日本基督教団中津教会

中津教会での出来事を書いていきます。

ミカ書4:7「もうすぐクリスマス」

2016-12-09 15:22:36 | 説教
「剣(つるぎ)を打ち直して 鋤(すき)とし
 槍(やり)  を打ち直して 鎌(かま)とする」
          〔旧約聖書 ミカ書4章3節〕

 
 預言者ミカは救い主が与えてくださる平和をわかりやすいたとえを用いて教えてくれました。
 ミカの生きた時代の戦争に使われた「つるぎ」や「やり」のような武器は金属で出来ていました。それと同じように畑仕事に使う「すき」や「かま」も金属で出来ています。
 恐ろしい武器もあつい熱で溶かして金づちで打てば、畑仕事の道具になるのです。その道具はみんなの食べ物を育てるために使うことが出来ます。
 「救い主が来られるとき、救い主に従う人たちは、武器を畑仕事の道具に直して、戦いをやめるだろう」とミカはみんなに話しました。
クリスマス、それはキリスト礼拝・キリスト祭と言います。主イエスキリストの御降誕をお祝いする日です。
クリスマスの主人公であるイエスさまは赤ちゃんです。沢山の脇役が登場します。みんな赤ちゃんを支え守るために、精一杯の力を発揮します。
 何にも出来ない赤ちゃんのイエス様に出会うことによって、自分の内から不思議に、愛する力を引き出されていきます。
 主イエスは神の愛を与え、人々の中から愛を引き出すことにおいた私達の救い主であられたのです。
 弱いものを中心として関係がきずきあげられることが平和です
クリスマス発表会のテーマはへいわをいのる~みんなが待っているクリスマスです 
 もうすぐ、クリスマス。クリスマスのメッセージは「愛」と「平和」です。
 世界中の人々が戦いをやめ、みんなが互いに愛し合い生きる日が来ることを待ち望み、祈りながらクリスマスを迎える準備をして参りましょう。

きよしこの夜

2016-12-09 14:55:18 | 教会音楽

 オーストリアのオーベンドルフという町の小さな教会で、1818年のクリスマスイヴの朝、パイプオルガンのふいごの皮をネズミがかじり、使えなくなって、助任司祭ヨセフ・モールが作詞し、オルガン奏者のフランツ・グルバーが、ギターの伴奏で歌えるクリスマスの賛美歌を作曲し、イヴの夜12人のこども達と共に歌ったのが最初です
 歌はそれっきり忘れられ、細々とチロル民謡として伝わり、二人のことは36年後に分かったそうです。グルーバーは生涯に90曲の作品を作りましたが、知られているのはこの1曲だけでした。助任司祭だったモールは名も知られず、貧しさの中で亡くなり、遺品はつぎだらけの服と祈祷書。しかし、魂を込めた歌は残りました。
 大切な礼拝の時にオルガンが壊れたら、「大変なことだ」と動揺してしまいますが、二人は、そこから、素晴らしい讃美歌を生み出しました。
 家畜小屋で生まれ、安らかに眠っているイエス様が、最大のピンチの時に、平安を与えて下さったのです。そして、世界中の人々が愛と平安に包まれる名曲が生まれました。
 198年経った今も、このクリスマスソングが世界中で歌われています。なぜ、このように広く、歌い継がれているのでしょうか。それは、民衆の愛、この歌への愛ゆえにです。
この讃美歌を歌うと、小さい頃のクリスマスの光景が浮かんでくることも、愛される理由の一つかもしれません。

マルコによる福音書2:1-12「主と共に」

2016-12-09 14:49:45 | フォトギャラリー
イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
       マルコによる福音書2:4
 
