ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

後ろ影

2016-12-21 04:19:34 | 短歌







忘れわぶ つれなき月の 後ろ影 細く結びし ながき黒髪







*これはまた、違うものが詠んだ歌です。ややこしいですか。気にしないで流してください。なんとなく、ほかとは違うことをわかってくれればいい。

「つれなき月」などというところは、「つ」と「き」の音が重なっていて、ここちよく、覚えやすい。なれてくると、こんな言葉が自然に出てくるようになります。

つれないあの人の、後ろ姿が忘れられなくてつらい。あの人が長い黒髪を、ひとつに結んでいたことも、忘れられない。

あなたがたはいつも、かのじょの後ろばかり見ていましたね。

近寄ろうとしても近寄れなかった。ほんのすぐそこにいるのに、見えない壁があるかのように、動けなくなる。その憂さを、ほかのところで発散した。女の悪口を言うだけならいいが、少々ひどいことをしすぎた。

これから何度でも言われるでしょう。馬鹿なのかと。

あの人はいつも、野原や山や海辺にいました。花や木や虫や、星を見るのが好きだった。空を飛んでいく鳥を見るのも好きだった。あなたがたがよくいく、居酒屋やカラオケバーなどには、PTAなどでの付き合いでも発生しない限り、行きませんでした。行ってもすぐ帰ってしまった。そんなところにいるのがつらかったからです。

同じ地球にいて、同じ空気を吸っていても、心が住む世界が違うと、どうしても近寄れなくなるものなのです。あなたがたは空や海や森や花を見て、かのじょが自分の魂に何を食べさせていたのかを、理解することはまだとてもできない。酒を飲む方が楽だと言って酒場に行くが、そんなところには天使はいない。

わたしたちの魂が食べているものは、神の愛です。真実の光です。わたしたちにはそれが見える。この苦しい地上で生きていくためには、それを常に魂に食べていなければ、生きてはいけないのです。

酒場などというものは、人間が、自分がついている嘘を薄めるために行くところです。そこでは嘘がネズミのように生きている。わたしたちは、そんなところにいるのは苦しい。まだ、シリウスのような強い男ならいいが、女性のかのじょにはとてもつらすぎるのです。

このことは、教訓にしておきなさい。天女のような美しい女性は、酒場のようなところに引きずり込むよりも、花園を作ってやらねばならないのだと。きれいな家やきれいな庭やきれいな国を作ってやらねばならないのだと。

そうすればあなたがたは、いつまでも、美しい人の後ろ姿ばかり見ていなくてすむでしょう。







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食ふたびに

2016-12-20 04:19:45 | 







食ふたびに ありがたきもの 甘藷かな     夢詩香






*ここらへんには、サツマイモ畑がたくさんあります。全国でもかなり有名なブランドらしい。ですから、スーパーなどにもたくさんサツマイモが並んでいます。

甘藷はおいしいですね。ふかすのも焼くのもてんぷらに揚げるのもおいしい。あたたかくて甘くてホクホクした芋を食べると、幸せを感じます。

そのように、神が自然に与えてくれるものを、自然に感謝する心を表現することは、大事です。

この句を基本形にして、いろいろとパロディを作ってみてください。自分がありがたいと思っている物を、詠み込んでみるのです。名詞や動詞や形容詞の部分を入れ替えてみると、けっこうおもしろいものができますよ。

「乗るたびにありがたきもの車かな」とか、「見るたびにうれしきものは桜かな」とかね。つまらないと思わずに、やってみてください。こんな遊びをしているうちに、情感が太って来て、色んなことができるようになってきます。

わたしの弟子の一人は、「拭くたびにありがたきものトイペかな」なんてのを詠んで、周りのものにたたかれていましたが。そういうのもいいでしょう。

いろいろな人の句を詠んで思うことですが、なかなかうまく句が詠めないのは、最初から難しいことをやろうとしすぎるからだと思いますよ。まずはこういう基本形から、いろいろ遊んでみて、自分の土台を作ることから始めるほうが、上達の道を作ります。

