日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

あふれる愛-小さきものとともに-

2012-03-29 22:59:10 | キリスト教保育
「愛する者たち、互いに愛し合いましよう」
                ヨハネの手紙一4章7節 
 新しい春を迎えました。春の近づきは、私達の心を穏やかに、明るくしてくれます。
新年度の主題聖書は、「愛する者たち、互いに愛し合いましよう」(ヨハネの手紙一
4:7)です。
 「互いに愛し合いましよう」。その愛は人間から出る愛ではなく、神様から出る愛
です。あふれる愛は神様から出てきます。
「愛されている」と感じる思いが、人を愛する気持ちを育てます。大切にされているという「心が満たされる経験」をした子どもは、新しく出会ったお友達を大切に思うことが出来るでしょう。
 イエス様は子どもを愛され、大切にされました。
子ども達はみなそれぞれ賜物をもっています。神様は一人一人を優劣をつけたり、かたよって見たもうことはありません。人間は、もちろん長所・短所・あるいは欠点や賜物もあります。一人一人まったく違います。
 一人一人をかけがえのない存在として、「あなたが大事」とイエス様は言ってくださいます。何か一つ成績が悪くても、すべて人生はゼロではありません。自分の本当の価値を認めてもらえることが、自主性を育てます。
ゆきとどいた愛情の中に育てられ乳児期を過ごした子どもは、必ず自発的に知的好奇心とか探求心とか意欲が起こります。
「楽しい」「怖い」「淋しい」「悔しい」 いろんな感情で人は動きますが、一番自主性を育てる感情は、「嬉しい」という感情です。
愛され、大切にされていると経験が、子ども達の心に、真の喜びを与えると信じています。
「子どもを育て、教育する責任を負っている者は、人を愛する能力が十分に発達し
成熟していなければならない」と、南信子先生(「 輝くひとみをいつまでも 」)が言われます。私達職員も愛の源である神様の愛を知るために、聖書の学びを深めたいと思います。


「十字架の勝利」     ヨハネによる福音書12章20~33

2012-03-29 22:52:23 | 説教
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
        ルカによる福音書12:24

 自分を捨てというのは自己否定や自殺を意味するのではありません。すなわち大いなる肯定をすることであります。これは根源的な肯定であり。イエスとの愛の交わりに生きる自分、私達の救いのために命を捧げられ、命を与えたもうイエスとの命を交わりにいる自分を肯定することであります。この大いなる肯定によって人間を自己中心的な古い自己 罪に縛られた自分を放棄することが出来るのであります。

 一粒の麦は地にまかれ、水分と土壌と光と熱によって発芽の準備をし、そしてやがて一本の麦となって成長します。それゆえに成長過程の中では死ははいってこないようですが、ここで言う死は、こう言いかえることも出来ると小野一郎先生は言われます。「一粒の麦がその一粒のままであろうとしつづけることを放棄すること」と。
渡辺和子さんが、大きな死に備えるために小さな死を体験していくことの大切さを言っておれました。
 小さな死とは、自分の生活の小さながまん、自分の利己心に勝つこと、相手が感謝しなくても愛を貫く態度、その死は、自分が死ぬことではなく、神様によって変えられることです。その死は大きな収穫をもたらせます。 
神の栄光は十字架に現われています。十字架の死は終わりではなく、新しい命の始まりです。
私達の信仰生活はいつも神中心とはいかず、神中心と自己中心との間で揺れています。誰にでも自分の思い 計画 予定というものがあります。それが適えられるようにと祈るのが普通の祈りです。
しかし、自己中心の祈りから、神のみ心がなるように、神の栄光が現われるようにと祈るのが本当の祈りです。
 一粒の麦が一粒のままであろうとし続けることを放棄すること、それは、自分の栄光ではなく、神様の栄光を求めることです。その道が多くの実を結ばしめ、永遠の命に至るのです。
 私にとって、主の十字架の死は、希望へと目が開かれる出来事です。得体の知れない苦しみ、理に合わない苦しみに、主は希望を与えて下さるのです。それらの置いてきぼりにされがちな、人間の深刻な出来事に、主は真正面から向き合われ、栄光をもたらされたのです。

進級・進学お祝い会☆送別会

2012-03-25 18:21:01 | 子どもの教会


 子どもの教会で進級進学のお祝いと送別会をしました。
 広島・京都の大学で、勉強するお友達。
 大分市の高校で美術の勉強をするお友達。
 小学校へ入学するお友達。進級するお友達
 手巻き鮨と中津名物からあげを食べて、旅立ちお祝いしました。
 皆様の教会へ中津教会のお友達が行ったら、暖かく迎えて下さいね。

