日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

中津教会の創立

2011-09-17 22:28:10 | 中津教会の歴史
聞き書き キャラハン師話


キャラハン師は米国ジョ-ジア州にあるエモリ大学に在学中、後に宇和島の宣教師
となりたるタ-ナ-師と共にランバス監督の講話に大いに感激し、宣教師となる決心
をなし、同校卒業後四国の松山に学校の教師必要と新聞公告にて知り、願書を出し3
年間教鞭を取りて後長崎の活水女学院教師ミス・テ-ラ-と結婚をなされた。かくて
明治27年秋の初旬、キャラハン師は中津に任命された。秋と言ってもまだ暑い日の午
後大分の宣教師ウエルソン師の案内にて共に小倉よりの遠き道のりを人力車に揺られ
中津に参りました。当時は勿論今の如き自動車も汽車も無く船にたよるのみでした。
 そして、松風の音ささやく宿屋に旅装をとき、疲れたる身体を床に横たへ深い眠り
についておると、突然ウエルソン師の笑い声にて夢を破られ眠い目を瞬きながら起き
上がってみると此の宿屋の下に大騒動起こっていて、それも誰かのどなりわめいてい
る声でした。
「この宿屋に憎い毛唐を止めていることは本当か」と大の男が怒鳴りたてている。
宿の主はおどおどして小さくなりながら、「西洋人の男を二人泊めた」 と答えている。
「どんななりをしている奴か。その毛唐人は。おまえたちの根性が腐っている。そ
んな奴を泊める奴が有るか」。「売国奴 汚らわしい 日本人の恥」と
ますます怒鳴りつけている。
「一人は若くて鼻の下に一寸ヒゲをはやしているが、もう一人の方は長い太い濃い
ヒゲを生やしてまして、顔は真っ赤で、まるで地獄から来た鬼のようでした」と宿屋
は答えた。それが余程おもしろかったと見え怒って来た大男も何もいわず何も害を加
えず立ち去った。

キャラハン師は鼻の下に一寸ヒゲを生やして居たが、ウエルソン師は長いヒゲを生
やして居た。その後町の真ん中に古き宿を見つけて修繕し、3年間おのが住家と定め
た。同年12月4日家族と95トンの汽船で、中津港に着き、寒気身にしむ午前4時同
師夫妻と生後4カ月の女児と共に女中を乗せし船が中津沖にイカリを下した。海水の
関係上午前10時までは船の陸に着くことが出来なかったので、キャラハン師と裸足で
同師の女児を抱き海水に足を濡らしながら上陸し、女中は赤んぼうの篭を持ち、夫人
は船人の背に負われ上陸した。船人と其の夫人の背丈の高さの比は半分の丈でした。

海岸にて薪を集め凍えた身体を暖め、又は濡らした布をかわかした。暫時いこいて
後海岸より遠き道程を歩きて、永い冬の夜も白々と明けそむる頃、己が家に着いた。
誰一人師を歓迎する人も無き家に着いたけれども、彼ら夫妻は大いに喜びに満たされ
ていた。そして師はあらゆる方面に伝道し大いに人々より尊敬され愛された。

当時、師は県下で一番始めての自転車の持ち主であった。町民は自転車が珍しく
「手品の小父さん」と呼んでいた。又同師は豆の種子を町民に与えたところ同師の名
前を取り「キャラハン又はキャラ豆」と呼んで賞賛している。
  後キャラハン師の語った言葉によれば「中津の人々程私共に親切にしてくれた人々
は何処にもない。私どもは永久にこの中津の人々の親切を忘れることは出来ない。私
共の長男が冬の寒い時に死んだ時も中津の友が肉親よりもっと親切にしてくれたこと
は忘れることはできない。又一番うれしかったことは「私どもの家の近所の人が一番
始めの受洗者でした」と常に喜びながら語っておられました。

我々中津の信者として永遠に忘れることの出来ないのは、照雲寺(伝承によれば自
性寺という説もある)に葬られてある同師の長男ハ-ベ様の墓であります。これこ
そ中津伝道の犠牲の記念として我々は感謝して永久に清く保存すべきと思います。
日本の所々に於いての幾星霜の伝道の後 師は高齢に達し昭和10年6月米国への帰
途中津へ告別に参り同師が以前導きし人に再会した。その中に現在中津教会の主たる
信者として又は中津中学の教師として人々に大いに尊敬され慕はれて居る石丸春雄先
生こそはキャラハン師による中津伝道当時の日曜学校生徒でした。 
米国帰途中津出発の際多くの人々の盛大なる御見送りにより帰られる。
1936年4月に召天され、哀悼は絶えず。
            関西学院大学資料室保存「キャラハン師聞き書き」





 中津教会の歴史  
1891年 明治24年
キャラハン師来日(YMCA事業の教師としての来日)