作業をすることで、自分の情感を育てるのです。感じることが高くなれば、自然によい句が詠めるようになります。そして基礎を十分に作っておいて、そこから枝葉を広げていく。それが創造の基本というものです。

ごく簡単なところから始め、だんだんと高度になってくる。そしてどんどん成長してきて、やがてとても難しいこともできるようになってくる。

最初から完成しようとして、あまり難しいものを作ろうとすると、自分の小ささが際立って見えて、自信を無くしてしまい、やる気をなくして、結局はやめてしまって、何もならないということがよくあります。

まずはこんなところから、遊んでみてください。おもしろいことを、いろいろと自由に考えてみましょう。







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琴の緒

2016-12-19 04:19:41 | 短歌







白珠の 貝も閉ぢつつ 夢歌ふ 君に琴の緒 触るもたまらず






*これは、かのじょが、月の世の物語の中で、作中人物の歌として歌った歌です。ある男が、ある天女に恋をしているのだが、声をかけることさえもできない自分の、情けなさを悲しんでいるという歌です。

白珠のような恋人を、思う心を、あの硬く閉じている貝でさえ、夢にささやくことがあるというのに、このわたしときたら、あなたに捧げる歌を歌うために、琴糸に触れることさえもできないのだ。

その恋の相手の天女様というのが、またすばらしいお方なのですが、詳しいことは本館の物語の方を読んでください。天神楽の「」という話です。

この男のよいところは、その自分の情けなさを素直に認めていることです。弱い男というものは、女性に声もかけられない自分の弱さを、女性のせいにして、女性を馬鹿にしたりするものだが、そういうことはしない。恋する心を、他のところに向けて、志を大きく持ち、それをやっていくことで、自分を育てようとするのです。

それが、自分には不似合いなほどに美しい人に恋してしまった、男の正しい態度というものでしょう。女性を馬鹿にして、自分のレベルにあわせるために、無理に引きずり落そうとするよりも、自分の方から、彼女の段階に上がっていく。

その過程の中で、人間の男は、恋というものに対する、正しいやり方を学んでいくのです。美しい女性というものが、何をしてくれ、何のために存在してくれているかを、深く学ぶ。そして、恋というものを正しく制御できるようになる。それは子供のころの情熱のような、一時期の軽い病ではない。永遠の時を賭してでも、取り組んでいかねばならない、美しいテーマなのだ。

その恋を通して、男も女も、美しくなり続けていく。

そういう恋の仕方というものを、あなたがたも学んでください。







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弱い自分を

2016-12-18 04:27:10 | その他







悲しみは 弱い自分を 守る嘘     夢詩香






*古語を使って詠むことが多いですが、これなどは、現代の言葉で歌った方がよいような気がします。現代人の心に現れてきた上澄みのようなものだからです。

人間はいつも、なにがしかの嘘をまとって生きている。嘘をまとわなければ、自分の最も痛い弱さがあらわになり、それを認めてしまうと、すべてがだめになってしまうからです。

弱い自分を打ち壊して、本当の強さに目覚めなければ、本当の幸福はないのに、弱い人間はそれが怖くて、なかなか嘘の衣を脱ごうとしない。その心は、予防注射を怖がる子供の心とほとんど変わらないのだが、すべてに背を向けて、頑なに弱い自分を守っている。

それで悲しいことになると、わびさびを気取って、悲哀に酔う心が高尚なのだと言い訳をして、自分がいいやつだということにする。

愚かなことです。わたしは真っ向から、それは間違っていると言います。結局は大変なことになってつらい思いをするのは自分だからです。

その嘘を守るためには、いろいろな間違ったことをせねばならない。それでいろいろなつらいことが生じる。それを何とかするために、また馬鹿なことをやらねばならない。そんな人生は苦しいことばかりだ。

前に赤信号の句などを紹介しましたが、赤信号も大勢で渡れば、車の方が止まってくれて、無事にやり過ごせると思ったら、大間違いですよ。

なぜなら、道を走って来るのは、車だけだとは限らないからです。人間の運命というものは、人間の浅はかな考えだけではつかめない。時には、道交法など吹き飛んでしまうようなものが、道を走って来るときもあるのです。

