日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

水たまりの月

2017-01-20 15:56:43 | 文芸 コラムのコーナー
「水たまりの月」
廣安愼太郎 


雨上がりの水たまりは、大人になったら、靴を汚す邪魔もののように見えます。
 ところが、子ども達は水たまりに入っていきます。水たまりの中で、足を上下に動かしては、バシャバシャしたり、泥の感触を楽しんだり。 雨という自然が作った環境から、子ども自らが遊びをつくり出し、砂場とは違う泥の感触を発見しています。このように、五感を通して水や泥にかかわる体験が大切ですね。
水たまりが出来ないように芝生を敷き詰める人もいます。その利点もありますが、水たまりからイロイロ発見したり 遊べることもあります。
 空の雲が写ってキレイだな。
面白い形の水たまりだな・・
雨後の水たまり発見でドキドキした子どもの頃を思い出したりしてみました。
 そこで詩を書いてみました。
水たまりのように、子ども達のやってみようという気持ちを受けとめていければ良いなあと思いました。



水たまりの月


  水たまりに映る月
  僕はそれを見る
  月の光を受け止め
  その月を語る水たまり

  小さな僕だけれど
  神の光を受け止め
  神の光を語る
  足下の水たまりのように

  小さな水たまりが
  安らぎを与えるように
  僕の心の中にも
  平和の種が宿っている

  水たまりが集まれば
  子ども達が遊ぶ
  水たまりが集まれば
  子ども達の笑い声







0・1・2歳児「とりくんで」 3・4・5歳児「協同」

2017-01-20 15:39:53 | キリスト教保育
1月聖句
『光の子として歩みなさい』(エフェソの信徒への手紙5章8節)
新年あけましておめでとうございます。 年が改まり、厳しい寒さの中にも
すがすがしさが感じられる1月となりました。神様のみ光に照らされて、明るい年となりますことを願っています。
 今月の主題聖句は「光の子として歩みなさい」という言葉です。
光は、たき火の炎のように人の心を温め、灯台の灯りのように、進むべき道へと人を導き、キャンプファイヤーの炎のように人々を神様の元に集め喜びで満たします。
光の子どもとは、いつも心に希望を持ち、明るく元気に過ごす子どもです。そして、暗闇に希望の光を放つ子どもです。
子どもたち一人一人に神様は光を与えて下さっています。その光を大切に受け止め、さらに輝かれるようにと願っています。
大人が子ども達に光りを与えるのではなく、すでに子ども達に与えられている光を大人が受け止めることによって、その輝きは増し加えられていくのです。私たちは子どもたちに、「新たに光の子になりなさい」と要求しているのではありません。子どもたちは今までずっと光の子でした。一つ一つの笑顔と言動が、いつも光り輝いて、私たちを照らしてくれました。
その笑顔や興味や好奇心、遊びの中から生まれる創造力、集中力、信じる力、遊びを学びに変えていく力、信じる力他は人に光りを放ちます。「子育ては自分育て」と言われています。子どもによりそうことによって大人は育てられるのです。
家庭に大切な存在が生まれたことで、 自分一人の視点だけでなく、子どもの視点、まわりの人の視点、いろいろな視点から物事を考えることができるようになり、良い大人になるための修行になります。
子どもたちの光が輝き、その心に元気がみなぎり、生きる力がわき上がることを願って新しい年の保育を進めていきたいと思います。

マタイによる福音書3:13-17「イエスの洗礼」

2017-01-20 15:31:34 | フォトギャラリー
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
                     マタイによる福音書3章17節


 荒野にヨルダン川という川が流れ、バプテスマのヨハネは、ヨルダン川で人々に洗礼を授けるける仕事をしていました。罪を悔い改め、神様に罪を赦していただくために洗礼を受けなさい”。そう言って、ヨハネはたくさんの人々に洗礼を授けました。
イエスさまも、ヨルダン川のヨハネのところに来て、洗礼をお受けになりました。
今日はそのことを記念する聖日です。
罪のない方であられるイエス様がどうして、罪の悔い改めの洗礼を必要とされたのでしょうか。
 主イエスはマリアの胎に下り、エジプトに下り、ガリラヤに下り、荒れ野に下り、そして洗礼を受けられたのです。主イエスの姿勢は一貫して自分を低くしています。主イエスの洗礼もその姿勢が現れています。
 主は洗礼を受けることをヨハネに問われ、躊躇するヨハネに対してこのようにお答えになられました。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」。
 「正しいこと」ヘブライ語ではツェダカーと言います。正しいことの意味の中には救い・勝利・ゆるし・解放・恵みなどの意味が含まれています。その「正しいこと」が実現するために、主イエスは洗礼を受けられたのです。
 バプテスマのヨハネはいったい具体的には、何をしたのかといえば、ヨルダン川の川辺で、悔い改めのバプテスマをというものを宣べ伝えていたわけです。
 神の国が近づいている、つまり、神様の公正な裁きのときが近づいている。だから、今、罪を悔い改めて、バプテスマを受けなさいというメッセージと、バプテスマを授けていたわけであります。
 彼が、何故、そのようなメッセージをユダヤ人にしたのかといえば、当時のユダヤの人々が、すっかり選民意識の上に、あぐらをかいてました。異邦人に神を伝える立場にある私達は悔い改める必要はない、悔い改めるのは、異邦人だと思っていました。ヨハネは、そのような選民意識にあぐらをかいているユダヤ人こそ、悔い改めなければならないのだと主張しました。「ユダヤ人というだけで、神のさばきの前に耐えられるわけではないのだ」「悔い改めて、神様に喜ばれるにふさわしい生活を行いなさい」と宣べ、そのように決意をするものに、罪の許しを得させるバプテスマを受けよと、ヨハネは教えていたわけであります。
 イエスはそのようなヨハネのしてきたことを否定することをしたくはなかったのです。それを受け継ぎ、それを超えた次元に運ばれようとされました。
 それと悔い改めた罪人と同じ位置に立って、共に歩もうとされたのです。
 主イエスに聖霊が降ると、天から「これは私の愛する子、私の心に適う者」という声が聞こえたとあります。神さまは主イエスに「愛する子」と言っているわけです。
 
