日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マタイ20:1-16「労働」

2013-09-24 16:47:21 | 説教
自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。            マタイによる福音書20:15


異邦人のリーダーシップに対して憤慨しているユダヤ人キリスト者に対して。マタイが戒めているものとして位置づけられているようであります。主人は後の者から順番に賃金を払いました。皆さんに約束通り、1デナリずつ支払いました。
神の国は報酬という観念もありますが、多くの場合、恩恵であります。神の愛と憐れみの報酬は当然もらえるものとしてではなく、驚きと感謝があるはずです。それがなく、当然と思っている人は、神の愛が見えていないのでしょう。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
友よ-対等の友人に対しての呼びかけです。ルカ15章の放蕩息子の兄にも「子」と同質の呼びかけを主はなすのです。神の愛と憐れみに気づいて欲しいのです。
妬む-直訳はあなたの目が悪い
現実を硬直化させ、新しいことや寛大さを認めず、とりわけ、神の善に限界     を設けよとする人間のあり方です。神の愛の新しさと創造性に対つねに開か     れていくことが大切なことです
○仕事の能力や労働時間によって評価して、給料を払うのが、数字で評価する人間です。
「星の王子さま」の物語の中で、四番目の星で、星の王子さまが出会うのは、空の星を金貨に見立てて計算しつづける「実業家」です。その足し算に夢中になる余り、彼は対象である「星」という言葉さえ忘れてしまっているのです。
 「ときどき空に見える、あのちっちゃなもの」とか「キラキラしているちっちゃなもの」としか説明出来ないのです。
 大人になると数字が好きになります。50冊本を読んだと聞くだけで、「すごい」と思いますが、何を読んだかが見えているでしょうか。それはたとえば、マンガかもしれません。数字や時間をすべてお金に変えて見てしまう世界があります。
 神様は数字ではなく、星そのものの光を見つめ、憐れみ、愛されるのです。
神様が与える仕事には、数字で表せないようないろいろな多様性があります。「人のためになっていない」と思う人も神様はふさわしく用いられます。
 仕事は、神様からの招きです。そこに神様や多くの人々の支えがあることを忘れないようにしましょう。そして、感謝と愛を忘れないようにして、周りの人々に接していきましょう。

エフェソ信徒への手紙5:1-5「新しい戒め」

2013-09-18 13:34:19 | 説教
卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
エフェソの信徒への手紙5:4


