日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マタイによる福音書27:32-56 十字架への道

2013-03-28 12:44:59 | 説教
他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。                 
マタイによる福音書27:42


 イエス様には、無限の愛があります。自分を守ろうとしないからです。全てを捨てられる自由を持った方だからです。
 石川五右衛門はわが子と一緒に釜ゆでの刑で処刑されたのですが、最期までわが子をも
ちあげたという伝説とわが子を下敷きにしたという伝説が言い伝えられている。その伝説は、自己のエゴイズムについて考えさせられます。
民衆の英雄的存在な五右衛門でさえも、そうだったということは、真実はわかりません。
民衆の夢までは盗まなかった五右衛門。我がもののようにこの天下を盗む権力者もいました。
イエス様は彼が助けようとされたまさにその人たちのことのみを考えていたがゆえにこそ、自分自身を救おうとはされなかったのです。イエス様は本当に、救おうとするもののことだけを考えられました。そして、自分のことは考えませんでした。
他者を押しのけても救われたいという人間が、罪から救われるためには、イエス様の十字架の愛を受けることが大切なのです。
世の中は、ひとは蹴飛ばしてでも、自分だけは救われたいという人で満ち満ちています。しかし、世にも珍しい、「自分を救わないで、ひとを救う方」との出会いは、きっと、心の砂漠のオアシスとなることでしょう。
砂漠のような現代、お互い同士が砂漠を作っていますけれど、誰かがそこで「オアシス」 になる必要があります。そのオアシスは人間のエゴイズムを砕き、絆を深めさせていくものです。
  その身を燃やしてまで光となられたイエス様の人々を救おうとする情熱は、砂漠のような世界のオアシスとなり。人々の絆を深めていく力となることでしょう。
 世に一つしかないもの・わずかなものがあれば、それは貴重品です。月の石が貴重品とすれば、月に簡単にいけるような社会になればその価値は変わります。イエス様の愛も砂漠の中に見つけたオアシスのようなものです。しかし、その愛は独占されるものではなく
その愛は永遠に変わらず尊いのです。そして、砂漠全体を美しく変化させていくものです。
 イエス様の愛に生かされている私の笑顔を見た隣人。又その愛に共にあずかった隣人。二人の中には大きな変化が起こると信じています。

年主題「あふれる愛」

2013-03-28 12:02:34 | キリスト教保育
年主題「あふれる愛」

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
              コリントの信徒への手紙Ⅰ13章13節


子ども達にとって愛されることは大切なことです。
 松野正子さん(絵本作家・翻訳家)が、「どんなに世の中が変わっても、変わらないもの、変えてはならないものがあると思います。それは子どもをかわいがられなくてはいけないということです」と言われます。
 迎えることは愛のはじめのかたちで、迎えることから愛することが始まります。受容の精神から愛することが始まるのです。
子どもを認める言葉がけをする。他の子と比較しない。かけがえのない大切な存在であることを伝えることです
そして、言葉で愛を伝えることです。
このような愛の姿勢は、聖書から豊かに教えられることです。
 私達も聖書の学びを深め、愛の人へと育っていきたいと願っています。
 今年度の年主題は、「あふれる愛」です。何かこの言葉を聞くと井戸をイメージするのです。「星の王子さま」(著サンテグジュペリ)の中に、こんなセリフがあります。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」という王子の言葉です。喉が渇いたパイロットの飲み水を探しに、
王子は一緒に砂漠を歩き、井戸を見つけます。そして、互いに水を飲み、絆を深めます。友情が確かなものになりました。互いの心の渇きを潤す水は
不可視的なものですが、それが二人の心を潤し、絆を深めさせました。
 そして、その井戸水は、人間に脅威を与える砂漠の世界さえも、美しい世界に変えていきます。
 水はあふれる愛です。井戸を発見し、その水を飲んだ、お互いの嬉しそうな顔に、お互いが癒されていくのです。
 愛は確かに見えませんけれど、素敵な形になってあらわれるものです。
 愛の源である、イエス様から沢山の愛を頂いて、笑顔が溢れる素敵な保育園となることを願っています。すべては心で変わるのですから。
 

進級・進学お祝い会

2013-03-19 16:16:38 | 子どもの教会
進級進学お祝い会を開催しました。

まずはかんぱい!