一般道を、戦艦のようなものが走ってきたらどうします。法則の世界では、あり得ないことではないのです。そんなものがきたら、赤信号を渡っている者は、本当にみんな死んでしまう。

実例を見ている人もたくさんいるでしょう。信号は、正しく守った方がよいのです。

弱い自分を守る嘘は、もうそろそろ、脱いだ方がいいですよ。








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砂の世

2016-12-17 04:36:23 | 短歌







背に腹を 変へてあらがふ 男気を 試し尽くして 砂の世となる






*これは、いつもの作者とは違う人が詠んだ歌です。わたしたちはたくさんいますので、この媒体を利用して、いろいろなものが歌を詠んでいます。

どうです、きついですが、わたしの作とも違うでしょう。この人の歌は、明快ですが、どこかこん棒で殴られるような強さがある。男の矛盾というものを、まっこうからたたくような強さがある。

もちろん、獅子のようなつよい人が詠んだのです。

背に腹を変えることなどできないのに、無理にそれをやって、世間を自分の思い通りにしようとしてきた。それは、悪いことをするもののほうがいいのだということに、してきたということです。そのほうが賢いのだ。なぜならこの世界は馬鹿ばかりだから、それとしのぎを削るためには、悪いこともふんだんにできるやつのほうが、よいのだ。

なぜそうするかって、悪いことをするほうが、楽だからです。勉強などしなくていい。つらい修行などしなくていい。ずるいことをして人をだましてやるほうが、ずっと楽で面白い。人間などみな馬鹿にしてしまえばいい。

確かに、人間も、痛い現実と戦う時には、あえて悪いことをすることも必要になることがあります。ですがそれは、方便の一つにすぎません。そればかりをやっていては、あまりにもひどいことになる。

結局は弱いものに嫌なことを押し付けて、暴利をむさぼる馬鹿ばかりが繁栄し、嫌になるほど汚いことばかりが起こる、苦しい世界ができあがる。法則の反動が押し寄せてくるたびに、心善きものが社会を改めて何とかしてきましたが、安定してくるとまた馬鹿がふざけだして、あらゆる馬鹿をやり始めて、社会を黒く汚していく。

そういうことばかりしてきて、とうとう馬鹿になりきったのが、この時代です。

神に逆らって、背を腹だと言ってごまかして、何もかもをだましてきた男たちの、見事にやせ細った馬脚が現れてきたのです。

ゼウスのように立派な体格をしている男の中に、何も勉強してこなかった、猿のように弱い馬鹿がいるのです。

あれが、恐ろしい強権で世界を席巻してきた悪魔というものの、正体なのだと、とうとう人類が気づいたのです。







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ななつ星

2016-12-16 04:19:17 | 






さかしまに 空にくつろぐ ななつ星     夢詩香






*きついものが続くので、今日は少々くつろぎましょう。

かのじょは生きていたころ、かわいい柴犬を飼っていました。夕方ごろに散歩をさせるのが日課でした。つらいことの多い人生の中で、愛するものとくつろげる貴重な時間でした。

春の時期は、近くの公園のそばを犬と一緒に通ると、突然空が開けて、北斗七星がさかさまになって空にかかっていた。あれを見るたび、あの人は不思議な感動に浸っていました。

まるで神さまのようだと。

神は、山よりも大きくていらっしゃりながら、木の葉一枚よりも軽いのです。だから、その大きなお体で、空で逆立ちすることなど、軽々とおできになる。そのまま居眠りもできるほど、くつろぐことがおできになる。

小さな肉体を持ち、地球の重力に縛られている身から見れば、あまりにも大きく、広やかで、愛に満ちている。

神を見る時の感動は、きっとこれに似ているのだろうと、思いながら、かのじょはあの、さかさまに空にかかったななつ星を見ていた。

かわいらしい人でした。ほんの小さなことにも、目を輝かせて感動してくれる。あの様子が愛らしいので、わたしたちはみんな、あの人を愛しているのです。

危なっかしいほどまっすぐで、女の子にしたほうが安心するのにというくらい、やさしいのだ。男の人だというのに、すぐに自分を曲げて、みなに譲ってくれる。ああ、そうなのですかと、言って。

