日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

テサロニケ信徒への手紙一5:18 「ありがとう」

2014-11-28 16:37:48 | 説教


「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
                         テサロニケの信徒への手紙I 5章16~18節


その始まりは、いつからでしょうか。今から約400年前にアメリカで始まったものです。今でもアメリカでは、11月29日になるとサンクスギビング・ディ(Thanksgiving Day)という休日になっています。
 そもそもの始まりは、イギリスからメイフラワー号という船に乗って、102名の人たちが何もない土地アメリカに上陸しました。しかし、1年目の冬の厳しさの中で半分の人が死に、残った51人は助け合って、家を建て、家畜を飼い、畑を作り、小麦やトウモロコシを作りました。そして、収穫感謝の礼拝を守りました。それが始まりです。
 豊かな収穫を与えられた彼らは、粗末な丸太小屋の教会に集まり収穫感謝の礼拝をささげました。
 苦しかった忍耐の生活を振り返りつつ、「小さな種子の芽を育て、太陽を輝かし、雨を降らせ、成長させて豊かな実りをお与え下さった神様に感謝します」と心からの祈りをささげました。
 そして、助けてくれたインディアンを招いて、パンやかぼちゃのパイを作り、七面鳥の肉を焼いて、パーティーを開きました。それが収穫感謝祭の初めだと言われています。
 移住してきた彼らは大変な苦労をしました。一緒に来た仲間の半分は死んでしまったのです。そんなひどい経験をしたにも拘らず、彼らはまず神様に感謝したのです。
 そうやって苦労をして、野菜を育てた彼らでした。そんな、彼らも苦労した自分を讃えることはなかったのです。
 テストで100点をとりました。運動会の競争で一番になりました。発表会で素敵な演技が出来ました。みんなは、そんな時に自分が偉いと思いますか。
 「自分で自分を褒めてあげたい」と思うことがありませんか。で、良く考えてみましょう。
 お母さんがおいしい料理を作って、みんなからほめてもらいました。でも、そのお母さんは言いました。「こうして、料理が出来たのはお店の人のおかげです」。
 お店の人は言いました。「これを売ることが出来たのはトラックの運転手さんが運んでくれたからです」
 運転手さんは言いました。「私たちが運ぶことが出来たのは。お百姓さんが働いてくれたからです。お百姓さんが野菜を作ってくれなかったら、野菜もなくて、お仕事もなかったことでしょう」
お百姓さんは言いました。「野菜が育ったのは雨を降らせ 光を注いで下さった神様のおかげです」 一番に感謝をあらわす方は神様なのですよ。
収穫感謝の日とは、収獲のために労した自分の努力を誉めてあげる日ではありません。そうではなく、与えられた恵みに感謝する日ということです。
 私たちの住んでいる地球が太陽系の中でいい位置にあります。地球と太陽の距離が、近すぎるとすべての水が蒸発してしまい、遠すぎると寒い星になってしまいます。わたしたちが生きているのは、神様の御業と信じて感謝することが大切です。

 私たちは考えれば考えるほど、どれほどいただいたことが多いかに気づかされて、感謝するようになるのではないかと思います。




コリントの信徒への手紙二5:1-10 「永遠の住みか」

2014-11-08 17:07:52 | 説教
わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。   コリントの信徒への手紙二5:1


 信仰者は、目に見える一時的な地上の住まい(幕屋)に生きています。家が何年も暮らすと傷んでくるように、肉体も永年の苦労で次第にボロボロになり、滅びていきます。
しかし、やがて、朽ちることのない永遠の命にふさわしい体が与えられます。地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられています。
私たちの「地上の住みかである幕屋」とあります。これが、今地上を生きている私たちのこの体です。
その体は「幕屋」であると言われています。幕屋とはテントです。そこには二つの意味があります。テントは、たたんで持ち運ぶことが出来ます、一つの所にずっといるのではなく、あちこち移動していくことが出来ます。
私たちの地上の人生はそのように、変化していくものです。
たとえば、中津にずっと住んでいたとしても、様々な出会いがあり、別れがあり、喜びがあり悲しみがあり、また社会の変化、時代の荒波にもまれていくというのです。
私たちは、自分の体という幕屋を、いろいろな状況に立てていきます。
そこで幸せな日々をおくられるかと思うと、病気になったり、苦難にあったりと、揺れ動くところにテントが張られます。
又その幕屋は、人的環境にも左右されやすいものでしょう。順境や逆境にもおかれ、時にストレスの中に置かれたり、安定した地位についたり、稼働式のテントはある一定のところには留まりません。
テントは恒久的な家ではないということです。雨露・陽射しにさらされて、古くなり痛みだし、やがて、使えなくなります。
人それぞれにいろいろな故障や病気をかかえて歩み、次第に老いて弱っていくのです。あるいは若くても病気や事故で亡くなってしまう人もいます。
私達の肉体は、一時の間、地上に存在するのみで、やがて滅びてしまう。この意味においては天幕づくりの家の如きものであります。「この世は仮りの宿」に過ぎません。仮の宿に過ぎざる幕屋と永続的住居なる建築物とを対比して肉体と永遠の命に生かされる体とを対比させています。
テントを張って、地上で過ごす有り様は、とても、労苦が多いことは確かなことでしょう。
地上でのテント暮らしは、バラバラですね、みなさんがそれぞれの家を持って暮らしておられます。しかし、来るべきみ国・天国は、神の子とされた神の家族が全員、天という大きな家に住むのです。
テントにかわって、私達が永遠に住む建物が与えられるということです。
「天にある永遠の住みか」です。
地上での苦しみの生活を放棄して、早くみ国に行きたいと願う人もいるかと思います。しかし、定められた場所で、生き続けることの大切さも、この箇所では語られています。
終礼のベルが鳴るまで、教室でがんばるということに譬えられるでしょうか。どんなに厳しい先生の授業でも、留まり続けること。
死ぬべき幕屋は決して無駄な重荷ではありません。確かに重荷ゆえに、自ら教室から出てしまう人もいるかと思いますが、主はそのような方々にも働きかけ、み国の教室へとお招きされると信じています。
 そのことを以下のみ言葉は、重ね着ということで表しているようです。
5:4 この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
住みかを着るというのは、不思議な表現です。聖書の翻訳者は苦労されて訳されたと思います。住み家というのは、御国にて、永遠の命に生かされていくための体です。
しかし、個人的な事として扱うならば、永遠の体と表現しますが、それを永遠の住みかを着るという表現は、集団的な要素とのつながりを表現しているように思います。
天から与えられる住みかを上に着たい。これは重ね着を意味しているようです。わたしのアイデンティティーはそのままで、他者にもわたしということがわかることを意味しているみたいです。
永遠のすみかに生きるように、ふさわしい体が与えられます。それは、自分から着るというよりも、神様に着せて頂くことではないでしょう。
天幕を着て生きている私達ですが、来るべき永遠のすみかを着る保証が与えられています。
それは、神様から与えられる聖霊です。この見えない力によって、私達は強められ、天幕を張って地上を生きるための慰めと励ましになっていると思います。
 永遠のすみかに生きるのにふさわしい体が与えられるという保障は、聖霊が一人一人に今与えられてるということです。先に召された永眠者は、この聖霊を受け、聖霊の結ぶ実としての愛や生きる力ややさしさや、いろいろなものが与えられました。 
 聖霊は一時金であり、やがて永遠の衣が与えられるという保障なのです。