日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

 エフェソ信徒への手紙5:1-5  新しい戒め

2021-09-22 16:16:38 | 説教

「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神にならう者となりなさい」という言葉は、神であられるキリストにならいなさいということです。

 神に学ぶ……神に学ぶとは、神様の真似をしながら覚える事です。だから、「私に習う者になれ」と命じました。

 

神は愛なり……ですから、「互いに愛し合いなさい」と命じました。神様の愛の見本を少しでも真似しながら(見本にしながら)愛します。

子は父の背中を見て育つと言います。又「神に子とされたあなた方は、父なる神の愛の遺伝子を受け継いでいるということを表しています。
 新しい戒めという主題をつけましたが、愛によって歩むことのどこが新しいのかということを思われることでしょう。そのことに対してお答えいたしますと、愛は私達の成長を自己満足に終わらせることはありません。愛は深く、広いのです。

古びることなく、常に新しい響きをもって私達によびかけ、内面を揺り動かしていきます。旧約の時代から隣人を愛することは言い伝えられております。しかし。ここで新しいと言われていることは、その命を捧げてまで私達を愛して下さったキリストの愛が土台になっているということです。

すなわち、私達はその独り子を与えるほどに愛して下さった大いなる愛を経験しているということです。

子どもは知らないうちに 無意識に親の愛を受けて、親に似る者になると言われています。そして、成人していくと愛されたことへの感謝が沸き上がります。

感謝という言葉は、礼拝楽で用いられるユーカリストという言葉が使われています。感謝の対象は神様です。下品な冗談で人を笑わせるよりも、神様への感謝が回りの人々を幸せにしていくのであります。

神の愛を感謝して受けとめる人は、貪欲から解放され、生まれ変わっていくのです。いやしい言葉より、みだらな冗談より感謝の言葉を語るのです。他の人よりも深く見て、主の恵みを語るのです。

インターネットの普及により、人間関係も個人主義に陥る危険性があります。人は深く付き合うほど、摩擦やわずらわしさなども経験していくのですが、その中で人間関係も成熟していくことは確かです。自分の都合のみを中心とした関係でしたら、愛は育たないかもしれません。そこに愛の広さ・深さを感じられないからです。

チャットによるいじめも、相手のことを考えない罪が増幅しているように感じます。便利な技術の新しさよりも本当の新しさ・・・人を幸せにする新しさという観点は、いつまでも新しく求められるものです。愛はいつの時代も新しい掟です。


ヤコブの手紙2:8-13「隣人」

2021-09-14 17:15:57 | 説教

ヤコブの手紙2:8-13「隣人」

本日のところでは「差別」が取り上げられています。人の名声、権力、財産によって、特別扱いをする、そんなことはしてはいけない、と言われています。人は皆、等しく神の命を与えられた価値ある存在である。少なくとも神に命を与えられたという信仰があるのなら、見かけで人を判断したり、差別したりすることはしないことが大切です。

人が人を差別するというのは、結局、その人を傷つけることに留まらず、キリストの御名を汚すことになります。(7節)。

主イエスは差別などされません。差別はこの世の社会から取り除かれていくことが大切です。

神の愛に生きることをキリストは大切なこととして私達にお伝えくださいました。そのようにイエス様から愛と教えを受けた私達が差別をしているとしたら、証にならなくなります。キリストの愛を知っていれば、子が親に似てくるように、私達は自ずと自分の生き方に反映されていくはずなのです。

そういう意味で、律法の中でも大切な戒め、愛の戒めを守ることを私たちは大事にしなくてはなりません。

神が哀れみ深いように、あわれみと愛情を持って生きることを大切にすることが必要であります。

死体というのは、動きや活動がなくなり、無力になっています。それは生きた体の幻影とも言えるのではないでしょうか。

 死体が立ったり、歩いたり、語ったりしないのど同様に、救いの働きや変革を生み出していかないとしたら、生きた信仰とは言えないかもしれません。

死者をよみがえらせた主イエスキリストは、死んだ信仰を生きた信仰に変える力をお持ちであられます。

 


コリントの信徒への手紙一1:10-17「教会の一致と交わり」

2021-09-11 09:19:49 | 説教

   それぞれが、人間的な強さを誇るのではなく、弱いところで結ばれていくことが大切です。十字架の福音は、弱いところに働く、大いなる神様の愛です。

 教会内に人間中心的な分派が作られるということは、教会の群れを分断するだけではなく、それ以上に主キリストご自身を幾つにも切り裂くことなのだとパウロは言います。

「仲たがいせず」とも言われていますが、「仲たがい」という言葉は原語でスキスマと言います。それは「破れ」という意味でもあります。分裂に陥ることなく、一つとなるように、と勧め教えているのです。

  愛とゆるしの十字架の福音が語られているところでは、キリストが働かれ互いに認め合い、許し合う関係が生まれていきます。

 学問やこの世の知恵は、確かに人間の生活の役にたちますが、すべてが一致をもたらすものではありません。

  キリストの十字架の愛が、みなを一つにしていくのです。

 同じ思い、同じ心は、ユニゾンではなく、コーラスです。振り子の自由さは、1カ所につながるところすなわち支点があるからです。磁石の針は北に向かった時に落ち着くようにこの一点こそがキリストです。人ではなく、キリストに結びついていくことが大切です。

 隔ての壁は現実の問題として、存在していることでしょう。撤去してしまうことはむずかしいことですが、主イエスの十字架を見上げていく時に、人間の敵意という壁は徐々に低くされていき、その上から和解の手が延ばされていきます。

 多様で様々な立場のある集団が、調和を保ちつつ、より豊かな関係へと導かれていくのです。

 


コリントの信徒への手紙一15:35-52 「究極の希望」

2021-09-04 13:59:22 | 説教

  15章42節以下には、終わりの日の復活の記事が書かれています。 「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱い者でも、力強いものに復活するのです」と書かれています。朽ちるべきものが朽ちないものを着て、死ぬべき者が死なないものを必ず着ることになる。 それが、私たちの最後の収穫の時の「復活」の約束です。 

私たちは、朽ちないもの、神の輝きに満たされるもの、弱さが強さに変えられる者です。

 「蒔かれる」というのは、人が死んで、土に返っていくことを意味しています。

蒔かれる時は、「朽ちる者」「卑しい者」「弱い者」と書かれていますが、結末は滅びではなく、神の力によって、輝かしい姿に復活すると書かれています。

  種そのものは死んで、そこから新しい芽が芽生えてます。体も、一度、死んで、そこから新しい体が生じます。人は新しい体が与えられるのです。

 死ねば朽ちてしまう現在の体が、新しい別の体に変えられて、復活するのです。強く、罪に汚れることなく、永久に朽ちることのない体だと表現されています。

人間は、創世記によると土から生まれたと書かれています。土から生まれた人間が、土に帰っていく、そのことだけを考えると空しくなります。しかし、肉体が土になった、その先に、新しいものが生まれると希望が示されています。

「支え」にも「見えるもの」と「見えないもの」があります。足を骨折した時に支えになるのは、見えるものでは「松葉杖」のような支え。見えないものでは、「思いやり」「いたわり」などの「愛」が支えになります。

  どちらも必要な支えになります。しかし、より大事な支えは「見えない支え」です。なぜなら誰も奪えないものだからです。このように見えない支えがしっかり土台となっている人は、どんなことがあっても「平安」が「不安」に勝るのです。

 まかれた種は土の中で形を失いますが、その命は実りをもたらします。慈しみに満ちた農夫が心の支えとなり、命を育んで下さいます。