暖かい涙にも、微笑みにも、その人でなければ表現できない表情がある。それを見たら愛さずにはいられない、心がそこにあるのに。

もうここでやめましょう。明日はまた、すこしきついのを出します。







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永遠の子

2016-12-15 04:36:44 | 短歌







静かにも あをきだふねは 日をこばみ 永遠の子を 産まむと欲す     夢詩香






*今日の歌はわたしの作です。「永遠」は「とこしえ」と読んでください。読めると思いますが、一応。

昨日の歌とは、やはりどこか違うことを感じるでしょう。わたしは情感が深いというより、理論性が強いという感じですね。明快にものを区切り、強く言い放つのが好きだ。

だふねはもちろん、太陽神アポロンの愛を拒んだニンフのことです。昔から、男性の求愛を拒むのは、女性にとっては命がけでした。

簡単にいやだと言ってしまったら、命を狙われる。それどころか、もっとひどい目にあう。求愛を断られるということは、男にとっては男ではないと言われるようなものだからです。だから無理矢理にでも、女が悪いことにして滅ぼさなければ、自分が嫌なものになってしまう。

だから女性は、男を拒む生き方は一切許されてこなかったのです。何もかも、男を中心にして生きてこなければならなかった。女だけで、男とかかわりのない生き方をすることを、男は絶対に許さなかった。そんなことをされれば、女にみんな逃げられるからです。

だが、いつまでもそんなことは通用しない。人間は、馬鹿なことばかりをやってくれば、どういうことになるかということを、深く学ばねばならない。

男の罪の木というものの根元に、延々とくだらない糞を撒き続けて来たら、とうとう大きな赤い実が生り、それが落ちてきた。馬鹿がどういうことになったのかは、ここでは説明しません。もうそろそろ身に染みてくるだろうからです。

女性たちはそろそろ、復讐をするために、動き始めています。それは目に見えないところで、確かに芽を出している。それどころか、気付いてみれば月桂樹の大木のようなものになっているかもしれない。

もういやだと、彼女らは言う。セックスなど、したくないと。生まれてくる子のために、よいことになるセックスでなければ、したくないと。

彼女らは言うのです。セックスを拒否する権利が欲しい。それを、法律で保障してほしい。

もし、男がそれを断れば、とんでもない馬鹿になるのです。








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桂の人

2016-12-14 04:21:29 | 短歌







風さそひ 桂の人は 窓を訪ひ まどろむ人の 夢にすずろく






*わたしたちには、恋愛感情というものは、ほとんどありません。もちろん女性を愛していますが、あなたがた人類の男性たちのように、激しく女性に恋するということは、ありません。

ですが、恋の楽しさや美しさは知っている。だから時に仮託して、恋を歌うこともあります。

桂の人とは、月の世界に住む美男子のことです。月には桂の木が生えているという伝説がありますから、桂というと、月を意味することもあります。

そういう男が、風に誘われて岩戸を訪れ、窓からあの人を覗く。眠っているかのじょが見ている夢を垣間見て、そのかわいらしさに、胸がそわそわしている。話しかけたいのに、それができなくて、しばしぼんやりと見つめている。

そういう図を思い浮かべると、楽しい。

「すずろく」は、心が浮ついて落ち着きがなくなるさまを言う言葉です。恋をすると、男はよくそういう状態になる。理性の鏡が曇って、何かに動かされ、身の奥から高まるものに耐えられなくなってくる。

愛というものは時に、痛いことをする。

恋というのは、不思議な水をたたえた池のようなものだ。濡れることはわかっているのに、いつの間にか浸かっている。それが楽しい。

馬鹿にならずに、愛を楽しんで、よいことにしていけばいい。

勉強して、洗練された振る舞いを身に着け、女性の心の戸をたたきなさい。

そうすれば、美しい心を持ったひとが、おずおずと戸を開けてくれるでしょう。







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鳥の寝言

2016-12-13 04:21:13 | 短歌







あまのかは あをき岸辺を すずろゆき 鳥の寝言を 聞く春の月






*今日は短歌です。この作者の歌は好きです。情景描写がうまい。彼はわたしの友達ですが、わたしと比べれば、少しやさしい人です。あまりきついことは言わないし、こんな気のきいたことをいくらでもしてくれる。

