日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

申命記26章11節 収穫の喜び

2011-11-18 23:21:18 | 説教
「あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられたすべての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」。
                 申命記26章11節
 本日は、収穫感謝合同礼拝を共に守ります。今から約388年前 1620年。メイフラワー号に乗って、ピルグリムファーザーズというキリスト者の群が、アメリカ大陸に移住しました。そして、その地で最初の収穫を感謝したのが、収穫感謝礼拝の起源となります。 私達が生きていく上で何が必要でしょうか。空気、太陽の光と熱、酸素、動植物などの食用のための生物、土、水、家、服、お金など、どれも必要です。
 この中で、これがないと、生きられないものがあります。その中の一つに食べ物があります。これらのものは、人間が作り出すことが出来るものではありません。
 みんな、神様が下さったものです。今日は、私達の命を支えて下さっている神様に感謝して、合同の礼拝を守ります。
 神様は、私達を愛して下さり、生きていくのに必要なものを下さいます。それを、独り占めにしてはいけません。みんなで分かち合うことが大切です。 
イエス様は、おっしゃいます。「一粒の麦が地に落ちて死んだら、多くの実を結ぶ」。イエス様の譬えの中に、麦の話が出てきます。
 一粒の麦は、良い土地では、20倍になると言われています。パンコムギの系統では、60から100粒の穂を生じることもあるそうです。
 もし、イエス様が、日本で活動されたら、「わたしは、一粒のお米すなわちもみの種」と言われるかもしれません。
 グレース保育園のうちゅうぐみのお友達は、今年、稲を育てました。
 田植えから始まり、かかしを立てて、稲刈り、乾燥、脱穀と至り、お米パーティー開催に至りました。
  種の種類(品種・ひんしゅ)やお米の育ち方によって違いがあります。一粒のお米の種から芽が出て、葉が出て、平均18本のくきに分かれます。そこから出てくるひとつの穂に約80粒のモミの種がみのります。お米一粒で、約1,500粒(つぶ)~2,000のお米をみのらせることになります。一粒(ひとつぶ)のお米から、たくさんのお米ができます。
 大人のお茶碗で、約3,200粒 おにぎり一個は2,000ほど入っていると言われています。
 こんな、種を人間が作り出すことは出来ません。
 神様のお力ってすごいですね。神様は人間が生きていくために必要なものを下さいました。
 そして、さらに、人間を愛し、人間を救うために、イエス様をお遣わし下さいました。イエス様が、みなさんという土地にまかれると大きな実を結ぶのです。

クリスマス行事のご案内

2011-11-13 21:24:06 | 行事のご案内
☆オープンチャーチ(クリスマス交流会) 12月15日(木)10時
於 中津教会  大人と子どもの小礼拝と音楽交流
☆クリスマスキャロル     12月21日(水)19時 聖愛ホーム前集合
事前のご予約をお願いします。中津教会にお申し込み下さい。

☆燭火礼拝(キャンドルライトサ-ビス) 12月24日(土)19時          礼拝後教会前庭でキャロル(讃美歌合唱)をします。  
☆子どもクリスマス 12月24日(土)10時 於 グレース保育園
☆クリスマス礼拝・愛餐会  12月25日(日)10時20分

コリントの信徒への手紙一15章1-20節 初穂となられたイエス

2011-11-13 20:59:55 | 説教
 キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
      コリントの信徒への手紙一15:20

