸のカファルナウムの町にあったシモン・ペトロとアンデレ兄弟の家と思われます。

 シモン・ペトロとその家族とは、全員が主イエスを信じ、従い、主イエスの福音宣教のみわざのために仕えました。彼らの家もまた主イエスの説教の場所として用いられました。今日で言えば、家庭集会の場として、家の教会として用いられました。それはその家にとって、どんなにか大きな神の祝福であることでしょうか。

 その家には次から次へと群衆が集まって来て、主イエスと弟子たちは食事をする時間もないほどであったと書かれています。ここに集まって来た群衆は、必ずしもみな主イエスの説教を聞こうとしていたのではなく、病気を治していただくとか、悪霊を追い出していただくとか、あるいはその奇跡を見たいといった目的を持って来ていた人たちが多かったということが、これまでに語られていたことからも推測できるのですが、主イエスはそのような群衆をも追い払うことはなさいませんでした。彼らのために奉仕され、ご自身の労力と時間とをお捧げになり、そのために食事の時間を犠牲にされました。ここには、この世の人々のために徹底してお仕えくださる主イエスのお姿が、そのためにご自身のすべてを捧げ尽くされる主イエスのお姿が伺われます。 主イエスを慕い、多くの人々がイエスのもとにやってきました。食事を取る暇もないほどでした。

  イエス様の活動に対して、2組のイエスに否定的判断を下す人々が出てきます。

 一つのグループはイエス様の身内の人達すなわち母と兄弟達です。

  「イエスが気が変になった」と聞き、「取り押さえ」に来ました。「取り押さえ」という言葉は「力づくで、逮捕」すると言う意味があります。主イエスの身内でさえ、デマを信じて、主イエスを誤解したのです。家族からすれば、一家の大黒柱が家業を捨てて放浪説教者になり、ユダヤ教の権威者と対立している。気が変になったと思わざるを得ない。

  身内すらも、イエス様の言動の影響力を受け入れられなかったと考えることが出来ます。

  又休む間もなく働かれる主イエスは身近な親族あるいは人間一般の中心とは、別の中心をめぐって回転していたのであります。35節それは神の意志を行うことでありました。

  もう一つのグループはエルサレムから下ってきた律法学者達でした。彼らは、イエスがベルゼブル、悪霊の頭の力で悪霊追放を働いていると主張しました。

  イエスの良い業を悪霊によるものだと反論したのであります。

  イエスに近い人も遠い人もイエスを誤解する可能性があります。又無理解と反対の態度をとる人がいます。イエス様のなさることには、罪人である人間は、うけいれられないことがあったという

そう言った人たちに対してイエス様は反論されます。「悪魔が内輪もめして争えば、崩壊していく」と言うのであります。

  世界征服を狙ったヒットラ-は、あらゆる民主的団体を潰していった。それぞれの団体の中にスパイを送りこみました。スパイ達は内部から分裂を起こさせましした。

外から圧力をかけるより、内部から分裂を起こさせることの方が効果的なのです。内輪もめしたら、内部から崩壊していくのです。

  ベルゼブル、悪霊の頭の力で悪霊追放をしているのではありません。子分が一生懸命に働いているのに、方端から親分がぶち壊したのでは悪霊の世界も成立しません。

 又悪霊の頭がやっつけられているからイエスは力あるお働きをされるのであります。

 マルティンルターは「わたしたちはただ神の力を知っているだけでは充分ではない。悪魔の力を知らなくてはならない。その力強い悪魔に打ち勝つことのできない自分の弱さを知って、ただ福音にのみ頼ることを学ばねばならない」と言う。

 鈴木正久先生はニヒリズムを警戒せよと言われている。ニヒリズムを警戒せよと言われている。そのニヒリズムとは何を意味するのでしょうか。山よりも回りの雲に目を引かれるように、神の働きよりも、ベルゼブルの影を強く認める。神の働きよりも悪霊の働きの方が強力であるとクリスチャンでありながら認めることを言います。

 神の国は近づいていると信じ、人間を罪から救う神の力が働いていることを認める

 ましょう。悪が力を奮っている世でもそうなのです。

 ル-ドルフボーレンは、信仰が与えられることは「新しいメガネ」が与えられることであると語っています。なおサタンが力をふるっているように見える現実にあって、しかし、主イエスこそが十字架と蘇りの血みどろの戦いにおいて勝利をされ、私達の家の

