日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

サムエル記上2:1-10「恵みとの出会い」

2013-12-27 16:23:06 | 説教
 ハンナは祈って言った。「主にあってわたしの心は喜び 主にあってわたしは角を高く上げる。わたしは敵に対して口を大きく開き 御救いを喜び祝う」。
                        サムエル記上2:1-10

 ハンナが、かつて泣いて祈った神殿に幼子サムエルを連れて行き、その時慰めてくれた祭司エリの前で、幼子を示しながら、神様をほめたたえて、祈りの歌を捧げます。それがハンナの賛歌として有名になりました。
シンガーソングライターの原型を見ます。ハンナの魂のそこから噴き出したものです。ハンナが作詞し、それを自ら歌い上げたものです。
 ハンナの身に起こった様々な出来事、事態が、神に介入していただくと逆転し、こんなに祝福されるのだ、と書かれています。
 弱く、貧しく、名もない者達が神の恵みを受けて力を与えられ、神の視点に立つならば、このようなことが起きるのです、と言っています。
 主は困窮している者、弱っている者に目を留めてくださる憐れみ深い神様です。
絵本編集者として活躍されている末森千枝子さんが、盛岡での思い出を語っておられました。
 戦後のことです。、そのころ、我が家の近くで、掘っ立て小屋のようなところに一人で住んでいる小さなやせたお婆さんがいました。昔話に出て来るお婆さんのように、歯も抜け、腰もまがり、白い髪を頭のてっぺんに結い上げている人でした。町の人や子ども達にいじめられていたのでしょう。通る人に悪態をつき、棒を振り回し、怒鳴り散らしていました。きっと戦争でも痛めつけられていたのだと思います。
 クリスマスが近づいた頃、教会の青年たちが、そのお婆さんのためになにか御世話をしました。介護とか公的な援助などはほとんど何もない時代ですお婆さんはよほどうれしかったのでしょう。その後、教会の神様にお礼をしたいからと言って、大きな餅をついてもらって、教会に届けたそうです。お婆さんにとってはたいへんお金がかかったと思います。
 スイスの神父様のはからいで、そのお餅はちゃんと祭壇に置かれたそうです。
イエス様を無視したり、イエス様が不在の楽しいクリスマスだったら、イエスもがっかりされるでしょうか。
 お誕生日会に主人公がいなくて、他の人が盛り上がっているだけでは、本末転倒ですね。でも、あの青年達は本当のクリスマスをお祝い出来たのですね。おばあさんのお餅はハンナの賛歌と重なります。
神様の愛を知り、その愛を分かち合うことが、本当のクリスマスです。
 クリスマスおめでとうございます。 

イザヤ書40:1-11「先駆者」

2013-12-27 16:16:01 | 説教
草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
                             イザヤ書40:8

人と神(のことば)が比較対照されています。人がここでは「草」や「花」にたとえられています。それが一時どんなに美しく咲いたとしても、その栄光もまた愛もみなはかないものです。しかし、神のことばは草や花のようではなく、永遠にすたれることはありません。 
 神のことばは永遠に「立つ」という動詞です。ヘブル語は「クーム」です。
 日本語の訳語も、大方「立つ」(stand)と訳していますが、口語訳だけは「変わることはない」と訳しています。しかし、この「クーム」という動詞は、立つ、変わることなく堅く立つといった意味にとどまることなく、人をして起こして立たせていく、立ち上がらせていくという意味があります。

 人間も年とともに衰え、弱っていきます。それを嘆こうと嘆くまいと、それが私たちの現実です。しかし人の命は尽きてもそれがすべての終わりではない、というのが聖書の思想です。永遠に変わらない神の存在、神の言葉に私達は命を与えらていきます。
言葉を使うというのは、他者とのつながりをみずからすすんで認めるということであります。
 神は誰と関わりを求めているのか、それは、私達との関わりです。私達を救うために
言葉を語りかけて下さるその言葉には力があります。

マルコによる福音書7:1-13「旧約における神の言」

2013-12-27 16:08:59 | 説教
あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。マルコによる福音書7:13

