イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。
マルコによる福音書14:6
本日の舞台となるベタニアは主イエスと弟子たちの宿泊場所でありました。そこに主イエスによって重い皮膚病を癒されたシモンの家がありました。主イエスと弟子達はシモンの家に招かれて食事の席についていた時に、突然、女の人がはいってきました。彼女は手にナルドの香油のはいった石膏の壺をもっていました。
ナルドの香油はインドの北方ヒマラヤの高地3000メートルくらいの山地に産するものです。この草木はゴボウ根を持つのですが。芽が出る頃の茎と根の芳香成分を絞り、油にとかしたのがナルドの香油であります。インドの貴族がこれを香料として使いました。外国に輸出され、遠路パレスチナに到着したものは、高値で取引がされました。
客をもてなすために香油を注ぐことは当時のならわしであったといえ、300デナリもする高価な香油のはいっている壺を壊して、全部をイエスの頭にそそいだというこの女の行為は、たしかに回りの人々を驚かせました。
そこに居合わせた人はそれを見て、そんな無駄なことをするよりは、「それをお金に変えて貧しい人々を助けるべきだ」ととがめたのです。
主は言われます。14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この場面は受難物語の最初の場面に位置します。主は2日後に十字架にかけられます。
そのような時に、この女性は愛する主イエスに出来るだけのことをしたいと思ったのであります。平常の時の行為は、非常時には変えられねばなりません。
この女性はこの時を逃すことは出来ませんでした。女性の直感によって、主の受難を察知し、出来るかぎりのことをしてあげたいと願ったのです。
今この時がイエスに対して奉仕をする最後のチャンスでありました。この機会を生かしたのです。
よい事(カロス)という言葉はもともと美しい事という意味です。「無駄である」と、回りに言われたことが、主イエスにとっては、良いことであったのです。
美しいというのは、いろいろと含みのある言葉であると思うのです。神の御名があがめられ、讃美されるような美しさをあらわしているものです。
主イエスの殺害計画とユダの裏切りの間にこの記事が挿入されています。
罪の闇に輝く光・泥沼に咲く一輪の花、そのような情景にあてはまる内容です。ある意味において、美しいという言葉が響いてきます。
良い羊飼いの良いも、よい(カロス)が使われています。主イエスの命がけの愛への応答をあらわしているように思います。
すなわち、主イエスへの愛の美しさをあらわしています。
正しいという事柄の中には、人間の数だけの正しさなどもあり、正義のぶっかりあいなどは、主が喜ばれる良いことではありません。
前回とりあげたやもめの献金は少ないから、今回のナルドの香油は高額でもったいないということで、無駄なことと、回りの人達は無理解を示しましたが、主イエスはその、捧げた人の心を見て下さったのです。
見えないイエス様の愛の心を見る目が与えられた信仰者は、毎週、感謝の礼拝を捧げ
又愛の実践に励みます。
イエス様も彼らのように、香油を捧げた女性がしたことは「むだ」であったと思ったでしょうか。そうではありません。イエス様は、彼女のしたことを「むだ」とは言わずに、「よいこと」「美しいこと」だと言われたのです。
なぜイエス様は、彼女のしたことを「りっぱなこと」と言われたのでしょうか。一つ言えることは、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたからだと思います。彼女のしたことは、周りから見れば「むだ」に思えることでした。
しかしそうであってもイエス様は、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたので、「よいこと」だと喜んで受け入れてくださったのだと思います。
それのみならずに、その事柄を高めてくださるのです。
私たちの奉仕というのは、神様にとっては「子どものお手伝い」のようなものではないかと思います。神様がなさったことの方が、早く、上手、完璧に出来ることだと思います。しかし、神さまは、私たちの成長のためにも、私たちの奉仕を必要として下さっているのです。
神様への愛をあらわす献身を、親のように喜んで、受けとめてくださるのです。
少し、はずれても、回りから無駄だと言われても、援助してくださり、高めて下さいます。
又私達を成長させて下さいます。
愛の浪費と思えることを、主は高め、「私の葬りの備えをしてくれた」と位置づけて下さいました。彼女の行いを重要の働きへと高めて下さいました。
神様はあえて私たちに奉仕をさせ、私たちを通して御自身の御国を建設しようとされているのだと思います。そこには忍耐があり、そしてそれを喜んで受け止めてくださる神様の愛があります。
主の深い愛に捕らえられる時、私達の心の中には良きものが生まれます。明るく暖かい愛を証しする集まりこそ、人々を引きつける魅力があります。
ナルドの壺をわって注がれたのは、女性の美しい愛です。私達も主の愛を感じ、壺をわって、心を神様に捧げましょう。氷のように固く・冷たい頑な器を割り、神と人に心を開いていきましょう。