 主人となって下さっておられる現実を信仰のまなざし、霊のまなざしという「新しいめがね」で見るのである。

 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。」 「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道 具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」(23~27節)の二つの例えは主イエスの口から出たとは思えないような闇の世界からとられた例えです。

 「聖霊をけがす」とは、ここでの律法学者のように、イエス・キリストの働きを悪霊の働きとすること、神が御子イエス・キリストによってなそうとされる救いの働きを心を閉ざし拒み続けること、神の救いの御手を払い退け続けることです。

  ベルゼブルとは 「ハエの主」という意味です。

 イエスは悪霊を集めるのではなく、追い出す方なのです。

蠅は飛び回り、あらゆるものに触れる。人間の食物をだけではなく、死骸や腐敗物、汚物に至るまで、清いものから不潔なものまであらゆるものに触れ回る。

 ハエの影響力はケガしていくことであります。主を、権力者たちは「神を汚す者」としてとらえています。

 主は、汚れた者とされている者にふれていきました。世の人には、それは外れているように思われ、奇妙に見えたのでしょう。普段接しないような病者と付き合うことが異常と看做されたのです。又ハエの業、悪魔の業とみなされたのです。

 聖霊の力は、どんな批判にも抗う大きな力があります。それほどまでに主の愛の力は大きいのです。

 傍らにいる心に寄り添うイエスこそが、悪霊を追い出す大きな力をお持ちになられて、癒やす力を持っておられるのです。そこに命がけの戦いがあります。

セラペウオー。それは「病気を治療する」というよりも、「病気の人に仕える、看病する」という意味の言葉である。イエスは町や村を巡り歩いて、人々の求めに応じて一生懸命病の人々に仕え、何とかその苦しみを和らげようと看病されたけれども、なおもイエスのもとには大勢の弱り果てた人たちが押し寄せてくる。そんな状況がそこにはあったのだろう。

 病気を治すだけでなく、癒やす力 苦しみの本質にふれ癒やす力を持っておられるのがイエス様なのです。悪に勝利する力を持っている方は、このように傍らに立ち続ける方です。


「荒野の誘惑」 マルコによる福音書1:12-15

2018-03-02 10:14:31 | 説教

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。

                        マルコによる福音書 1:12

 イエス様がバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた、そのすぐ後です。イエス様がバプテスマを受けてすぐ、天が開け、御霊が鳩のように下ってきました。そして「あなたは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」という声が降ってきました。ご自身神から愛されている者として、神の愛を、神の救いを宣べ伝える働きが、神から公に委ねられました。

 しかし、イエス様はすぐに働きを始めたわけではありませんでした。イエス様はすぐに、御霊つまり神の霊によって、荒野に追いやられたというのです。他の訳ですと「霊が荒野に送り出した」という表現になっています。しかし実際のニュアンスとしては、まさに荒野に追いやられたという言葉がぴったりです。神ご自身がイエス様を荒野に追いやったのです。

 荒野とはどんなところでしょうか。英語の聖書では砂漠と訳されたりもしています。砂漠のように荒涼とした場所です。家族や仲間に囲まれているのが町の生活だとするなら、荒野とはまさに孤独な場所です。人との関係が経たれていて、心が締め付けられるように悲しくなる場所、それが荒野です。本日の箇所は短いながらも主イエスが荒野で誘惑を受けた箇所であります。他の福音書と違い、その誘惑の内容が詳細に示されていませんが、荒野に霊によって導かれたことと獣の表象が特徴的なことであります。

  荒野とは神が不在になった世界、秩序と調和が失われた世界、欲望と暴力が支配する世界、苦しみと悲しみが充満する世界、死と滅びに覆われた世界、ということになります。

 マルコの関心は、滅びと死が支配する世界に希望を与える存在として力に満ちたキリストにスポットをあてています。

 1:7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」。

 共同訳以外の聖書はわたしより力ある方と訳しております。優れると訳すると資質が問われます。前後関係からは力ある者と訳する方が良いのです。

  荒廃と滅びが支配する世界に力に満ちたキリストが登場し、荒れ野のようになったこの世界に救いが始まったということです。

 次に「野獣の存在」を記しているのはマルコだけですが。これをどのように理解したら良いのでありましょうか。野獣というのは、人間に敵対する力のシンボルととらえる学者もいるのですが、私たちの中にも野獣は住みついているように思います。