(ウィリアム・ジャクソン・キャラハン)1866年 ジョ-ジア州ホワイトビルにて出生
 1893年南メソジストミッションに入り、翌年は南ジョ-ジア年会に加名し44年間の在
 日本の伝道生涯を始められる。1936年4月16日 テキサス州サン・アントニオにおい
 て召天

1893年 
キャラハン師はマ-サ-・テ-ラ-師と結婚

(マ-サ-・テ-ラ-) 長崎の活水女学院で教壇に立っていた。日本メソジスト教
 会の年会記録(1937年)に載せた追悼文によると「生涯の良き伴侶としてキャ
 ラハン先生の伝道事業を助けられた婦人宣教師」と記述している。

1894年 
キャラハン宣教師、中津へ遣わされる。
(中津)当時、中津は豊前地域の中心として栄えた町、南メソジスト教会が大分県で
 は大分市についで中津に教会を設けたのも、中津の重要性を認識していたからであ
ろう。中津教会は国東までの大分県北地域と福岡の行橋 田川地区までを布教の範
囲としてた。

1896年 
長男ハアベ肺炎で死去
ハアベは前年の11月に生まれたばかりで、わずか2カ月の生涯だった。だが嘆き悲
しむ夫妻を近所の人々の心が救う。それまで親しくなかった人々が会葬に訪れ、近
くの自性寺に手厚く葬ってくれた。ハアベの墓石は第二次大戦の前後日本キリスト
教団中津教会の敷地内に移される。

1897年 
5月5日     中津教会創立
借家の2階に住んで1階をチャペルと夜間学校に使用

1898年
 キャラハン邸(金谷森ノ丁)の完成。
登記簿によると1903年(明治36年)5月13日登記「北亜米利加合衆国ジョ-ジア
  州ホワイツビル村 当時下毛郡中津町2229番地ダブリュ-・ゼ・キャラハン右所
   有権ヲ登記ス」とある。1903年以前の建物である。

  キャラハン邸は、日曜学校や英語教室、料理教室、洋裁教室などに用いられ、
 多くの市民に親しまれた。
  クリスチャンの宇野さんという人が、キャラハン師の良き助け手となり、日曜
 学校などを手伝う。彼は中津裁判所の若い判事です。後に裁判所を辞め、1903年
 には関西学院に入学。聖書の屋台を引いて路傍伝道をしたとも言われている。
  1901年の幼児洗礼者の親であるならば、宇野真一という名である。


1899年
 キャラハン師は中津尋常中学校5年級英語委託教師として聘雇される。国民派機
関中津新報が、「たとい学校内部にて宗教談話をなさずとするも知らず知らずの間
 に感化を及ぼすなり」「交通の便を得る生徒が、英語研究その他にてキャラハン氏
 に出入りすれば、宣教を以て生命とする宣教師がこれを利用しないわけはない」
「第二国民たる生徒をキリスト教化せられなば一大事。国民教育の目的を失するも
 のなり」などと途方もなき論議を加えた。
 福岡県下築上郡 大分県下下毛 宇佐二郡の佛徒各宗協同会というグル-ブが出
来その委員を中学校長 下毛郡長 大分県知事に派しキャラハン師に解雇を切迫す
る。        (以上 護教1899年3月11日発行「教報」参照)


1901年
初めての受洗者が出る
 中津リポ-ト10月10日の報告書に日曜学校の様子が伝えられている。「最初の日
 曜日に20人の子供たちがやってきて我々は喜ばしく思った。その次の日曜日に
 40人。又その次の日曜日には百人の子供たちがやってきた。彼らは家から庭にま
で溢れた」。

 その他の活動
 (サンシャイン・ソサエティ-)14~16才の少女を対象「親切であれ」をモット
  -に、貧しい人や病人に奉仕する活動。


受洗者名


 5月   林 竹代 青木胤彦 青木愛子 林しゅん子





「最初に林しゅん子姉の一人娘林竹代姉が救われました。全く奇跡的でありま

 す。その目は見えず、物もすらすら言えないその娘が非常に良い信仰を持っ

  た。そのために生嶋医師が感化され、一家を挙げての伝道精神に燃えた。そ

  の入院患者糸井一家が入会している。中津教会は発展していくのである。

  宇野氏は益々盛んに伝道された。そのため一時夫人は離婚して生家に帰っ

 たのであります。ただし、御主人の熱心な伝道に悔い改め、自らも婦人伝道

 師となり、娘も伝道師に嫁し、母堂も洗礼を受けて、私が竹田で伝道してい

 る時は会計幹事となり、自宅を教会として百才近い天寿を全うされた」。



              福地幾一牧師の証言


                    1944年


 生嶋医師-眼科の先生 生嶋吉之助という名である。





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