日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

11月主題「ありがとう」

2015-10-30 12:23:25 | キリスト教保育
月主題聖句
平和の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び/大地は収穫をもたらし、天は露をくだす。わたしは、この民の残りの者にこれらすべてのものを受け継がせる。
                    ゼカリヤ書8:12


 収穫の秋です。一つ一つの秋の実りに感謝したいと思います。まさしく美しい自然は創造主なる神の芸術です。
 神様が用意くださる「平和の種」も、ぶどうに譬えられるように、たとえ現状が荒れ地のように絶望的であっても、かならず生い茂り、結実し、収穫の喜びに結ばれるのです。
 私達が子どもたちに蒔く平和の種とは何でしょうか。
 人の成長の中で一番大切なのは、「自分を愛し 思いやりをもった人」になることだと思います。「心」は教育というより、沢山の愛情を受けて育まれるものです。
 大人にやさしく接してもらった子どもは他のお友だちにやさしくなれます。
 大人が子どもの話を良く聞いてあげると、人の話を良く聞く子になります。
 子どもたちの自ら育とうとする力を信頼し、支える大人がいれば、いつの日か、私達の想像をはるかに超えた豊かな実を結ぶことでしょう。
 神様の愛を受けとめ、愛をもって子ども達に関わることが平和の種をまくことです。
 グレース保育園は子ども達と家庭と保育者とイエスさまで紡がれた織物のようなものです。
 そこが頬ずりしたくなるようななめらかで心地良い場となり、平和を望み、平和を感じる感性を育み、平和を実現する力になることを願っています。
  神様は天と地を創造され、この豊かな世界を創られました。そこに命を頂き、わたし達が生かされていることに心から感謝を捧げましょう。
 そして、神様の愛は、今も私達を新たに創造して下さっていることを受けとめていきましょう。

創世記1:1~5 創造

2015-10-30 12:12:05 | 説教
「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け」
                                           創世記1:3~4

 
 初めに神は天地を創造された。創造という言葉はバーラーというヘブル語が使われています。石屋さんがのみを加えて岩場から石を掘り出す様子。石に彫刻家がのみをあてて何かをクリエイトする時に用いる言葉です。しかし、創世記においては、神の創造のみに用いられています。
 神は愛に満ちる方として、愛の創造者として、愛に交わりの対象である人を創造の冠としておつくりになったのです。そのことを現す特別な言葉として用いられたのです。
3~4節の言葉です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け」(創世記1:3~4)とあります。
 混沌の闇しかなかった空間に、突如光が輝いて宇宙ができたと、この古代のテキストは記しています。
では宇宙物理学は宇宙の始まりをどう説明するでしょうか。ビッグバンという大爆発から始まったと言う説があります。さぞかしものすごい光を放ったことでしょう。
 しかし、この聖書で表現している光は、肉の眼で見える明るい光を表しているだけではありません。もっと本質的に深い意味があります。
 創世記が書かれたのはバビロン捕囚の時代でありました。イスラエル民は王国をつくりましたが、紀元前538年にバビロニアの国によって滅ぼされました。町は壊され、人々は遠い外国に奴隷として連れていかれました。国の主だった人々、約1万人がバビロニアの首都バビロンに強制連行され、それ以降、538年までの約50年間、かの地にとどめ置かれたと言われています。
この時代、バビロンで捕囚生活を送っていたユダヤ人たちは、精神的・宗教的には多大な苦痛を経験していました。
宗教の基盤であったエルサレム神殿は破壊され、国は壊れ、心の支えである聖地も荒れ果て、イスラエルの民は不安を抱えていました。心は暗くなりました。
 1947年9月14日のこと。関東地方を大きな台風が襲いました。「キャサリーン台風」と呼ばれ、約2,300人もの犠牲者を出しました。とても巨大な台風でした。
東京・下町一帯を襲った濁流が家をのみ込んでいく。浅草・言問橋の橋の下にあった集落も一晩のうちに流された。住民たちは着るもの、食べるもの、住む家もすべて失った。恐怖で途方に暮れているその人たちを励ましたのは近くの教会の心やさしきゼノ神父です。
 台風の次の日の朝、神父は闇市に行ってロウソクをたくさん買いました。夜の真っ黒な避難所に、住民を襲う不安と恐怖。神父は避難所1軒1軒にロウソクとマッチを配りました。暗闇の中にともったロウソク。ほの明かりの中に浮かんだ住民の顔。神父は励ましの言葉を添えました。
 被災者たちはどれほど勇気づけられたことか。1本のロウソクの明かりが災害から立ち上がる勇気を与えたのです。
 小さな奉仕が人々に生きる力を与えました。
 光とは何でしょうか。
 世の中で流行っていることは、煌びやかに見えて、輝きをもっているから世の人をひきつけていきます。あえて、教会が同調する必要もなく、教会が伝えていくべき光は、人々の心に届く光だと思います。
「何よりも、あなたは神様に愛されている大切な人である」ことを伝えていくことが大切です。 

