マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。 マタイによる福音書1:21
マタイ福音書で、天使はヨセフに受胎告知を告げます。
ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。
その時代、浮気をした人は厳しい罰がありました。石打の刑とは死罪にあたることを意味します。申命記24:1
しかし、ヨセフにはその律法の定めがふさわしくないと考えました。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったのですが、ヨセフはそれを望みませんでした。ヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたのです。
掟を超えていこうとする願いがヨセフの中にあったのです。
そのような愛と憐れみの中で、人をゆるし、育てていく世界を求めていたかとも思われます。
天使は告げます。「マリアは神様の力によってみごもったのだ」と。そうです、マリアには罪はなかったのです。そして、ヨセフは、マリアと幼子イエスを守り育てるという大きな使命を担うのです。
小さな命を狙うヘロデ王の魔の手からも守り抜きました。その役割を担うことが出来たのは、神様が共にいて下さったからです。
大きな力を持った神様が、私達のところに来て下さいました。それが、まさしくクリスマスです。
名前は体を表すと言いますが、生まれてくる救い主の名前を命名したのは、ヨセフとマリアではなく、神様ですから、その名前に、クリスマスの深い意味が示されています。
み使いは神様の思いを伝えます。「その名はイエス」と名付けなさいと。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「ヨシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。モーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったのがヨシュアです。主イエスは罪から私達を救い出し、約束のみ国に導かれる方であり。
山室軍平先生がこう言うお話をされていました。
ある時一人の男が水に落ちて助けを求めていると
ある人は「やれかわいそう それは前世の因果 あきらめなさい」と言い。
次に来た人は「これはお前が足下を忘れ、うかうかと歩いた報い。きっと今後を戒めよ」と言いました。
イエス様は、すぐに身をおどらせて水に飛び込み危険をおかしてその男をすくい上げたのち、種々の将来の注意を与え、また彼の手をひいてともに道を進まれる方です。罪から救う救い主はありがたい方です。
インマヌエルとも呼ばれると続けて、み使いは言います。
その意味するところは、神様が共におられるという意味です。
恋人達がデートしている時、アベックと言いますが、仲の良いふたりがデイトするとか手をつないで歩くことを意味するのではありません。もともと別のもの、一体になりえないものが、共にいますという出来事になりました。
神様が人間の手の届かない天から私達のもとに来たりて、一人の人間イエスとなって私達のところに来られたのです。神様はインマヌエルの神であり、われらと共にある神様です。
私達の悲しみ・苦しみをそのまま経験し、どんな時も共にいて下さり、その重荷を、共に追って下さる神様が共にいて下さっています。そして、その神様が私達と共にいて下さっているのです
マタイ福音書で、天使はヨセフに受胎告知を告げます。
ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。
その時代、浮気をした人は厳しい罰がありました。石打の刑とは死罪にあたることを意味します。申命記24:1
しかし、ヨセフにはその律法の定めがふさわしくないと考えました。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったのですが、ヨセフはそれを望みませんでした。ヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたのです。
掟を超えていこうとする願いがヨセフの中にあったのです。
そのような愛と憐れみの中で、人をゆるし、育てていく世界を求めていたかとも思われます。
天使は告げます。「マリアは神様の力によってみごもったのだ」と。そうです、マリアには罪はなかったのです。そして、ヨセフは、マリアと幼子イエスを守り育てるという大きな使命を担うのです。
小さな命を狙うヘロデ王の魔の手からも守り抜きました。その役割を担うことが出来たのは、神様が共にいて下さったからです。
大きな力を持った神様が、私達のところに来て下さいました。それが、まさしくクリスマスです。
名前は体を表すと言いますが、生まれてくる救い主の名前を命名したのは、ヨセフとマリアではなく、神様ですから、その名前に、クリスマスの深い意味が示されています。
み使いは神様の思いを伝えます。「その名はイエス」と名付けなさいと。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「ヨシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。モーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったのがヨシュアです。主イエスは罪から私達を救い出し、約束のみ国に導かれる方であり。
山室軍平先生がこう言うお話をされていました。
ある時一人の男が水に落ちて助けを求めていると
ある人は「やれかわいそう それは前世の因果 あきらめなさい」と言い。
次に来た人は「これはお前が足下を忘れ、うかうかと歩いた報い。きっと今後を戒めよ」と言いました。
イエス様は、すぐに身をおどらせて水に飛び込み危険をおかしてその男をすくい上げたのち、種々の将来の注意を与え、また彼の手をひいてともに道を進まれる方です。罪から救う救い主はありがたい方です。
インマヌエルとも呼ばれると続けて、み使いは言います。
その意味するところは、神様が共におられるという意味です。
恋人達がデートしている時、アベックと言いますが、仲の良いふたりがデイトするとか手をつないで歩くことを意味するのではありません。もともと別のもの、一体になりえないものが、共にいますという出来事になりました。
神様が人間の手の届かない天から私達のもとに来たりて、一人の人間イエスとなって私達のところに来られたのです。神様はインマヌエルの神であり、われらと共にある神様です。
私達の悲しみ・苦しみをそのまま経験し、どんな時も共にいて下さり、その重荷を、共に追って下さる神様が共にいて下さっています。そして、その神様が私達と共にいて下さっているのです