 イエス様は違う町で宣教された後、再びカファルナウムに戻ってきたといいます。そのうわさを聞いて多くの人がイエス様の元に駆けつけます。戸口のあたりまで隙間もないほどであったといいます。そこに中風で動けない知り合いを四人の男が運んできたといいます。
中風という病気は、読んで字の如く「風(かぜ)」に「中(あたる)」と書きます。特に北国に多い病気です。暖かい部屋から急に寒い表に出たりしますと、脳の血管が切れて脳内出血を起こし、その場で命を落としてしまうこともありますし、治っても体の機能に障害が残ります。その後、何年もリハビリをしたりしなければなりません。本人も家族も本当に大変な病です。
 大勢の人がいてイエス様に近づくことができなかったので、屋根をはがして穴を開け、とこをイエス様のところまでつりおろしたといいます。間違いなく、この中風の人を癒してもらうためです。
 屋根がメリメリとはがされ、びっくりした群衆、屋根の上から心配そうに眺める4人の人、救いを求める中風の人、光景が脳裏に浮かんできます。とても、劇的な場面です。
4人の奉仕の業を見る時に感じることは、とりなしの信仰・良いことを恥ずかしがらない精神、不屈の精神などを感じることが出来ます。
とりなしと言うのは、自分を愛するように隣人を愛することです。その病人は四人にとってはとても大切な人であったのだと思います。だから四人は一生懸命でした。屋根まではがしてつり下ろすというのは一大事です。彼ら四人の熱く必死な思いが伝わってきます。イエスさまの前に連れてゆきさえすればこの人は癒される!
当時のパレスチナの家は屋根が平らで、瓦も日本の屋根瓦とは違う。木材の梁の上に木の枝などを渡して土を盛って固めただけです。容易に剥がすことが出来た。と言っても屋根を剥がすなどは常識では考えられない。
 
四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。』
 イエス様は、「その人たちの信仰を見て、中風の人に『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。イエス様は「彼らの信仰を見た」とありますが、何を見たでしょうか?
 ここで「信仰」と訳されているギリシャ語の「ピスティス」という単語。「信仰」という意味だけで無く、もう一つ大きな意味があります。それは「信頼」という意味です。


 主イエスへの大きな信頼です。 
 石井十次は、医者を目指していましたが、親のいない子ども達に心を痛め、医学の道を断念し、孤児救済のために人生を捧げました。彼は「親のいない孤児よりも、もっと不幸なのは、心の迷い子なのです。」と言い、聖書の教えを土台として子ども達を教育し、様々な困難を乗り越え、数々の偉業を成し遂げました。
 ある時、彼は幻をみました。そこには大きなかごを背負ったイエス様が立っていて、そのかごの中には大勢の孤児がいました。十次はそのかごに子ども達を入れていましたが、もうこれ以上は無理だ、と限界を感じます。しかし、イエス様には限界がなかったのです。まだまだ孤児をかごに入れるよう指示をされ、その通りにすると、孤児はかごに納まるのです。
 その時から、彼は孤児院を背負っているのは、自分ではなくイエス様だと気づきます。彼は、「イエス様の人々を愛する愛」がどれだけ深いかを知り、イエス様の愛によって孤児を愛するようになります。彼が創設した岡山孤児院は、東北大飢饉の被災者を受け入れ、その時の孤児院の収容人数は1200人を越えたのです。
中津時代の11年間の活動を終えてキャラハンは1904年に山口に転任し下関伝道に関わった。その後豊予分区の責任者につき、1911年 行橋・豊津を含める中津伝道教区の主任につきます。キャラハンは岡山孤児院の活動について知っており、その関心は深く強力な支援者でありました。そして、岡山に出向き、石井十次を訪ね、音楽活動写真隊の派遣を要請しています。1900年 1907年 1908年に中津で慈善音楽会が開催されています。これからの10年間は社会進出の時代だ。 孤児救済の応援をしてもらえるように、社会に出て訴えていく。」 と、十次は明治31年正月の日記に書いた。
社会に訴える方法の一つが孤児たちの音楽隊を連れて全国を回ることであった。 専門の音楽教師を雇い、イギリス式のブラスバンドが編成された。そして訪れた町を行進し、夜は音楽会を催した。当時ブラスバンドは珍しく、孤児たちの熱演は多くの人々を惹きつけ大変な人気であった。