「光あれ」とおっしゃった創世記の言葉は、大きな力となって人々を励ましていきました。暗い心を照らす強力な力です。
イスラエルの人達を励ましたのは創世記でした。神様は光をつくられました。きっと私たちの心に光を与えてくださる。そう信じたのです。
 最初に「光あれ」と神様が言われた時に光が創造されました。地は形なく、闇でした。しかし、光が創造されました。この光は太陽や月の光ではありません。人々の心を照らす光です。それは、神様の愛です。
神様は闇を見て、良しとされませんでした。光を見て良しとされました。暗い気持ちの人が明るくなることを、神様はのぞんでおられます。
植物は光を受けて育ちます。人の心も、神様の光を受けて、強くなり大きくなります。
つらい時・苦しい時に、神様のお言葉の「光あれ」を思い出して下さい。
きっと、みなさんに勇気を与えて下さいます。又、みんなの中に光を創造して下さいます。
 聖書は神が最初に発した言葉として「光あれ」を記します。絶望の闇の中でスパークした言葉です。

ヘブライ人への手紙11:32-12:2「天国に市民権を持つ者」

2015-10-19 11:37:53 | 説教
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか(共同訳)
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(口語訳)
                        ヘブライ人への手紙12:1

 ヘブライ人への手紙は、紀元80年代に書かれました。ローマにいるユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものと言われています。
この頃、ローマにいるユダヤ人キリスト者が属する教会が、迫害の危険にさらされていました。
彼らは、迫害の危険の中、約束された再臨の日の救いの完成が遅れていることにも失望して、自らの信仰にも危機を迎えていたのでした。
手紙の著者は、このような中で、先立ち行かれるイエス・キリストをしっかり見つめつつ、望みと忍耐をもって、前進するように、との勧めをしています。
 永眠者記念礼拝でも、今日の箇所が取り上げられることがあります。過去に迫害を受けた人々と私たちのつながりを意識する箇所でもあります。
11章では、旧約聖書の、いろいろの信仰者の話がずっと述べられて、さらに、今日の32節以下では、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、これは今日の旧約の日課にありました士師記に登場してくる士師たちです。士師というのは、聖書独特の言葉です。イスラエルを治める者を意味する言葉です。
王制のひかれていない時代、臨時に王の役をする人たちのことを士師と言ったのです。
外敵が攻めて来ると、士師が兵を集めて、外敵と戦い、国内的には、裁判を行いました。
そして、ダビデ、サムエル、預言者などが出てきます。

