日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

クリスマス行事のご案内

2013-11-29 18:46:31 | 行事のご案内
☆オ-プンチャ-チ 
12月12日(木)10時-11時 於 中津教会         
    短い礼拝を守り、その後参加者で出し物を出し合います。グレース保育園の
子ども達が出席予定です。

☆クリスマスキャロル 
  12月18日(水)19時       
 聖愛ホーム玄関前集合
    聖歌隊を作り、讃美歌でクリスマスの喜びの訪れをいずみの園の皆様にお伝え
します。毎日曜日の礼拝後にクリスマスの讃美歌を練習しています。どうぞ、
    お気軽にご参加下さい。
12月11日まで、参加希望者は中津教会にお知らせ下さい。

☆クリスマス礼拝  12月22日(日)
          朝10時20分  於 中津教会
 クリスマス愛餐会 礼拝後ー14時半 於 中津教会
クリスマス愛餐会は昼食を共にし、子どもの教会・青年会・壮年会・女性会
   オカリナ同好会トトロの皆様の楽しい演奏や出し物があります。
おいしいお食事を用意してお待ちしています。参加費300円です。

☆キャンドルライトサービス  
   12月24日(火)19時 於 中津教会
ローソクの火を灯して礼拝をお守りします。茶菓を用意してお待ちしています。

☆子どもクリスマス(ワイワイランド)
  12月25日(水)10時 於グレース保育園





星を動かす少女

2013-11-29 18:43:52 | ちょっと一息 

星を動かす少女 作 松田明三郎

クリスマスのページェントで
日曜学校の上級生たちは
三人の博士や
牧羊者の群や
マリヤなど
それぞれ人の眼につく役を
ふりあてられたが、
一人の少女は
誰も見ていない舞台の背後にかくれて
星を動かす役があたった。

「お母さん、
私は今夜星を動かすの。
見ていて頂戴ねー」

その夜、堂に満ちた会衆は
ベツレヘムの星を動かしたものが
誰であるか気づかなかったけれど、
彼女の母だけは知っていた。
そこに少女の喜びがあった。


出エジプト記第6章2-13「救いの約束」

2013-11-29 18:27:27 | 説教
神はモーセに仰せになった。「わたしは主である」。
              出エジプト記6:2

エジプト王は、移住してきたイスラエルの民に脅威を抱くようになります。「見よ、イスラエル人なるこの民は、我々にとってあまりにも多くまた強すぎる」(1:9)。こうしてエジプト人はイスラエルを弾圧し始め、イスラエル人は全て奴隷として、重労働に従事させられました。
 また、これ以上人が増えないように、「ヘブライ人の男児は全て殺せ」との命令が出されました。
 イスラエルの民は苦しみ、うめき、叫び始めました。その叫びが神に届き。
イスラエルをエジプトから救い出すことを神はなされました。
 そのリーダーとして選ばれたのが、モーセでした。
 しかし、神のみ業が進展していない状況がありました。
 5章にある「エジプトを解放するように」と申し出に対して、エジプトは王は頑なに拒否をしました。
 2節「神はモーセに仰せになった。『わたしは主である』」。更に「わたしは主である」(アニー・アドナイ)が八節までに四回繰り返されるた。(2、6、7、8節)。
 そして、主はモーセに対してこうおっしゃいました。11節「エジプトの王ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を国から去らせるように説得しなさい」。
 主はモーセにファラオを説得するよう言われました。
 モーセは「唇に割礼のないわたし」のいうことを聞かないと反論します。
「唇に割礼のない」とは、口に包皮がかぶさり、なめらかに言葉が出てこないという譬えであります。無割礼の者は選民の一人として神に仕える資格がないものとされていました。
神様はあえて口べたのモーセを立てられた。一体どうしてでしょうか。そう言えば、使徒パウロも話は得意ではありませんでした。
パウロのことをコリントの人々は、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(コリント二10:10)と言ったそうです。
 もしも雄弁な人が演説をして、それにみんなが感動してついてきたとしたら、いかがでしょうか。それはその人の才能・素質・能力の魅力によることになるでしょう。
 その人自身もそのように思い傲慢になるかもしれません。みんなもその人をほめたたえ、持ち上げるでしょう。
結局、モーセがファラオを説得したのではありません。神がファラオの手から民を救い出したのです。ということで、語る者がその言葉にどれだけ実存をかけて信頼しているかと言うことです。
 神に仕える資格のない罪人が神に救われながら、ご用に当たるのです。
 神の圧倒的な力が臨んでいます。そして、すべては、神の語られる言葉に、救いの根拠があります。
圧政・又それが続くことは、神の大きな力を見るゆえであります。
神は名を主と言われました。あってあるものという原語の意味があります。神は何ものにも依存する必要がなく、むしろ、すべてのものを存在たらしめる方です。すれゆえに支配者であられます。
 昔の武士は往々、敵前に名乗り上げだいおんじょうに「我は、何々右衛門」と名乗り上げました。それと同時にその名声を恥じないように死力を尽くして闘いました。すなわち彼らはその対面を重んじ、これにどろを塗らぬように苦心しました。
イスラエル人を救うために、働くことを決死の思いをして、神は決断されました。
 その神が今私達の救いのためにお働き下さっているのです。
 クリスマスにはイエス様をおつかわし下さいました。イエス様は私達のために十字架にかかられ、栄光を現して下さいました。
 その、大いなる愛によって私達は救われるのです。
神のみ言葉に信頼して、その大いなる業を受けとめていきましょう。
私達を罪と死から救い出される神のみ業を信じていきましょう。