 音楽会に続いて幻灯会となり、十次が孤児院のスライドを見せながら孤児たちの生活を紹介し、また神の教えを説いた。
イエスが見て心動かされたのは、自分への信仰というだけでなく、彼らの間で働いている「信頼」、中風で思い悩んでいる人とその人を助けた人の間で働いていた、「信頼」ではないか、と考えられるのです。
四隅の勤めの大切さを述べた人がいます。めいめいがその責任を全うした結果、病人が救われました。そして、ここに示されている信頼関係です。この信頼関係は、主の愛や主の教え「互いに愛し合いなさい」「自分を愛するように隣人を愛しなさい」が育んだものです。
 担がれる人も安心していたし、四隅の人たちも「みんなが役割をしっかりと担っている」という信頼関係がありました。
又彼らの信仰には中風の人も含まれる可能性があります。
 小さな力・見えない力がつながりあって、救いが実現しています。
 四隅には、隠れたサポーターがいることでしょう。
 中風の人の苦しみをわがことのようにして、包み込んでいる信仰
 彼らへのとりなしの祈りをする人 地域の人々とのつながり、支援一人の人間のために必死になってとりなす者たち。その真摯さが主イエスの胸を打ち、また私たちの胸を打つのです。このことの目撃者たちも胸を打たれたがゆえにこれを言い伝えていったに違いありません。このマルコ福音書の記事の背後には実際にこの出来事を目撃したペトロの熱い思いがあるという註解者もいます。
 主イエスを頭として、その社会福祉の事業に加わりなさい、委ねなさいというメッセージが込められているように思います。出来ないことではなく出来ることでつながっていくことの大切さを思います。

イザヤ書2:1―5「主の来臨の希望」

2016-12-09 14:34:57 | 説教
彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
  国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 
                   イザヤ書2:4 
 
 イザヤがユダとエルサレムについて預言したことばです。イザヤは、「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。」と預言しました。この「終わりの日」とはいつのことなのでしょうか?これは、やがてキリストが再臨した後にもたらされるこの地上における状況です。イザヤはその終わりの日に現れる輝かしい神の国の幻を見たのです。
紀元前743年ごろからアッシリア帝国はシリア、パレスチナに遠征を繰り返し、北イスラエル王国はアッシリアの軍事侵攻に巻き込まれることになります。
そこで北イスラエル王国の王ペカや、北イスラエル王国に隣接するアラムの王レチンは同盟を結び、アッシリアに対して軍事的に抵抗する道を選びます。
 この時、北イスラエル王国に隣接する南ユダ王国のアハズ王は、この同盟に加わることを拒否。この結果、北イスラエル王国とアラムは南ユダ王国に戦争(シリア・エフライム戦争、前733~732年)をしかけることになります。(たぶん、裏切り者と判断されたのでしょう。)
 北イスラエル王国とアラムと戦争状態に入った南ユダ王国は預言者イザヤの反対を押し切って、あろうことか敵国である大国アッシリアに救援を求め、その結果、北から順番に前732年にアラムが、そして前722年に北イスラエル王国は滅亡するのです。
 もともと同一国であった北イスラエル王国の呼びかけに背を向け、本来敵であるアッシリア帝国に助けを請うた南ユダ王国の政治的決断は当初は良かったかのように思われましたが、アッシリア帝国が南ユダ王国を守ってくれるというのは幻想に過ぎず、結局はアッシリアに服従する形で存続していくのです。
北イスラエル王国は、 BC721、アッシリアの圧倒的な力によって滅ぼされ、 その民は強制移住政策により連れ去られてしまいます。
 預言者イザヤは、そのような大国の軍事力に守ってもらうのではなく、また経済力でもなく、頼るべきは神であることを終始一貫して叫ぶのです。
 4節を見ると、「主は国々をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」とあります。どういうことかというと、その日、主が国々をさばかれ、判決を下さるので、そこに完全な平和がもたらされるということです。主のさばきは完全だからです。その時には剣が鋤に、槍がかまに変わります。軍事道具が農業用具になるのです。軍事道具が必要なくなるからです。主が正しく国々をさばいてくださるので、そこには完全な平和がもたらされるからです。
 イザヤの預言を受けたのが主イエスです。マタイによる福音書5:5を選びました「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」。心の柔らかな人々は、腕力や政治権力、経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことです。
強国アッシリアはバビロンに滅ぼされ、バビロンもペルシャに、ペルシャもギリシャに、ギリシャもローマに滅ぼされます。ローマも今では遺跡が残るだけです。
イザヤの結論はこうです。2章22節です。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」
世界の究極の平和は、この十字架の救い主イエス・キリストのもとに、全ての人が集まり、その御言葉を聞き、示される愛の道を歩むことによってもたらされるのです。