 汚れた手というは、神の掟にありません。ユダヤ人は異邦人を汚れたものとして、見なしていました。その人達との接触を避けたり、その人達を蔑むためにも、手洗いの規定があったようです。 
こんな、人間の戒めがありました。父母を敬えという律法がありますが、「これは神への供え物です」と言えば、養育費を払わなくても良いという人間の戒めです。
 これも都合が良いように、人間が定めたと掟でした。
リンコルンという人の話があります。
 ある人が、木にリスがいると思って、銃をそこに向けたが、リスは落ちてこないのです。その人の子どもが、「父さん、リスなどいない」と言ったので、目をこすって確認したところ、目やにが落ちて、いないということが確認されました。
 神の言葉や聖書の教えがないがしろにされ、人間の誤った基準が絶対化される時にこのようなまちがったことが起こります。
主イエスの発言は、それによって、心ない人が権力を保持していました宗教的規範を根本から問い直すものでありました。故に宗教支配体制を固持する者たちによってイエスは殺されます。つまり、イエス様の一つ一つの言葉は命を張ったものであったということです。
 主イエスは、神の愛の御心が言葉になって私たちの心の中に宿るように、この世界にお生まれになられました。クリスマスは、その神の子イエスが人間の言葉が支配しているこの世界に来て、私たちに神の愛と自由を与えて下さった恵みのときです。
問題は、私たちの中にある、罪です。
礼拝とは、神の真理によって魂を養い、神の聖によって、思いをきよめ、神の愛に対して心を開き、神の目的に意志を捧げることです。
クリスマスの日に神様の思いを受け止め、又新たな一年の歩みを始めましょう。
鳥はどうしてさえずることが出来るのか?鳥がさえずることが出来るのは、親の鳴き声を聴いているからです。
 私たちも神様から絶えず、平安と喜び、希望と感謝、愛に満ちた言葉を聴かせていただきましょう。その言葉で自分自身を養っていただきましょう。そうすれば私たちも自然とさえずることが出来るようになります。


「主の来臨の希望」イザヤ書51:4-11

2013-12-27 15:33:58 | 説教
わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな    イザヤ書51:7


 信仰は聞くことから始まります。キリストの言葉を聞くことによって始まります。そして、その時、私たちは、人への恐れから解放されるのです。恐れは、造り主である神様を忘れることから生まれます。主に耳を傾けることを忘れ、主の御声に聞き従うことから離れた時、神の民はバビロンに連れ去られて行きました。そして、彼らは人の嘲りとののしりを恐怖するようになったのです。しかし、そんな彼らに、神様はなお呼びかけられました。
わたしたちの多くは恐れや不安を抱きながら日々の生活を送っています。恐れや不安のない人は誰もいません。
 しかし聖書には恐れや不安が取り除かれる方法を示しています。神の教えを受け止める人に平安な心が与えられるのです。
偉い人の言葉、立派な人の言葉、有名な人の言葉、権力ある人の言葉は、信仰はがなくても聞くことが出来ます。しかし、惨めな姿の人、弱い人の言葉に耳を傾けることは誰もが出来ることではありません。
バルネラブル(Vulnerable)とは社会的に弱い立場・社会的弱者のことを意味します。
イギリスでは、精神やその他の障がい、疾病によりコミュニティケアを必要とする人です。
 身寄りもない母親が、赤ちゃんを抱えてと泣いていると、そこにはたくさんの協力者があらわれ、助けてくれます。周囲の人々を動かすのです。
 ボランティアをする人もバルネラブルになると言われています。それは他者の痛みを自分にも関わる問題として受けとめられるからです。無防備で攻撃を受けやすいところに立たされます。
 イエス様も傷つき、批判を受けましたが、復活されて、神の栄光を現しました。
 人に嘲られたイエス様がクリスマスにはお生まれなさり、救いのみ言葉を語って下さいます。その言葉は、人と関わる恐れを取り除き、傷を癒す力に満ちています。
 これこそが、クリスマスの主の来臨の希望です。