天の川の青い岸辺を、春の月がそぞろ歩きながら、鳥の寝言を聞いている。あの人が今見ている夢のようだ。甘やかでかわいらしい。

鳥は夜はあまり騒がないが、時々寝言のような声を上げることがある。それを、月のように美しい人が、川辺を歩きながら聞いている。

いいですね。

歌を詠むには、想像力と愛が肝要です。愛する人のために、美しいことを言ってあげたい。そのためにはまず美しい材料を集める。花や星や鳥や月がよい。風も玉もよい。水を泳ぐ魚や、きれいな虫や、小さな青蛙もいいだろう。

あの人の好きそうな宝物を集めて、きれいに組んで、情景を織りあげて美しくまとめ、ひとくさりの詩にして、ささげる。

楽しいではないですか。

あの人は今眠っていて、何も言わないけれど、喜んでくれる顔を想像するだけでもうれしい。短歌はそんな、愛を表現することに向いている。

あなたがたもやってごらんなさい。技術は結構かんたんですよ。気取らないで、愛を語ればよい。素直な気持ちで、あの人に何をあげたいかを、考えてごらんなさい。

川辺に咲いていた白い菊を見つけたら、それを摘んであの人のところに持って行ってあげたい。そう思うこともあるでしょう。そうすればこう詠めばよい。





川べりの 白菊を摘み かの人の 岩戸を訪はむ ゆふさるまでに     夢詩香





川べりに咲いていた白い菊を摘んで、あのひとの岩戸を訪ねよう。夕方が来るまでに。

難しく考えなくともよい。自分のできる範囲でやってみましょう。コツがわかってくると、おもしろくなってきますよ。







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兜率天

2016-12-12 04:19:37 | その他







人の世の あくがれのみか 兜率天     夢詩香






*兜率天は仏教用語で、菩薩が住む世界のことを言います。ですがここでは単に、天国という意味で使っています。

人間はこの世を苦界と見、この世のほかにうまし国があって、そこを天国とか常世とか名付けたりしますが、本当は、神は地獄のような世界をお創りになったことはありません。

この世界に、地獄があるように見えるのは、人間がそこで地獄絵図のようなことをしているからです。

わたしたちの住むところと、人間が住む人類世界は違いますが、しかし死後の世界にも、兜率天に当たるようなところはありませんよ。苦い人も、よい人も、同じ世界に住んでいます。住み分けはありますが、みな、行こうと思えば互いを行き来できるところに住んでいます。

この地球世界に、アメリカと北朝鮮が同時に存在しているのと同じです。

よいことをすれば天国に行き、悪いことをすれば地獄に行くと、昔から言いますが、境地という次元では、それを考えることはできますが、場所という意味では、そういう場所はないのです。あるとしても、それは仮のもの。

ですから、アラブの人たちが信じているような、たくさんの処女と結婚できるというような天国も、ありません。

兜率天は、この世の地獄のような境涯に住んでいる人間が、そこから脱したいあまりに作りだした、幻の世界なのです。どんなにがんばっても、たどり着けるはずのないものです。蜃気楼よりもむなしい、人間の心の中にしか存在しない、虚無に描いた餅です。

天国とは、人間の心が変われば、見えるものです。すばらしい自分の存在の正体に気付き、愛の真実の幸福に気付いた時、すでにこの世界が天国であったことに気付く。それを天国と言います。兜率天と言いたい人は言ってもいいでしょう。

ですから、人間の心が変われば、この地球世界も天国なのです。あまりにも厳しい世界だが、そこを生き抜いていける自分の力のすばらしさを知るとき、あなたがたは不思議な情熱に燃えて、すべてに挑戦していくことでしょう。








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