日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

マルコによる福音書2:1-12「主と共に」

2016-12-09 14:49:45 | フォトギャラリー
イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
       マルコによる福音書2:4
 
 イエス様は違う町で宣教された後、再びカファルナウムに戻ってきたといいます。そのうわさを聞いて多くの人がイエス様の元に駆けつけます。戸口のあたりまで隙間もないほどであったといいます。そこに中風で動けない知り合いを四人の男が運んできたといいます。
中風という病気は、読んで字の如く「風(かぜ)」に「中(あたる)」と書きます。特に北国に多い病気です。暖かい部屋から急に寒い表に出たりしますと、脳の血管が切れて脳内出血を起こし、その場で命を落としてしまうこともありますし、治っても体の機能に障害が残ります。その後、何年もリハビリをしたりしなければなりません。本人も家族も本当に大変な病です。
 大勢の人がいてイエス様に近づくことができなかったので、屋根をはがして穴を開け、とこをイエス様のところまでつりおろしたといいます。間違いなく、この中風の人を癒してもらうためです。
 屋根がメリメリとはがされ、びっくりした群衆、屋根の上から心配そうに眺める4人の人、救いを求める中風の人、光景が脳裏に浮かんできます。とても、劇的な場面です。
4人の奉仕の業を見る時に感じることは、とりなしの信仰・良いことを恥ずかしがらない精神、不屈の精神などを感じることが出来ます。
とりなしと言うのは、自分を愛するように隣人を愛することです。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は癒される!
当時のパレスチナの家は屋根が平らで、瓦も日本の屋根瓦とは違う。木材の梁の上に木の枝などを渡して土を盛って固めただけです。容易に剥がすことが出来た。と言っても屋根を剥がすなどは常識では考えられない。
 
四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。』
 イエス様は、「その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。イエス様は「彼らの信仰を見た」とありますが、何を見たでしょうか?
 ここで「信仰」と訳されているギリシャ語の「ピスティス」という単語。「信仰」という意味だけで無く、もう一つ大きな意味があります。それは「信頼」という意味です。


 主イエスへの大きな信頼です。 
 石井十次は、医者を目指していましたが、親のいない子ども達に心を痛め、医学の道を断念し、孤児救済のために人生を捧げました。彼は「親のいない孤児よりも、もっと不幸なのは、心の迷い子なのです。」と言い、聖書の教えを土台として子ども達を教育し、様々な困難を乗り越え、数々の偉業を成し遂げました。
 ある時、彼は幻をみました。そこには大きなかごを背負ったイエス様が立っていて、そのかごの中には大勢の孤児がいました。十次はそのかごに子ども達を入れていましたが、もうこれ以上は無理だ、と限界を感じます。しかし、イエス様には限界がなかったのです。まだまだ孤児をかごに入れるよう指示をされ、その通りにすると、孤児はかごに納まるのです。
 その時から、彼は孤児院を背負っているのは、自分ではなくイエス様だと気づきます。彼は、「イエス様の人々を愛する愛」がどれだけ深いかを知り、イエス様の愛によって孤児を愛するようになります。彼が創設した岡山孤児院は、東北大飢饉の被災者を受け入れ、その時の孤児院の収容人数は1200人を越えたのです。
中津時代の11年間の活動を終えてキャラハンは1904年に山口に転任し下関伝道に関わった。その後豊予分区の責任者につき、1911年 行橋・豊津を含める中津伝道教区の主任につきます。キャラハンは岡山孤児院の活動について知っており、その関心は深く強力な支援者でありました。そして、岡山に出向き、石井十次を訪ね、音楽活動写真隊の派遣を要請しています。1900年 1907年 1908年に中津で慈善音楽会が開催されています。これからの10年間は社会進出の時代だ。 孤児救済の応援をしてもらえるように、社会に出て訴えていく。」 と、十次は明治31年正月の日記に書いた。
社会に訴える方法の一つが孤児たちの音楽隊を連れて全国を回ることであった。 専門の音楽教師を雇い、イギリス式のブラスバンドが編成された。そして訪れた町を行進し、夜は音楽会を催した。当時ブラスバンドは珍しく、孤児たちの熱演は多くの人々を惹きつけ大変な人気であった。

 音楽会に続いて幻灯会となり、十次が孤児院のスライドを見せながら孤児たちの生活を紹介し、また神の教えを説いた。
イエスが見て心動かされたのは、自分への信仰というだけでなく、彼らの間で働いている「信頼」、中風で思い悩んでいる人とその人を助けた人の間で働いていた、「信頼」ではないか、と考えられるのです。
四隅の勤めの大切さを述べた人がいます。めいめいがその責任を全うした結果、病人が救われました。そして、ここに示されている信頼関係です。この信頼関係は、主の愛や主の教え「互いに愛し合いなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」が育んだものです。
 担がれる人も安心していたし、四隅の人たちも「みんなが役割をしっかりと担っている」という信頼関係がありました。
又彼らの信仰には中風の人も含まれる可能性があります。
 小さな力・見えない力がつながりあって、救いが実現しています。
 四隅には、隠れたサポーターがいることでしょう。
 中風の人の苦しみをわがことのようにして、包み込んでいる信仰
 彼らへのとりなしの祈りをする人 地域の人々とのつながり、支援一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。
 主イエスを頭として、その社会福祉の事業に加わりなさい、委ねなさいというメッセージが込められているように思います。出来ないことではなく出来ることでつながっていくことの大切さを思います。

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