しらたまの わがこのゆめも みぬほどに 月夜のうれひ うせにけるかな
*「白玉の」は「わが子」とか「君」にかかる枕詞ですね。定番ですから覚えている人は多いでしょう。我が子のことを詠いたいひとはたくさんいますから、いい言葉があるのはうれしいものです。こういう枕詞の文化は非常に喜ばしい。ご先祖様に深く御礼を言いたいところです。
白玉のように大事な、我が子の夢さえ見ないほどに、月にたとえられるあの人の憂いも失せてしまったことだ。
ご存じの通り、かのじょはもうあなたがたのことを覚えてはいません。わたしたちは時に霊魂の記憶を少し操作することがあるのです。その人があまりにつらいことを経験してしまったとき、それを忘れたほうがいいと思うときは、忘れさせることがあるのです。
世の中には、忘れてはならないものがある。だが、時に、忘れたほうがいいということも発生することがあるのです。永遠を生きていく自己存在はその中で大変な経験をすることがある。それがその人にとってあまりにつらいことを引き起こすという場合は、忘れさせたほうがいいこともあるのです。
霊魂というのも、形あるものですから、高い勉強をしていけば、ある程度の操作というのはできるようになるものなのです。もちろん愛をもって、美しくやっていかねばなりません。ただそれをやるたびに、悲しみというのは生じる。人の霊魂にさわり、その大切なところに手を入れることは、本来は神しかできないことではないかと思うのです。
だがやらねばならないときはやらねばならない。
かのじょにとっては、愛していたあなたがたから受けた仕打ちを覚えていることは、とてもつらいことだ。そして、愛していたあなたがたと永遠に会えなくなったということも、とてもつらいことなのです。
ですから、恐ろしいこともできるわたしたちの仲間の一人がそれをやってくれたのだが。今でも悲しみは漂っている。
本当に、こういうことにならないで済んだ方法はほかになかったのかと。
あなたがたはあまりにも未熟でした。
あなたがたのことをすべて忘れたしまったかのじょは、あんなに愛していた子供のことも覚えていません。ただ、犬のことは覚えています。あれだけは、レグルスもおいておいてくれたのです。
なぜなのですかと、彼に聞いても教えてくれません。
くすのきと犬のことだけは、かのじょはまだ覚えているのです。