 詩編  22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。 22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。 22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。 22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 私たちが獣に襲われるととらえてしまいます。又荒れ野には恐ろしい獣がたくさんいたけれど、天使たちが主イエスに仕えて、それらの獣から主イエスを守っていたという風に読めるかもしれません。しかし、そうではないと思います。

 この「野獣と一緒におられた」というのは、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。」という、イザヤ書1169節の預言を差し示しています。

私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。」(詩篇 7322)いうことばが出てきます。私たちは自分の中に獣のような性質があることを感じることがあると思います。イエス様は大変象徴的なことをなさいました。野の獣と共にイエス様がおられる。それはイエス様の生涯の働きを象徴しているかのようです。罪のない正しい神の独り子なるイエス様が野の獣のような罪人たちと一緒に歩んでくださいました。そればかりか、そんな私たちのために十字架におかかりになられました。

 主が共にいて下さることによって、私たちの野獣性が克服され、霊性が高められ、愛に生きる者とされていくのです。怒り・弱者を押しのける衝動を人は克服していくことが大切です。

 私たちの心にも荒れ野があり、野獣が住んでいます。その野獣がどのようなものであれ、私たちを食いつくそうとして暴れまわることがあります。戦いや葛藤があるのです。しかし、イエス・キリストが心の荒れ野に住んでくださるとき、野獣はおとなしくなります。

 マルコ福音書はマタイやルカと違って、荒れ野でのサタンの誘惑の言葉やイエスの答えを伝えていません。しかし、この短い言葉の中に、主の力が輝いていることを思います。

 イエス・キリストの力の及ばない所はどこにもないということなんです。荒野であっても、どんな場所であっても。主イエスに、天使たちは仕えていた。この「仕える」というのは、「給仕をする」とも訳せる言葉ですから、荒れ野において天使たちが給仕する天来の食物、神様の養いによって40日の間主イエスは生きたということなのです。

 罪によって歪んだこの世界は弱肉強食かもしれない。しかしそれとはまったく違う価値観で生きることのできる世界がすでに来たのです。


マルコによる福音書4:35-41「奇跡を起こすイエス」

2018-03-02 10:05:48 | 説教

イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。   

                      マルコによる福音書4:38 

     

 朝早くまだ暗いうちから祈り始めるイエスは、ガリラヤ湖の西岸、カファルナウム地方で、大勢の群衆に囲まれ、いろいろな癒しの業を行い、たとえ話で、神の国の内容や福音を語られました。十二弟子たちは行動をともにし、群集とイエスの間を取り持っていました。緊張の続く時間でした。その日も夕方になり、イエスは休息のときをかねて、舟でガリラヤ湖の東岸に向かおうと考えて、「さぁ、向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。

 それまではイエスの行動、言動に従って歩み続けていた弟子たちが、ここからしばらくは自分の意志で歩き始めるのです。ガリラヤ湖は漁師を職業としていた弟子たちにとっては行動しなれた土地で、ついてくる群衆もいなく、困ったらイエスに尋ねればよいのですから。

 彼らはイエスをお連れしていこう、イエスにゆっくり休んでいただこうと決意して、群集を後ろに残し、イエスを舟に乗せ、すぐに岸を離れました。

 

 ガリラヤ湖は周囲を山で囲まれているという地形上、しばしば激しい突風が湖面を襲い、荒れ狂います。このときもそうでした。夕方近くになって主イエスは弟子達に「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。カファルナゥムから異邦人の町ゲラサに行くのです。ところがその乗った船が湖を進んでいくうちに、急に天候が悪くなってしまいました。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

 聖書にそう書かれております。この風は竜巻状の激しい風です。しかし、この風は37節では突風と訳されています。「突然ふき起こる風」であり、それは「急に強くなってやむ風」であります。命の危険を感じる風ですが、所詮一時的に吹いてやむ風であると、日本の聖書の翻訳者は位置づけているわけであります。

 海は人間の力を超えた恐ろしい力で人を脅かす悪霊の住処と考えられていました。しかも、夜の闇の中でこのような恐ろしい事態が起こっています。少なくても弟子の中の4人はもと漁師であります。しかし、主イエスはもと大工であられます。もと漁師は恐れとまどい、主イエスは平然としていました。

 主イエスの様子が書かれています。4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。

 舟の上という非常に狭い空間で、弟子たちは非常におそれますが、それは嵐の危険の中で、臆病になっただけではありません。毎日働いている湖、扱い慣れている船。豊かな経験、蓄積されてきた技能。これらが役に立たず、艫で休むイエスに頼らねばならないと決断しました。