 キリストが復活されたのは、私たちのためであり、私たちもそれに続くものとなるためです。私たちの最終的な敵は死です。どんなに強いこの世の権力者も医学もこれに勝てないのです。しかし、キリストはこの死と闘い、3日目に甦り、勝利されました。
 パウロ自身も、迫害や災難に直面する経験がありました。死は身近なものであり、その強敵ぶりを知っていたということが考えられます。死と隣合わせに生きるような、経験を重ねても、彼は弱音をはくことがありませんでした。なぜかと言いますと、死に勝利したキリストが共にいてくださったからです。
 時間には時と分があるように、私達にも時と分が与えられています。
 「たとえ、明日世界が滅びるようなことがあっても、私はリンゴの木を植える」とルターは言いました。意味を考えさせる言葉です。虚無や死が隣にあっても、命を育てるということでしょうか。又良い業を続けるということでしょうか。
「人生は書物である。しかしながら、この世で全部書き上げるのではなく、その第一章を書くことだけが期待される書物である」とモリソンという人が言いました。
先に召された先輩達は、第1章を書き終えて、天に召されました。その一章の生涯は、天国に続いていく内容でいっぱいであると信じております。
 奴隷の地エジプトを脱出するリーダーに選ばれた人が、モーセでありました。いよいよ
神様が示した、約束の地に辿りつこうとした時に、モーセは約束の地に足を入れることが出来ませんでした。しかし、ビスガの山より、約束の地を見ることができました。
 使命はヨシュアに受け継がれていきます。彼は次の世代にバトンをわたしました。
 モーセは生涯を終えましたが、地上に残された民(後輩)に対して、望みをたくしました。
 神の国の完成を、この地上で見ることが出来なかった信仰の先輩達でした。しかし、私たちに希望を託しておられます。
 「神の国は必ず実現する。神様に喜ばれる生活をしなさい」と先に召された方は述べているように思います。そして、その実現の日、眠りについた兄弟姉妹も目覚めるのです。
睡眠は死の型です。眠って、次の日の活動に備えます。眠って一日の疲労を休め、眠ってまた次の日の活動に対する元気を蓄えます。 
 新しい神の国でのすばらしい活動のために、永眠者は眠りについたのです。

ヨハネによる福音書3:13-21 神の愛

2011-11-09 11:40:42 | 説教
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
                            ヨハネによる福音書3:16


  本日の聖書箇所の3:16は、「小型の福音書」「全聖書の縮図」とも言われ、大切なことが書かれ、新約聖書全体の鍵とも言われています。
 この御言葉には、一人子をベツレヘムの夜の闇にある飼葉桶に送り、その生涯を通して、十字架という絶望の極みにまで、我が子を遣わした神の愛があります。
 そして、キリストご自身の受難、苦しみがあります。その痛みを覚悟で神はわたしたちを救おうとされたのです。
  
 民数記21章にこう書かれています。イスラエルの民はエジプトで奴隷の民でしたが、神によって導き出され、苦役から解放されました。しかし、荒野の旅が終わる頃、彼らは、不平不満をつぶやきました。「私たちを解放したのは、荒野で死なせるためなのか!」と。
 その時、炎の蛇が現われ、噛まれた者から死者で出ました。彼らは、助けを乞い求めました。
 神様は、青銅の蛇をつくり、それを旗竿の先につけるように命じ、「それを見上げるものは、生きる」とおっしゃいました。噛まれた者も、それを見上げることで救われました。
 裁きよりも、神のゆるしと愛に身を委ねていくことが大切です。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉を信じて受け入れることが大切です。
ひとり子をお与えになったというのは、主が十字架で命を捧げられたということです。
 罪と悲惨さの中にある現世を、怒りをもって過ぎ去られずに、滅びから救おうと神様は願っておられます。まず、分断されている神と民との間に、イエス様は身を投じて架け橋となって下さいました。そして、罪に沈む私たちを、命という代価を払って買い戻して下さいました。
主を信じる者は永遠の命が与えられます。いのちとは動き。はかないものに向かって心を動かしていれば、はかない命です。十字架に上げられた主を見上げ、永遠のお方に向かって、心を動かされることが永遠の命です。
 「私のイメージする寿命とは、手持ちの時間が削られていくことではなく、一瞬一瞬大事な時間を、大きな空っぽの器に詰め込んでいくことです」「できることなら、寿命を自分のためだけでなく、少しでも人のために使える人間になってほしい。人のために時間を使えた時、時間は一番生きてくるからです」と、10月4日に100歳を迎えた日野原重明先生は言われます。
 永遠の命を器に受け止め、光の子として寿命を使えば、その後もずっと生きていくのです。