日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マルコによる福音書14:1-9「奉仕する共同体」

2014-09-27 15:48:55 | 説教
イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」。
                                       マルコによる福音書14:6


本日の舞台となるベタニアは主イエスと弟子たちの宿泊場所でありました。そこに主イエスによって重い皮膚病を癒されたシモンの家がありました。主イエスと弟子達はシモンの家に招かれて食事の席についていた時に、突然、女の人がはいってきました。彼女は手にナルドの香油のはいった石膏の壺をもっていました。
 ナルドの香油はインドの北方ヒマラヤの高地3000メートルくらいの山地に産するものです。この草木はゴボウ根を持つのですが。芽が出る頃の茎と根の芳香成分を絞り、油にとかしたのがナルドの香油であります。インドの貴族がこれを香料として使いました。外国に輸出され、遠路パレスチナに到着したものは、高値で取引がされました。
 客をもてなすために香油を注ぐことは当時のならわしであったといえ、300デナリもする高価な香油のはいっている壺を壊して、全部をイエスの頭にそそいだというこの女の行為は、たしかに回りの人々を驚かせました。
 そこに居合わせた人はそれを見て、そんな無駄なことをするよりは、「それをお金に変えて貧しい人々を助けるべきだ」ととがめたのです。

主は言われます。14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。 14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
この場面は受難物語の最初の場面に位置します。主は2日後に十字架にかけられます。
そのような時に、この女性は愛する主イエスに出来るだけのことをしたいと思ったのであります。平常の時の行為は、非常時には変えられねばなりません。
この女性はこの時を逃すことは出来ませんでした。女性の直感によって、主の受難を察知し、出来るかぎりのことをしてあげたいと願ったのです。
 今この時がイエスに対して奉仕をする最後のチャンスでありました。この機会を生かしたのです。
よい事(カロス)という言葉はもともと美しい事という意味です。「無駄である」と、回りに言われたことが、主イエスにとっては、良いことであったのです。
美しいというのは、いろいろと含みのある言葉であると思うのです。神の御名があがめられ、讃美されるような美しさをあらわしているものです。
主イエスの殺害計画とユダの裏切りの間にこの記事が挿入されています。
罪の闇に輝く光・泥沼に咲く一輪の花、そのような情景にあてはまる内容です。ある意味において、美しいという言葉が響いてきます。
良い羊飼いの良いも、よい(カロス)が使われています。主イエスの命がけの愛への応答をあらわしているように思います。
 すなわち、主イエスへの愛の美しさをあらわしています。
正しいという事柄の中には、人間の数だけの正しさなどもあり、正義のぶっかりあいなどは、主が喜ばれる良いことではありません。
前回とりあげたやもめの献金は少ないから、今回のナルドの香油は高額でもったいないということで、無駄なことと、回りの人達は無理解を示しましたが、主イエスはその、捧げた人の心を見て下さったのです。
見えないイエス様の愛の心を見る目が与えられた信仰者は、毎週、感謝の礼拝を捧げ
又愛の実践に励みます。
 イエス様も彼らのように、香油を捧げた女性がしたことは「むだ」であったと思ったでしょうか。そうではありません。イエス様は、彼女のしたことを「むだ」とは言わずに、「よいこと」「美しいこと」だと言われたのです。
なぜイエス様は、彼女のしたことを「りっぱなこと」と言われたのでしょうか。一つ言えることは、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたからだと思います。彼女のしたことは、周りから見れば「むだ」に思えることでした。
しかしそうであってもイエス様は、彼女のしたことには、「イエス様への愛が込められていたので、「よいこと」だと喜んで受け入れてくださったのだと思います。
それのみならずに、その事柄を高めてくださるのです。 
私たちの奉仕というのは、神様にとっては「子どものお手伝い」のようなものではないかと思います。神様がなさったことの方が、早く、上手、完璧に出来ることだと思います。しかし、神さまは、私たちの成長のためにも、私たちの奉仕を必要として下さっているのです。
神様への愛をあらわす献身を、親のように喜んで、受けとめてくださるのです。
少し、はずれても、回りから無駄だと言われても、援助してくださり、高めて下さいます。
 又私達を成長させて下さいます。
 愛の浪費と思えることを、主は高め、「私の葬りの備えをしてくれた」と位置づけて下さいました。彼女の行いを重要の働きへと高めて下さいました。
神様はあえて私たちに奉仕をさせ、私たちを通して御自身の御国を建設しようとされているのだと思います。そこには忍耐があり、そしてそれを喜んで受け止めてくださる神様の愛があります。
 主の深い愛に捕らえられる時、私達の心の中には良きものが生まれます。明るく暖かい愛を証しする集まりこそ、人々を引きつける魅力があります。
 ナルドの壺をわって注がれたのは、女性の美しい愛です。私達も主の愛を感じ、壺をわって、心を神様に捧げましょう。氷のように固く・冷たい頑な器を割り、神と人に心を開いていきましょう。
 