本日はエフェソの信徒への手紙に聞く時を持ちます。伝承では紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエフェソの地のキリスト者にあてて書いたものです
5:1に「 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と勧められています。これが新しい戒めの土台となります。4:32 5:2との関連によると、神にならうとはキリストにならうことを意味していると言えるでしょう。
5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
 主イエス・キリストの罪のあがないのための犠牲・十字架の愛への感謝と応答が訴えられています。 
エルサレム神殿では人々の罪を贖うものとして動物犠牲が献げられていました。しかし、それらの動物犠牲はまことの罪の贖いのためのものでした。
 キリストは「御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」のです。それは私たちを愛してくださったからです。だから神は私たちが滅んでしまうことをよしとは思われず、キリストを私たちのために遣わしてくださったのです。そしてこのキリストの愛は、神の私たちに対する愛を示すものであるとも言えるのです。ですからパウロが「神に倣う者となりなさい」と語る場合、この神の愛を見倣うべきであると言っているのです。だからパウロはここでも「あなたがたも愛によって歩みなさい」と勧めているのです。
 では具体的に神に倣う生き方とはどういう生き方でありましょうか。3節に書かれています。
 5:3 あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。
 ギリシャの影響を受けた異教の礼拝 愛の女神が祀られている神殿では娼婦がいました。そのような中で、 愛に生きるという時 宗教的倫理的意味を持っています。
  旧約時代。イスラエルが定着したのはカナンの地でありました。性的に解放されたカナン社会。パウロが活動した世界-ヘレニズムの影響を受けた性的な放縦な世界でした。
しかし、教会はそのような世の風潮を良しとしませんでした。
 それは神の愛に応える生き方とは異なるからです。
5:4 卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。
ここに記された「冗談」と言う言葉で表される行為が当時の社会では一般的社会人が兼ね備えるべき美徳の一つであったと言うことを指摘しています。
 うまいジョークを言って、人々を喜ばせる人が気のきいた人であり。そのようなことを理解出来ない人は堅物と言われたのです。わいせつなはなしや冗談は、空しく過ぎていく言葉であり、歴史にも働きかけることはありません。そう言う会話に無駄なエネルギーを使うことなく、感謝を表しなさいと言われています。
 私たちはここでパウロが語ろうとしているのは、会話の中で神への感謝をつねに表しなさいと言う勧めだと考えることになるのです。
感謝という言葉は、礼拝学で用いられるユーカリストという言葉が使われています。感謝の対象は神様ですね。少女パレアナ エレナ・ポーター著の主人公は気難しい叔母に引き取られ苦労しますが、どんなことからも喜びを見つけ出すゲームによって、前向きに生き抜きます。
 彼女の喜びは、叔母の心を開き、町の人達の心を明るくしていきます。このゲームは牧師の父から教わったということです。又彼女が半身不随になった時、落ち込んだ彼女を今度は町の人が支えます。
 喜ぶことがむずかしいなら、感謝すべきことを探してみましょう。
 「幸せとは価値あるものに取り囲まれた状態です。それは、今すでにある価値を見いだすことであり、他の人に向かって価値あるものにおなりなさいと求めることです」と渡辺和子さんが言われます。その道につながるのは、私達の周辺にある神様の愛を人に気づかせることです。神の愛を感謝して受けとめる人は、貪欲から解放され、生まれ変わっていくのです。いやしい言葉より、みだらな冗談より感謝の言葉を語るのです。他の人よりも深く見て、主の恵みを語るのです。

マタイによる福音書18:21-35 「隣人」

2013-09-10 17:34:14 | 説教
わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
マタイによる福音書18:33


ペトロが18:21 で、主イエスのところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 その当時、3回までは隣人に罪の赦しをこうことが出来るという教えがありました。
ということから、7回のゆるしであれば、充分なものと、ペトロは考えたのでした。
ペテロの質問に対して、イエス様のお答えは驚くべきものでありました。
18:22節で、主 イエスは言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
完全数7の70倍は実質的に「限りなく」の意味.無限にゆるしなさいということです。
「何回まで赦すべきでしょうか」。普通はだいたい三度までです。これは万国共通みたいです。「仏の顔も三度まで」と言いますが、キリストの顔は何度でしょうか。ユダヤの世界においても、神の赦しは三度までと考えられていたようです。それを考えますと、ペトロが口にした「七回までですか」というのは非凡な寛容さと言えます。さすが、ペトロと思いますが、イエス様から返って来たのは、「よく言ったペトロよ」というお褒めの言葉ではありませんでした。主はこう言われたのです。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と。
 そこで、さらに新しい譬えを語られました。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(23-27)。
 一タラントと言えば、労働者25年分の給料です。一万タラントンと言えば、25万年分の給料となりますので、非常に多い借金となります。
 そのような負債を抱えた者が神様の憐れみによってゆるされたということです。
 そのゆるされた僕が、自分に100日分の給与に相当する負債のある仲間をゆるさず、神様の怒りをかうのです。
 イエス様はあえてそのような極端な話をなさったのでしょう。「王」は、明らかに神様を指しています。借金している家来とは私たち人間のことです。そもそも罪と赦しの話をしていたわけでありますから、借金として語られているのは私たち自身の罪の話です。想像もできないような莫大な借金を負っている家来の話をして、「これがあなたたちだよ」と、聞く者に言っているのです。
 多くの負債をゆるしてもらっている人は、一生その負い目を背負うことではなく、主人が憐れみ深いように、憐れみをもって生きていくことが求められています。
 踏まれて咲くたんぽぽの笑顔かな 手折られて、人にかおるや梅の花
 愛とゆるしに生きることが、大切ですね。
 預言者バラムとロバの話は、旧約聖書 の 民数紀22章に出てきます。
モアブ人の王バラクは、イスラエルの民を呪うために預言者バラムを呼び出しました。
王の元に向かうバラムの前に神の使いが剣を持って立ちはだかっています。ロバの歩みを止めてしまいます。
バラムには天使の姿が見えず、立ち止まったロバがゆるせません。打って進ませようとしますが、その時突然、ロバがしゃべり始めます。
 やがて神に目を開かれたバラムは、選ばれた民を呪うのを止めるというお話しです。 怒りと呪いの世界から物事を見ると、ロバの誠実さは見えなくなり、ロバは悪者に見えます。
 ロバが阻止してなければ、バラムは道を誤っていたことでしょう。
 神の慈しみと、憐れみに私達の目が開かれていく時に、隣人を正しく見ていけるようになります。
 肉の糧と同じように、愛と憐れみの世界は人が生きていく上で大切なものです。