35節以降はマカベヤ時代の苦難を念頭において記事が書かれている。読者の父や祖父の時代に起こった迫害です。
「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです」。
・マカベヤ時代、シリヤ王アンテイオコスは神殿にゼウス像を建てて拝むように強制し、従わない者は処刑した。彼は聖書を燃やし、割礼を禁止しました。
旧約の神に仕えたいろいろな偉人が出てきます。
信仰の勇者・王、・預言者・殉教者が出てきます。「教会の礎石は、殉教者の血である」という厳粛な事実を思い起こすための目的が、ここに記載されている中にあります。今、私たちが信仰を持つことが出来たのは過去の先達達があらゆる犠牲を払いながら、信仰を保ったからであります。
新約聖書の時代を生きたヘブライ人たちは、自分たちは独りじゃないと信じた。自分たちには、アブラハムやモーセ、旧約聖書の人物たちがついている。そう、信じたのです。だから、諦めずに、神を信じて生きていこうと祈ったのです。
しかし、旧約の時代の先達は、39節にありますように、「約束されたものを手に入れませんでした」とあります。約束されたものとは何を意味するのでしょうか。
11章10節がヒントになるみ言葉であります。「アブラハムは、神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」とあります。
約束されたものとは、終末、神の国の完成を意味します。
ジェイムス・ミッチョナーは、フランスからスペインの聖ヤコブ大聖堂までの長い道を旅した中世の巡礼者たちのことを詳しく書きました。巡礼者達が厳しい彼らの旅の終わりに近づいたとき、はるか彼方にある長く探し
求めた大聖堂の尖塔を見ようと、彼らが必死になって地平線に目を凝らしたところ。目に捉えた最初の巡礼者達はこう叫んだ。「何という喜び」
 アブラハムと彼の子らははるかな地平線上に天の都の尖塔を見て喜びの声をあげただろう。11:13節参照。しかし、巡礼の旅を完了することなく死んでいきました。
 私たちはそこへの導き手であるイエス様を知っています。そこを目指して、信仰を貫いていくことが大切であります。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(12章1節)

 ここで、おびただしい証人の群れに、の「群れ」と訳されている言葉は「雲」ということをも意味したのです。雲のようにと、前の口語訳の聖書には、そのような表現がありましたね。雲のように、証人がいっぱいいる。そして、それらの人たちに囲まれているのだから、私たちもいろんな重荷とか絡みつく罪、いろんな誘惑とかそういうものをかなぐり捨てて、そして、定められている競走を忍耐強く走り抜こうと勧めています。
旧約の信仰者・先に召された信徒達が応援してくださるからです。ヘブライ人のクリスチャンにとって死んだ人は最高のカウンセラーかもしれません。死者はこちらの言うことを黙って聞いていてくれます。そして、こちらの心の奥底にある思いを引き出し、押し出し、導いてくれます。

ゴールは決まっている、だから大事なことは、走り抜くことだ、その時に、信仰の創始者また完成者である、イエスを見つめながら。私たちはわからなくなる時には、いつもこのイエス・キリストを見つめる。そしてそれを確かめるところが、教会の礼拝なのです。
新約聖書の時代を生きたヘブライ人たちは、自分たちは独りじゃないと信じた。自分たちには、アブラハムやモーセ、旧約聖書の人物たちがついている。そう、信じたのです。だから、諦めずに、神を信じて生きていこうと祈ったのです。
そして。ゴールまで走り抜かれたイエス様が共にいて下さるという恵を大切にしました。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(2節)。
 「イエスを見つめながら走る」。それが私たちに求められている最も大切な点です。ここで語られている「見つめる」と言う言葉は「注意深く観察する」という意味を持ったものです。
スポーツ選手は競技の技術だけではなく、集中力が長けています。集中するとそれ以外のものは目にも耳にも入らなくなると言うのです。走る時は余計なものを捨てないと走ることが出来ません。「余計なものを捨てる」ということを考える時、むしろこのイエスを見つめるときに必然的に起こることだと思います。イエスを見つめるなら、それ以外のものは自然と見えなくなるのです。
 You can’t take it with you あなたはそれを天国へ持っていけませんよ
 死ぬ時に持ち去ることの出来るものこそが所有物ですね。それは、愛・・・


マタイによる福音書10章5-15節 「神の国のしるしをたてる」-み国のわかちあいのために

2015-10-16 16:34:07 | 説教
「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい
マタイによる福音書10章7節