マルコによる福音書12:35-44 「生涯のささげもの」

2014-09-20 10:42:17 | 説教
イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに  金を入れる様子を見ておられた。
       
              マルコによる福音書 12:41
「貧者の一灯」という言葉があります。仏教に由来する言葉です。貧しい人が苦しい生活の中から真心をこめて供える一本の灯明、その尊さを言い表しています。

 イエス様の時代には、大きなお金を入れた時には大きな音がしましたので皆に聞こえました。お金は全部、鉄でしたので、お金を賽銭箱に投げたら、大きな音がしたのです。やもめの小さなお金は入れても音がせず、静かな行いだったでしょう。やもめの態度は、神様に向かって謙遜、祈り、信仰、愛の行いでした。それで、イエス様はこの寡(やもめ)をお褒めになったのです。寡(やもめ)の外見には、人の目をひくものは何もありません。僅か、二レプトンを賽銭箱に入れました。本当にわずかな金額(150円くらい)です。しかし、イエスは、その行為の中に、きらきら輝く素晴らしい物が隠されていることを見抜かれます。この二レプトンは彼女の全財産であったからです。乏しい額でも、彼女は自分の全てを心から神に捧げたのです。彼女こそ律法の真髄を生きているのです。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神を愛しなさい」と言う第一の最大の掟は、律法学者ではなく、この貧しい寡(やもめ)の心に生きているのです。
この当時のやもめの生活について言えば、想像しただけで分かることは、現在のような社会保障制度はないということです。生活保護も、年金もありません。それに今ほど女性が働くということが当たり前の時代ではありません。
聖書では、やもめや孤児に特別の配慮をしてあげるように、ということが繰り返し語れています。ですから、きっとやもめの生活を援助し、支えてくれた人もいたと思います。それでもやはり、貧しいやもめと記されています。でも何とかいきぬいてきた人です。何の保証もないやもめですが、何とか今までいきぬいてきた。
 幾人かの支えと援助、施しの中で。そんな人は私たちより、今日生きられたことを心から神様に感謝していたのでしょう。自分の力ではなく、神様に生かされている。多くの人の支えの中で生かされている。その思いが献金になって現れているような気がします。
 一枚の貨幣だけを残して、一枚だけを捧げることも出来ましたが、彼女は全部を捧げました。両方を合わせても大きな額にはなりません。でも、両方を捧げたのはは神さまへの大いなる感謝があったからです。主イエスは彼女のこの心の動きを大切に受け止めておられます。
レストランの話です。店長は、前日に料理が出るのが遅いという苦情をうけた時、朝礼で次のように話したそうです。「お客さんの頭の動きに注目してください。料理を食べておられるとき頭は上下に動きますが、店員を探しているときは左右に動きます。この左右に動く頭をみたら、一声かけてください」と。
細かい配慮です。
イエス様は人間以上に細かい洞察をされます。
多くの人々にとって律法学者たちとは憧れの的であり、敬意の眼差しで見られた輝いた人々でした。しかしその誇り高い伝統をもった彼らのおごりを主は見抜かれました。
他方、貧しいやもめ のささげたレプトン銅貨二枚とは、これが他の多くの紙幣や硬貨の中で、光を放つということはありえません。
しかし主イエス はこの献げ物に全舞台のスポットライトを集めて照らします。やもめの行為の集中して。弟子達を集められるのです。
ということは、教会が最も大切にしなければならないものを示されました。
主の視点によりそいたいと思います。
特にこの世が注目することと、イエス様が注目されることは違っていたということです。
ということは、私たちの目が届かない、私たちの目が狂うような状況があるということです。
誰もが見落としそうな事柄を主は大切に受けとめられています。そして、私たちの目を開いて下さるということです。
このやもめの捧げたものは少なかったのですが、このやもめは、全財産を捧げました。それは、献身をあらわしています。
「生活費」とは、ギリシヤ語で、「一生」「生涯」「生活」とも訳せることばです。「生活費」をささげるとは、彼女の「生活」「一生」を神様にささげたのであり、神様と歩んでいる思いを献金によって表したのでした。
心の美しさに主イエスは注目されました。
見えるものはレプトン銅貨であります。貧しさによって注目されたりせず、表に出てくるのは大きな人目をひくものではないですか。教会の成長にとって大切な基本がここにあるということを忘れてはなりません。
心の清さ、献身の思い がんばる力 そういう見えないところを大切にして、イエス様は祝福をして下さいます。
その人に芽生えた信仰、たとえ、貧しい状況故にレプトン銀貨の花を咲かせることしか出来なくても、応援してくださり支えて下さるのがイエス様です。
運動会で大切な事柄の中に応援があります。意外と応援の仕方というのはむずかしいことであるかもしれません。あれが出来たとか 勝敗に勝ったということよりも大切な事があります。それは、昨日に比べて、本人がどれだけがんばったかということです。
すなわち、がんばりに対する応援です。子どもが見てほしいと願っていることは、イエス様の視点に合わせると見えてくるのではないでしょうか。
いつも私たちが見ることが出来なくても、イエス様!お願いです。継続して子ども達の心を見て、祝福してあげてくださいと祈りを捧げることも大切です。
きっと、そのことが子ども達の心を清め、強く酢ていくことでしょう。
そして、その心の輝きをイエス様は私たちに見せて下さることでしょう。