 愛にはアガペーというギリシャ語が使われています。
アガペーの愛は、何かと引き換えに愛するのでも、利害関係の中で愛するのでもありません。全く無償なのであります。そしてこれこそが主イエスの愛、神の愛であるのです。
 神は主イエスに対し「あなたは私のアガペーの子」と言いました。
 広島のマザーテレサと呼ばれる中本忠子さんが、先日テレビに出ておられました。元保護司であられ、子どもたちに無償で食事を提供され、「ばっちゃん」と呼ばれて多くの子ども達に慕われておられます。中本さんのお父さんは、こう言われました。「やさしさとは見返りを求めてはいけない。見返りを求めるのはやさしさではない」。この言葉の通り、実践されておられます。
 イエスさまが洗礼を受けになった時、3つのことが起こりました。一つ目は、イエスさまに向かって、天が開いたということ。二つ目は、神さまの霊が鳩のように降って来たこと。そして三つ目は、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という神さまの声が聞こえたということです。
 天が開いた。これは、天国の入口が開いたということです。
 アガペーの強力な愛の力が、人々に影響を与えていきます。

マタイによる福音書4:18-25 「最初の弟子達」

2017-01-20 09:20:55 | 説教
 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
                                     マタイによる福音書4章20節
                      
 本日は最初の弟子達の召命記事に聞く時を持ちたいと思います。イエスの弟子として選ばれた人達の中に漁師がいました。主が弟子として選ばれたのは、有力者、お金持ちや人より優れた才能や力を持った人ではありませんでした。
 ごく普通の人をお選びになられました。さて、この召命記事を私達はどのように受けとめたら良いのでしょうか。主は自分一人で、何でもおできになるのですが、弟子達を用いられのです。それは、私達と共にいることを望まれ、共に喜びを分かち合いたいと思われているからです。
 普通、私達が師に弟子入りするとすれば、弟子となる人が師を探し、入門して、教えを受けるのですが、師であるイエスが弟子を探し、入門させ、自分の教えを説いたのです。
ここのところが、基本となります。
 「私達はイエス様に選ばれているのだろうか」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかと思います。もちろん選ばれていますが、大切なことは、主の後に従うことへの招きに応じることです。呼びかけに応えて、方向転換することです。
 二組の兄弟を主はお選びになられました。血がつながっていることよりも、大切なことがあります。主は神の家族を形成されようとしていますから。兄弟というよりも、強調したいことがあります。それは、教会の原型的なものを、二人というところからとらえていくことです。信仰共同体が想定されているということです。
 主イエスの招きの言葉がどのようなものでしょうか。
4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
ここのところをどのように理解したらいいでしょうか.前後関係を全く知らない人は、「人間を獲物にするのか」と、疑問を持たれる人もいるでしょう。
 人を売り物にする、人を殺して食べるということではありません。網は神の恵みで捕らえることを意味します。
『人間をとる漁師』と、表現されました。それが、伝道者になる、分かり易く言えば、人々をイエス様の弟子とする働きに従事する者になるという意味であります。
『人間をとる漁師』になる人は、未だ良いとしても、獲られる側は、まるで、獲物にされる、捕まえられるような響きであります。
ところが、この表現を直訳しますと、『人間の漁師』でありまして、獲るという言葉は、特にはありません。『人間をとる漁師』と補って翻訳しているのであります。
『人間をとる漁師』になる人は、未だ良いとしても、獲られる側は、まるで、獲物にされる、捕まえられるような響きであります。
ギリシャ語本文を忠実に訳せば「人間のための海の人」ということになります。それはいわば荒海にもまれ、あえぎ、溺れている人間を助ける人。人間が人間として生きることを手伝う人。
漁師は網を用いて、魚を掬い取ります。ここでは、人間の救い取りであります。
 イエスの宣教の業は、単に多くの人を捕らえ、教会の中に網がはち切れんばかりに人を満たしていく業ではありません。 
 彼らが働いていたのはガリラヤ湖です。大きな湖で、夜中に漁をすることが多かったようです。真っ暗な闇の中を見つめながら、ここに魚がいると願って網を放り投げました。
 闇と向き合っていました。
暗闇の湖の底に生きる魚に向かい合っていたように、今度は暗闇の中に生きている人間と向かい合ってみないかという招きであったのではないかと言います。
 暗闇に歩んでいる人を掬いあげ、神の愛の光の中に導くために彼らは召されました。

イエス様の心で考えていくことが大切です。毎日イエス様だったらどう他者に声をかけるだろうかと考える。それでも従い得ない自分を見いだします。イエス様が一緒に導いて下さらなければこの仕事はできません。そして、イエス様が一緒に船に乗って下さらないと。
 自分の網を捨て、主イエスの網に身をゆだねていきたいと思います。