 マタイは神の国を天の国と書き変えています。マタイによる福音書は「天の国」がイエスの教えと働きを通して、最後にイエスの十字架と復活によってはっきりと姿を現すという物語であります。
この箇所は12弟子の派遣の場面であります。なぜ12弟子を派遣されたのでしょうか。マタイによる福音書を読んでみましょう。 9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
ここに憐れみという言葉があります。苦しむ人々へのイエスの近づき方として用いられている言葉です。英語ではコンパシオンです。 この感情は、ただ気の毒に思うだけでなく、関心以上のことを示しています。それは分かち合うこと、他者の苦しみと切望を自分の苦しみと切望にすることです。
 この主イエスの感情に押し出されているということです。
もう一つはマタイによる福音書を読んでみましょう。9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
収穫の約束がなされているということです。
どんなところに弟子達は派遣されるのでしょうか。それは命が欠乏されたところ、又周辺化され悪霊や不正義の霊が支配するところです。今日でも、このままゆくと世界は絶望に支配されるのではないかと不安を持つ人もいます。
そのような世界に伝道に出てゆく心得が示されています。
 ①旅には持ち物のリストがあって良いのですが、ここでは持ってはならないリストが書  かれています。そのまま受け取るのではなく、ここの象徴的な意味を理解したいと思  うのです。
履き物も杖ももっていってはならないとあります。パレスティナは岩山で、平坦で  はなく、旅行には杖は必需品でした。おそらく、これは礼拝の行為を表しています。
  人が神殿にはいる時に姿です。伝道は神の聖所に入る気持ちでなすのです。悔い改め  と神の助けを祈りながらなすのです。
②愛の業はただでしなさいと勧められています。教会を自己目的化してはなりません。  もうけるために伝道をするのではないのです。共に重荷を負うためです。
何を伝えるのでしょうか。それは「天の国は近づいた」ということであります。7節の天の国とは神の国のことです。神の国とは神の支配されるところです。それは空間領域というよりも支配するという神の活動そのものです。主イエスにおいて神が働かれ、神自身の国が来るのです。イエス・キリストは神の愛と、その栄光の音信を私たちにもたらします。イエスのみ言葉や愛の行いによって神はその指を人間の方に伸ばされます。
伝道の働きにおいて、主イエスも私たちと共に働かれて、神の国をもたらして下さるのであります。
その言葉としるしによって、主イエスはすべての可能性のつき果てた私たちに新しい始まり、新しいチャンス、大いなる約束そして未来を示して下さいます。闇の力や悪霊の支配化に対して、イエスは宣戦布告し、私たちをその支配化からもぎとって下さるのです。 宣教の言葉によって人々は神の国の支配がすでに始まっていることを知るのです。
神の国は神様が実現するのだから、私たちは何もしなくて良いのでしょうか。賀川豊彦は神の国運動を始めました。貧者の解放、平和を実現することに専念しました。しかし、下から上への営みによって神の国が完成するのでしょうか。
神の国の実現をボーとして待つのではありません。逆に人間がそれを完成させるのでもありません。教会の働きは神の国を指し示す指先となることです。
「飢えている者にはパンが、住む家のない者には住居が、権利を剥奮されている者には正当な権利が、孤独な者には交わりが、規律にかけている者には秩序が、奴隷には自由が必要である。飢えている者を見過ごしにすることは、神と隣人に対する冒涜である。なぜなら、隣人の困窮こそ、神にとって最も近いことだからである。私の者であると共に又飢えている者のものであるキリストの愛のゆえに、われわれはパンをさいて彼らと分かち合って食べ、住む家を分かつ。もし飢えている者がその飢えのために信仰にはいることが出来ないとすれば、その責任は彼のためにパンを分かつことを拒んだ者に帰せられる。飢えている者にパンを分かち合えることは、恵みの到来のための道備えの行為である」。ボンヘッファー現代キリスト教倫理
キリストの力を受けつつ、互いに病める人の癒しに関わることこそ、神の国のしるしをたてることです。又社会の平和のために力を合わせることです。
 宣教・交わり・奉仕によって神の国のしるしとなりましょう。