10月主題 0歳-2歳 「きかせて、なあに」 3歳-5歳  「きもちがいいね」

2014-09-19 09:28:09 | キリスト教保育
「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに主よあなたはすべてを知っておられる」  詩編139篇4節
                                
 秋と言ったら運動会ですね。毎日、運動会に向けて園庭で、子ども達は練習に励んでいます。いろいろなことに挑戦する子ども達の姿はとても輝いて見えます。
 神さまは、いつも共にいてくださり、グレースの子ども達のことを見ていてくださり
ます。自分たちのことをしっかりと理解して、応援して下さり、勇気と力を与えてくださる方が、共にいてくださることは、とても、心強いことであります。
 子どもは見守られていれば、すべてに口出ししなくてもできるようになります。
 マーガレット・マーラーという心理学者は、特に乳児を観察した研究者です。
 好き勝手な事柄をしながらも、振り返れば、見守ってくれる人がいるという安心感は 
その後の人格形成に影響を与えていくと言われています。
 自分のことを理解して、支えてくれる人は、大きくなっても心の支えとなります。
 運動会の中で、簡単に考えてはいけないことは応援の仕方ではないでしょうか。
 結果と他の子と比較するよりも大切な視点があるように思います。
 昨日から今日にかけて子ども達がどれだけがんばったか、努力したかに目をむけられたらいいですね。自分のことをよく知って応援して下さる両親は子ども達の心強い支えですよ。
 見てほしいと願っているところに目が向けられて、応援出来たらいいですね。
 子ども達の心と笑顔が輝くような応援を考えていきたいですね。
 又大切なのは、いつも守って下さり、愛の手を差し伸べて下さる神さまが共にいてくださることを、毎日、継続してお祈りすることですね。
運動会で体験したすべてのことが、心の大切な栄養となることでしょう。