  4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。イエス様は舟の艫の方で枕をして寝ていました。舟の艫と聞いて前か後かわかる方は博学だと思います。調べましたら、舟の艫は舟の尾、後方の部分。舟の舵がある方です。逆に舟の先は舳先(へさき)と言うそうです。イエス様は舟の艫、つまり舵のある方に居たことがわかります。

  この眠りを私達はどのように理解するのでしょうか。日頃の多忙の疲労で主イエスは寝ておられたのでしょうか。嵐の驚異には主は目覚められずに、弟子の困窮の請願によって目をさまされました。主イエスの眠りはある姿勢を象徴しておられるようであります。 

 向こう岸へ渡ろうとされるイエスの主導権が嵐によってもびくともしないということを

 象徴しているようであります。そして、この嵐は滅びに至らないと言うことを主はその眠りにおいて示されているのであります。

 ここで信仰の反対語は恐れであります。信仰は神への信頼であります。恐れによって前に進めなくなってしまうほど恐れはこの世において私達の生き方を妨げてしまいます。

 しかし、本当に畏れるべき方は誰であるかを知ることによって、他のものへの恐れを克服出来るのかもしれません。

 私達はこの物語を奇跡と捕らえます。驚くべきことでありましょう。しかし、主イエスはこの危機に対して無関心さを示されています。すなわち眠っておられるのであります。

 鈴木正久先生がこう言われています。「風はやんで、大凪になったとは奇跡であるだがそれが奇跡として私達に受け取られるのは、神の国への信頼がゆるがされ、風と波が究極のものであるかのように思いこむ私達の不信仰のゆえである」

  主は神への信頼を持ち続けて、眠っておられたのです。必ず神の支配が勝利し、向こう岸に着くと揺るぎなく信じていたのです。私達に奇跡と思えますことが、主にはあたりまえであったと言えます。

 4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」はマルコの編集句であります。不信仰と臆病は教会が克服すべき課題でした。

  恐れが生じた時は、眠っておられます主イエスのことを思い出しましょう。そして、平安を分けて頂くのであります。その後、その解決に向けて自分のなすべきことがあれば、やってみることです。それでも恐れが出るならば、主を起こしましょう。嵐を沈めて下さいます。

 何でも問題なく思い通りに言っている人もいるでしょう。しかし、困窮している人の救い主であるキリストを知らないでいると、その人が苦難に陥った時はへたをすると沢山の悪霊がその人の心を住まいとする危険があります。

 今困難を抱えていても、共に船に乗っていて下さる主イエスを認めるのなら、その人の心に平安が与えられ、問題の克服に向かって進めるのではないでしょうか。

 前に進めないような不本意な雨のときに弟子達はあわてふためきました。しかし、主は寝ておられたのです。それは必ず神様がみ業を現されるという信頼があったからだと思います。

  その揺るぎない信頼を可能にする力をキリストに分けて頂きましょう。その時に恐れから解放され、問題解決の糸口が見えてくるのでしょう。

 イエスは艫を枕に眠っておられたという。艫とは、舟の一番後ろ、おそらくは船の舳先へさきと並んで一番揺れの激しい位置である。私達が船で一番激しい揺れを感じるところで主は眠っておられたのです。

  新年度に向かう船、その心の揺れは激しいでしょう。しかし、恐れに支配されては結局前に進めません。激しく揺れているところで眠っておられる主を見つめ、恐れを克服してゆきましょう。

  主の安らぎはこの嵐が滅びに至らないと示しています。又あなたの力で克服できる可能性があると示されているのかもしれません。それでもだめなら、主に祈り、起きて頂きましょう。

 この「起き上がり」というのは、イエス様が「復活する」のと同じ意味の言葉が使われています。闇の海、嵐の海のただ中でもそれに負 かされることはない。全てを無に帰そうとする「死」の力を打ち破って、イエス様はよみがえられ、弟子たちや私たちを「向こう岸」へと連れて行って下さる、ということです。

 

 「太陽の賛歌」を書いたアシジのフランチェスコは、その歌の中で「体の死は姉妹である 」と歌いました。彼にとって、死は、恐れる対象ではなく、永遠の命への入り口に過ぎない、と言うことなのでしょう。

 いろんな人と出会うことへの不安を克服していき、コミュニケーションをうまくとれるように働きかけることが出来ればいいですね。