マルコによる福音書14:6
本日の舞台となるベタニアは主イエスと弟子たちの宿泊場所でありました。そこに主イエスによって重い皮膚病を癒されたシモンの家がありました。主イエスと弟子達はシモンの家に招かれて食事の席についていた時に、突然、女の人がはいってきました。彼女は手にナルドの香油のはいった石膏の壺をもっていました。
ナルドの香油はインドの北方ヒマラヤの高地3000メートルくらいの山地に産するものです。この草木はゴボウ根を持つのですが。芽が出る頃の茎と根の芳香成分を絞り、油にとかしたのがナルドの香油であります。インドの貴族がこれを香料として使いました。外国に輸出され、遠路パレスチナに到着したものは、高値で取引がされました。
客をもてなすために香油を注ぐことは当時のならわしであったといえ、300デナリもする高価な香油のはいっている壺を壊して、全部をイエスの頭にそそいだというこの女の行為は、たしかに回りの人々を驚かせました。
そこに居合わせた人はそれを見て、そんな無駄なことをするよりは、「それをお金に変えて貧しい人々を助けるべきだ」ととがめたのです。
主は言われます。14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この場面は受難物語の最初の場面に位置します。主は2日後に十字架にかけられます。
そのような時に、この女性は愛する主イエスに出来るだけのことをしたいと思ったのであります。平常の時の行為は、非常時には変えられねばなりません。
この女性はこの時を逃すことは出来ませんでした。女性の直感によって、主の受難を察知し、出来るかぎりのことをしてあげたいと願ったのです。
今この時がイエスに対して奉仕をする最後のチャンスでありました。この機会を生かしたのです。
よい事(カロス)という言葉はもともと美しい事という意味です。「無駄である」と、回りに言われたことが、主イエスにとっては、良いことであったのです。
美しいというのは、いろいろと含みのある言葉であると思うのです。神の御名があがめられ、讃美されるような美しさをあらわしているものです。
主イエスの殺害計画とユダの裏切りの間にこの記事が挿入されています。
罪の闇に輝く光・泥沼に咲く一輪の花、そのような情景にあてはまる内容です。ある意味において、美しいという言葉が響いてきます。
良い羊飼いの良いも、よい(カロス)が使われています。主イエスの命がけの愛への応答をあらわしているように思います。
すなわち、主イエスへの愛の美しさをあらわしています。
正しいという事柄の中には、人間の数だけの正しさなどもあり、正義のぶっかりあいなどは、主が喜ばれる良いことではありません。
前回とりあげたやもめの献金は少ないから、今回のナルドの香油は高額でもったいないということで、無駄なことと、回りの人達は無理解を示しましたが、主イエスはその、捧げた人の心を見て下さったのです。
見えないイエス様の愛の心を見る目が与えられた信仰者は、毎週、感謝の礼拝を捧げ
又愛の実践に励みます。
イエス様も彼らのように、香油を捧げた女性がしたことは「むだ」であったと思ったでしょうか。そうではありません。イエス様は、彼女のしたことを「むだ」とは言わずに、「よいこと」「美しいこと」だと言われたのです。
なぜイエス様は、彼女のしたことを「りっぱなこと」と言われたのでしょうか。一つ言えることは、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたからだと思います。彼女のしたことは、周りから見れば「むだ」に思えることでした。
しかしそうであってもイエス様は、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたので、「よいこと」だと喜んで受け入れてくださったのだと思います。
それのみならずに、その事柄を高めてくださるのです。
私たちの奉仕というのは、神様にとっては「子どものお手伝い」のようなものではないかと思います。神様がなさったことの方が、早く、上手、完璧に出来ることだと思います。しかし、神さまは、私たちの成長のためにも、私たちの奉仕を必要として下さっているのです。
神様への愛をあらわす献身を、親のように喜んで、受けとめてくださるのです。
少し、はずれても、回りから無駄だと言われても、援助してくださり、高めて下さいます。
又私達を成長させて下さいます。
愛の浪費と思えることを、主は高め、「私の葬りの備えをしてくれた」と位置づけて下さいました。彼女の行いを重要の働きへと高めて下さいました。
神様はあえて私たちに奉仕をさせ、私たちを通して御自身の御国を建設しようとされているのだと思います。そこには忍耐があり、そしてそれを喜んで受け止めてくださる神様の愛があります。
主の深い愛に捕らえられる時、私達の心の中には良きものが生まれます。明るく暖かい愛を証しする集まりこそ、人々を引きつける魅力があります。
ナルドの壺をわって注がれたのは、女性の美しい愛です。私達も主の愛を感じ、壺をわって、心を神様に捧げましょう。氷のように固く・冷たい頑な器を割り、神と人に心を開いていきましょう。