マルコによる福音書12:28-24「最も重要なおきて」

2014-09-19 09:23:08 | 説教
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」です。
                 マルコによる福音書12:29-31



ここで示されます主イエスの答えは2章1節から始まる敵対者との論争に終止符を打つことになります。この箇所を読めば敵対者はイエスの教えを神の意志に反するものだと判断したけれども、むしろ律法の精神をしっかりと現していることがわかります。
 律法学者達が、「あらゆる掟の中で、どれが大切であるか」と問いかけました。主イエスは二つの掟を挙げています。第一の掟と第の掟は価値の優劣を表すランク付けではなくただ、単純に一つめ二つめと並べたわけであります。だから価値においては同列であるの
です。 12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
です。
一つ目のの掟は申命記6:4-5からの引用です。 6:4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。 6:5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。主はそれに思いを尽くしという言葉を付け加えておられます。
二つめの掟はレビ記19:18節からの引用であります。19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
自分を愛する時の熱心さのように隣人を愛しなさいという意味です。
 ここで注目しておきたいことは、この二つの掟は別々の書物で別々に語られていたことでありました。主はこの二つを結び合わせました。主はこの二つを最も大切な一つの掟と見なされています。この二つの掟は別々にされず、神を愛することと隣人を愛することは切り離して考えるべきものでないと主は見なされているのであります。
 愛の大切さを知識として知ることと、愛を実践することとは違います。愛に生きる時に神の国は近くにあります。
 ここの箇所は愛の実践を教えているのでしょうか。ここの箇所には神様の心からの教えがあります。花を愛する人の心は、花をいたわる姿や形になります。子どもを愛する心は
子どもの目線でものを考える姿や、子どもの歩幅を尊重するかたちになります。掟という形の中に、神さまの深い愛が示されています。
人はその愛する者を喜ばせることを望みます。神を愛する者は神に喜んで頂くことを望みます。人は愛する者と語ることを好みます。神と語り合い、神のみ心を知るのです。。
自分の命を捧げるほど、愛して下さるイエス様の愛の心がこの掟に示されています。
人間は神様の形に似せられて造られました。ということは、神様の性質である「愛」が私達の中にもあります。イエス様と交わりながら、この掟の大切さを学ぶ時、私達の愛の心が燃え上がるのです。 
  愛とは動詞であり、主語はわたしですが、その中に神さまの愛の促しがあるのです。
神さまが私達に下さる愛は、大きな可能性が秘められています。
 イエス様との交わりを根拠にした愛の強さを思います。
ラグビーボールがどこに跳ね返るかわからないように、人の気持ちもどの方向に跳ね返ってくるかわかりません。
 しかし、主がフォローして、又私たちにパスして下さいます
 人とつながり、地域とつながり、社会とつながって生きています。つながっているということはすばらしいことです。
 しかし、不完全のものであり、想定外のことが起ります。
 いつ、主とつながって生きることは、私たちに安定をもたらします。
 又私たちの心をサポートをして下さいます。主が建てなおしてくださいます。
 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」
12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
彼が今一歩で神の国に入りうる境界線に立っていたことが想像されます。「天国の門前にもなお地獄に通う道がある」とジョンバンヤンは言っていますが。主の示された戒めの大切さに同意する方は沢山おられます。その人は神の国に近い人ですが、神の国にはいる手前です。この最大の戒めを実行する事の出来ない自分に気づき己の罪を悔い改め、主の力により頼む者のみが、最大の戒めに従って生きることが出来るのです。
 お金を増やす術、名誉や地位を獲得する道は血眼で必死で学びながら、これよりはるかに尊くはるかに重要な愛を生み、育て、増してゆく術をわたし達はあまりにおろそかにしていないでしょうか。愛が人として歩む最高の道です。
   この主の答えに共感した律法学者に対して、主はおっしゃっておられます。
 人は神と関わり、人と関わることによって、初めて愛を体験します。
 愛は机の上で学ぶことよりも、体験して、喜びを知ることの方が大切です。
 神の国はあなたの近くにあります。