望む

2012-03-19 17:13:42 | キリスト教保育
 今年度もいよいよ最後の一ヶ月となりました。春へと向かっていくこの時期、やわらかい陽射しは、これから、新しい生活へ進む子ども達を、やさしく包んでくれることでしょう。
 今月の主題聖句は、「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書13章24節)です。
  イエス様は、ここでご自身を「一粒の麦」と言っています。そして「地に落ちて死ぬ」というのは「イエス・キリストが十字架にかかって死ぬ」ということです。イエスさまは、私たちすべての者たちのために十字架につかれ、死なれました。
 イエス・キリストの十字架の死は、私たち人間に対する「神様の愛」です。
一粒の麦は、良い土地では、20倍になると言われています。パンコムギの系統では、60から100粒の穂を生じることもあるそうです。
イエス様の十字架から、多くの人の心に愛が実っていきました。神様のため、隣人のために生きる愛の実が実っていきます。
赤ちゃん抱くと、その命が私達をやさしくさせます。イエス様は私達を愛し、命を捧げられました。イエス様はよみがえられ、復活の命が子ども達の心と体いっぱいに広がってます。子ども達が抱く一粒の麦の命が、多くの実を結ぶと信じています。
 これから始まる、新しい生活にそのことを望んでいきましょう。

 グレース保育園の先生方を通して、キリストの「愛の種」が子どもたちの心に蒔かれています。グレース保育園の使命はこの種まきのお仕事です。
 きっと、これから始まる新しい生活が、他の人を幸福にしていく豊かな生活になると信じています。
 3月というと、別れを惜しむ気持ちの方が大きくなりがちですが、、後ろ向きな気持ちに留まらず、これから、羽ばたく子ども達の良きアシスタントとして、喜びつつ、子ども達に仕えたいと思います。

メシアへの信仰

2012-03-19 16:03:31 | 説教
「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるよう になったのです。」
                      ヨハネによる福音書9:15

 主イエスは、神の御業がこの人に現れるためである。と宣言されました。そして、言葉だけではなく、主イエスは、大変珍しい方法で、この盲人を癒されたのです。まず主イエスは、つばきを利用して泥を作り、それを盲人の目に塗ったのです。眼が見えない盲人にとって、水で洗う必要を感覚的に感じた事でしょう。
 目の見えない人はイエスによって目が開かれました。この人は、主イエスのことを節ごとに、次のように告白しています。 11節「イエスという方」17節「預言者」31節「神をあがめ、そのみ心を行う人」33節「神のもとから来られた方」38節「主」
これらのイエスの呼び方に進展が見られ、最後の主はこの人の最高の告白です。
 目がただ肉体的に開かれただけでなく、キリストがどんな方かを理解することが出来たのです。
 苦難は神のみ業があらわれるためのものです。
 つかわされた者であられる主イエスを通して啓示の光、救いの光を受ける時、わたし達の心の眼に新たな創造が起こり、これから始まる救いを悟るのです。
チャップリンの映画に「街の灯」という作品があります。主人公のチャーリーは、貧しい男でした。ある日、盲目の花売りの娘と出会い一目惚れしてしまいます。そのとき持っていた小銭すべてを使って花を買ってあげました。
 やがて、その娘が、医者の手術を受ければ見えるようになることを知ります。そこでチャーリーは彼女のためにお金を用意するために、掃除夫として働いたりしますが、うまくいきません。チャーリーが途方に暮れていると、知り合いになったお金持ちと再会し、彼はチャーリーに大金をくれました。チャーリーはそのお金を彼女に渡しますが、お金持ちの家に泥棒が入り、彼は泥棒に頭をなぐられて、記憶がなくなり、お金をあげたことを忘れてしまいます。
 チャーリーは警察に捕われ、牢屋に入れられてしまいます。長い牢獄での生活も終わり、街を歩いていると、花売りの娘を見つけ、思わずじっと見つめてしまいます。彼女は目の前の男をかわいそうに思い、一輪の花と小銭を渡そうと近寄ります。そして、チャーリーの手に触れたとき、その娘はこの男が誰であったか気づくのです。チャーリーは「見えるんだね。」と問うと、彼女は「ええ、今は見えるわ」と答えるのです。
 コマーシャルでこのような言葉がテレビで流れていました。
「思いは誰にも見えないけれど、思いやりは見える」
「心は見えないけれど、心遣いは誰にでも見える」
 6節で主は「唾で土をこねてその人の目に塗った」と書かれています。
 唾を吐くという時、み言葉を語られ時に、主の息の力が働いているように感じるのです。
私達も、み言葉に聞き、聖霊の働きを受ける時に、十字架のみ苦しみを持ってまで愛して下さる、イエス様の愛の心とその働きかけが、見えてくるようになります。
 私達人間は、神様をこの肉眼の目で見る事は出来ません。苦しい出来事のただ中にも、主は働いておられるのです。 主の愛と恵みを明らかにして下さるのです。
今、神の息・み言葉を共にうけ、心の目が開かれ、神の愛をはっきりと見ることを願いたいと思います。