 「みつけた みつけた」「恵への感謝」

2013-11-08 16:40:09 | キリスト教保育
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
               フィリピの信徒への手紙4章6節


 霜月の11月を迎えました。朝夕のひんやりした空気を感じ、山々のきれいな紅葉や、いわし雲の広がる空が見えてきます。野に咲くコスモスの花もきれいですね。
今月の聖句は思い煩わないで、どんな出来事の中にも「喜びを見つける」ことが奨励されています。感謝の心とポジティブな考え方が求められますね。どんな時にも救い主イエス様が共にいて下さるから、そこに導かれます。
遊びも何ものかに身を委ね、その心地良さに夢中になることです。恵の神様の愛の中で、いろいろと楽しいことを見いだしていくことが、神様のあふれる愛、希望に気づいていく糧となっていくのです。
レイチェル・カーソン(海洋生物学者・作家)は、こう言います。「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要でないと固く信じています」と。
 「センス・オブ・ワンダー」=神秘さや不思議さに目を見張る感性」が大切だということです。
美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや、未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたび呼び覚まされると、次はその対象となるものについてもっと知りたいと思うようになります。
秋の豊かな自然の中で、いろいろと心を動かす体験をしたいですね。
「みつけた」と言う感動・好奇心と「恵への感謝」が、自分から動き始め知識を獲得していく土壌作りとなると信じています。
 一人ひとりの「みつけた」を「みつけた みつけた」と受けとめ合いながら創られ広がる遊び、その中で行われるやりとりからも関係が深まっていきます。大切なお互いの存在を受けとめ合いながら、神様の豊かな恵みを、目で見て、舌で味わって、共に実感していきたいと思います。
 ハドソン(イギリスの発明学者)のお母さんは、子ども達に、「花、鳥、虫など自然界の美しいものは、造り主なる神様からのお使者(つかい)である」と言っています。
 自然に触れあう子どもは、きらきら輝いています。子ども達は自然の中で学び、成長してゆきます。

コリントの信徒への手紙一15章1-20節 初穂となられたイエス

2013-11-08 16:28:41 | 説教
 実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
                 コリントの信徒への手紙一15章20節

 キリストは初穂として復活されたのです。すなわち、キリストの復活はキリストの身にだけ起こった孤立した出来事ではありません。創造者なる神が終りの日に成し遂げると語ってこられた死者たちの復活がいまキリストの身において起こったのです。初穂を神に捧げることは全収穫を捧げることであるように、キリストの復活は終末の死者の復活の開始であり、その中に死者の復活全体が含まれているのです。
 キリストが復活されたのは、私たちのためであり、私たちもそれに続くものとなるためです。私たちの最終的な敵は死です。どんなに強いこの世の権力者も医学もこれに勝てないのです。しかし、キリストはこの死と闘い、3日目に甦り、勝利されました。
 教会という日本語はあまりはまってない言葉であります。明治時代につくられた翻訳語であるかもしれません。聖書ではエクレシアという言葉が使われています。その意味するところは「召し集められた者の群れ」を意味します。キリスト教の教理を覚えたり、教えたりする団体ではありません。教会というのは力が働いているところです。それは風のように見えないけれども力強いのです。この力を体験するところでもあります。
 その力とは私たちを立たせるものです。立たせるというのは、私たちを死んだ状態から死んだ生活から立ち上がらせるという、そういう立たせ方であります。キリストご自身死人の中から生き返った方です。「死に支配されない生命の方が、死よりももっと力強い人間にして下さる」それがキリストが初穂となられたことの意味であります。
 召天された方に、甦りのイエスの力が働いているのです。私たちが空しさや「死にたい」と思う時、このことを思い出しましょう。そして、立ち上がらせるキリストの力を受けていきましょう。
 死に飲み込まれたり、死を恐れることから解放されるために復活のイエスとの交わりを大切にしましょう。

キリスト信徒の葬儀の時、弔い言葉だけで終わるのではありません。復活したイエス・キリストの命に生かされることに感謝を捧げる時です。それが最大の慰めであり、喜びと命なのですから。
 大きな木は大きく根を張って必要な栄養を頂きます。根を張るということは、命の源であり、支えである主イエスとの交わりに生きることであります。
 大きく成長し、鳥や動物たちを養い、人間に心和ませてくれる立派な木であってもやがて倒れます。
 大きな木もある意味では、希望を示しているようです。朽ちて行きますが。しかし空しく終わりません。その時、残す木の実は、やがて命として生まれ変わって生きて行きます。 これは私たちが死に召されて、残る子孫を表しているのではなく。主イエスキリストの永遠の命に生かされていることを示しています。
 又その信仰の実が皆様にも受け継がれ、いつか芽を出すことだと思います。