大学に進学するお友だち 中3に進学するお友だちが参加しました。



中津はお魚がおいしいので、お寿司がでました。



続いて中津名物唐揚げです。人生いろいろ!からあげいろいろです。
骨なし骨付きからあげ ねじりからあげ(塩味 たれ味) 鶏皮 手羽先といろいろ
あるんです。


そしてケーキとだんごが出ました。



最後はみんなで、ハイチーズ!ガシャ・・
決して食べてばかりではありません。新年度の歩みについても話し合いました。

マタイによる福音書20章20節-28節 「十字架の勝利」

2013-03-19 16:04:36 | 説教
イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。
                     
                       マタイによる福音書20:22

 主イエスの弟子の中には兄弟がいましたし、家族ぐるみで主イエスに従うケースもありました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネとその母サロメの家族、アルパヨの子ヤコブとマタイとその母マリヤといました。そのように家族ぐるみで主イエスに従うことは素晴らしいことであると思いますが。主イエスの弟子集団の中に地位争いの問題が起こりました。競争心とねたみが支配したのです。
 主イエスは彼らを呼び寄せたのです。この呼び寄せという言葉はマタイによる福音書では10章1節、18章3節、15章32節で用いられています。根本的な事柄を教え、奉仕や分かち合いへと遣わすために用いられています。
 主イエスはマグネティックパーソナリティーを持っておられます。人々を引きつける能力であります。薄い板の上に砂鉄を置き、下から磁石を動かすと、砂鉄は命を帯びたように動き出し、磁力を帯びて立ち上がるのであります。
主イエスに呼び寄せられた人は、命が与えられ、生き方が変えられていくのです。
 主イエスは仕える者になりなさいと言われます。仕えるというギリシャ語はディアコネオというギリシャ語が用いられています。食べ物や飲み物を出す時のサービスの意味があります。我先にと私腹を肥やすのではなく、先頭に立って他者の食事を用意する人です。 他者のために命を注ぎ出す生き方です。
 山室軍平先生がペトロの伝説を紹介しています。ある日ペトロが「今夜一晩だけ、神様になりたい」と申しました。「その願いをかなえよう」「なったつもりで野原に行け」と主が言われました。数人の牧者が羊の群を置いて、市中に遊びに行きました。「羊の群はどうするのか、狼に襲われたらとんでもない」とペトロが言うと、羊飼い達は、「後は神様におまかせ」と言って、去っていた。神様だから、預かったものを守らなければと、一睡もせずに、夜露に打たれて、羊の番をしました。
 神に最も近い人は人々が気軽に遊んでいる間も、よるべなき羊のために苦心をする人のことを言うと山室先生は紹介しています。
 ヤコブはヘロデアグリッパによって処刑され、ヨハネは長生きしたが、苦労が多かったと伝えられているが、多くの人達が彼らによって慰められました。
主イエスにならって自分を低くし、仕える生き方が出来るのでしょうか。家族や財産を棄てるということに必ずしも集約されるのでありません。自分を低くする道は人それぞれの心の中に隠されています。めったに通らないためにその道は雑草に覆われていることが多いでしょう。
この草取りの課程はいつも祈りと結びついています。呼び寄せて下さる主イエスの元で祈ることです。忙しい時でも、祈ることは神のために時間を割くことですから、神のために時間をさくときは、開かれた紅海のように、仕える道は少しずつ切り開くのです。愛の道のどこに踏み出せば良いかが、見えてきます。
主に従って、人を生かすために自分の命をささげる道、十字架の道を歩む。主が、私たちの人生を導き、そのようにされるのです。今はまだ、十字架の道を主に従って歩む、ということが良く分からないかもしれない。でも、主は、私たちが、十字架の道を歩んで行かれるようにと、一歩、一歩、手を取って引っ張って行かれるのです。
飲むべきわが杯は何でしょうか。
主の杯は決して甘いものではありませんでしたが、その杯を飲んだ弟子達の存在そのものが、人々の救いの役に立ちました。
 私達もその杯にどれだけ応えられるかは、わかりません。でも、無理をせずに楽をせずに主の道を歩んでいきましょう。
同じ杯を飲むことは主イエスと運命を共にすることです。そして、この杯は主の愛に満たされる杯です。
苦難の中で、主がみ業を現される杯です。十字架の勝利という逆説的な恵みを体験する道です。
 家族づくりやボランティアをするためには、自分の時間をとられ、気苦労が増えたりすると考えてしまう人がいるかもしれません。
 その道を選び取る杯を主は祝福してくださいます。
 十字架の勝利に恵みにあずからせてくださいます。