コリントの信徒への手紙一1:10-17「教会の一致と交わり」

2013-09-07 12:10:05 | 説教
皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。         コリントの信徒への手紙一1:10


 パウロはコリントを訪れ、伝道をして、キリスト者の群が起こされていきました。しかし、パウロが教会を去った後、教会にはいくつもの問題が起きました。
 その1つが、お気に入りの伝道者を担ぎ上げ、対立と分裂が起こったということです。 コリント教会は、パウロが福音を伝えて生まれた教会です。しかし、次第に美しい言葉や知識を織り込んだ話し方や、、知的なものが高く評価されるようになっていきました。 アポロのような雄弁家が教会で説教をすると、教会の中にたちまち支持者が続出しました。そのような派閥が教会の中にいくつもあって、互いの優劣競って対立していました。 それを知ったパウロが、教会が言い争って、共倒れしてしまわないよう、指導の手紙を書き送ったのです。
キリストはいくつにも分けられるのでしょうか。宗教集団は外圧に強く、内紛に弱いとも言われています。このままでは、コリントの教会は崩壊してしまいます。
 パウロ自身も、この問題を外側から見ているのではありません。派閥の中に、自分を支持する派閥のパウロ派の名前も隠すことなく、述べています。
 教会は風通しのいいところでしょうか。教会は主イエスの十字架の血が通う交わりです。大きな血管、毛細血管と血の巡りが良くなり、身体のすみずみまで血が流れ、十字架の愛が体なる教会に流れていることが大切です。
 人間的な知恵よりも、十字架の福音が語られていくことが大切なことです。
 十字架のない所にキリストはおられません、十字架には愛と赦しがあります。又十字架のキリストの愛は私達の弱いところに働く神様の愛です。
愛とゆるしの十字架の福音が語られているところでは、キリストが働かれ互いに認め合い、許し合う関係が生まれていきます。
 学問やこの世の知恵は、確かに人間の生活の役にたちますが、勉強が出来るようになると子どもが言うことを聞かなくなったという現実もあるのです。
 この世の知恵は一致をもたらすとは限りません。キリストの十字架の愛が、みなを一つにしていくのです。
 分裂していくことは、人間の集団の宿命的は傾向かもしれません。しかし、聖書はそれをイエスとは言われないです。
 人ではなく、キリストに結びついていくことが大切です。隔ての壁は現実の問題として、存在していることでしょう。撤去してしまうことはむずかしいかもしれません。でも、主イエスの十字架の愛を見上げていく時に、人間の傲慢・敵意という壁は低く、低くされていき、その上から次第に握手出来るように変えられていくのです。
その手をキリストは十字架の愛で、祝福して下さいます。