他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。
マタイによる福音書27:42
イエス様には、無限の愛があります。自分を守ろうとしないからです。全てを捨てられる自由を持った方だからです。
石川五右衛門はわが子と一緒に釜ゆでの刑で処刑されたのですが、最期までわが子をも
ちあげたという伝説とわが子を下敷きにしたという伝説が言い伝えられている。その伝説は、自己のエゴイズムについて考えさせられます。
民衆の英雄的存在な五右衛門でさえも、そうだったということは、真実はわかりません。
民衆の夢までは盗まなかった五右衛門。我がもののようにこの天下を盗む権力者もいました。
イエス様は彼が助けようとされたまさにその人たちのことのみを考えていたがゆえにこそ、自分自身を救おうとはされなかったのです。イエス様は本当に、救おうとするもののことだけを考えられました。そして、自分のことは考えませんでした。
他者を押しのけても救われたいという人間が、罪から救われるためには、イエス様の十字架の愛を受けることが大切なのです。
世の中は、ひとは蹴飛ばしてでも、自分だけは救われたいという人で満ち満ちています。しかし、世にも珍しい、「自分を救わないで、ひとを救う方」との出会いは、きっと、心の砂漠のオアシスとなることでしょう。
砂漠のような現代、お互い同士が砂漠を作っていますけれど、誰かがそこで「オアシス」 になる必要があります。そのオアシスは人間のエゴイズムを砕き、絆を深めさせていくものです。
その身を燃やしてまで光となられたイエス様の人々を救おうとする情熱は、砂漠のような世界のオアシスとなり。人々の絆を深めていく力となることでしょう。
世に一つしかないもの・わずかなものがあれば、それは貴重品です。月の石が貴重品とすれば、月に簡単にいけるような社会になればその価値は変わります。イエス様の愛も砂漠の中に見つけたオアシスのようなものです。しかし、その愛は独占されるものではなく
その愛は永遠に変わらず尊いのです。そして、砂漠全体を美しく変化させていくものです。
イエス様の愛に生かされている私の笑顔を見た隣人。又その愛に共にあずかった隣人。二人の中には大きな変化が起こると信じています。
マタイによる福音書27:42
イエス様には、無限の愛があります。自分を守ろうとしないからです。全てを捨てられる自由を持った方だからです。
石川五右衛門はわが子と一緒に釜ゆでの刑で処刑されたのですが、最期までわが子をも
ちあげたという伝説とわが子を下敷きにしたという伝説が言い伝えられている。その伝説は、自己のエゴイズムについて考えさせられます。
民衆の英雄的存在な五右衛門でさえも、そうだったということは、真実はわかりません。
民衆の夢までは盗まなかった五右衛門。我がもののようにこの天下を盗む権力者もいました。
イエス様は彼が助けようとされたまさにその人たちのことのみを考えていたがゆえにこそ、自分自身を救おうとはされなかったのです。イエス様は本当に、救おうとするもののことだけを考えられました。そして、自分のことは考えませんでした。
他者を押しのけても救われたいという人間が、罪から救われるためには、イエス様の十字架の愛を受けることが大切なのです。
世の中は、ひとは蹴飛ばしてでも、自分だけは救われたいという人で満ち満ちています。しかし、世にも珍しい、「自分を救わないで、ひとを救う方」との出会いは、きっと、心の砂漠のオアシスとなることでしょう。
砂漠のような現代、お互い同士が砂漠を作っていますけれど、誰かがそこで「オアシス」 になる必要があります。そのオアシスは人間のエゴイズムを砕き、絆を深めさせていくものです。
その身を燃やしてまで光となられたイエス様の人々を救おうとする情熱は、砂漠のような世界のオアシスとなり。人々の絆を深めていく力となることでしょう。
世に一つしかないもの・わずかなものがあれば、それは貴重品です。月の石が貴重品とすれば、月に簡単にいけるような社会になればその価値は変わります。イエス様の愛も砂漠の中に見つけたオアシスのようなものです。しかし、その愛は独占されるものではなく
その愛は永遠に変わらず尊いのです。そして、砂漠全体を美しく変化させていくものです。
イエス様の愛に生かされている私の笑顔を見た隣人。又その愛に共にあずかった隣人。二人の中には大きな変化が起こると信じています。