ゆふづつの ひかるといきの かたる音の 胸に落つるは はたとせを待て
*これは、かのじょがフェイスブックのノートに書き記してあった歌です。2012年の作です。
ゆふづつとは、宵の明星のこと。すなわちヴィーナスに比喩した自分のことです。美の女神を自分の譬えに用いることなど、不遜に聞こえるかもしれませんが、かのじょはボッティチェリが描いたヴィーナスの顔が、なんとなく自分の顔に似ていたので、それを採用したにすぎません。
あの宵の明星の光る吐息のように、わたしが語る言葉が、あなたがたにわかるのは、20年後のことだろう。
あの人はたくさんの言葉を残してくれましたが、書けば書くほど人に誤解されるだろうことはわかっていました。人間というものは、美女のいうことは無理にでも曲解するものだからです。絶対に、まっすぐには伝わらない。
だからどんなに誠を尽くしても、自分の真意が人に理解してもらえるのは、死後のことだろう。それもだいぶ経ってのことだろうと、あの人はこのとき、思っていたのです。
理解されたらいいが、もしかしたらそれも難しいかもしれないと考えていた。それほど、人間というものは、美しい女性というものに対して、歪んだ気持ちを持つものなのです。
愛してしまうからいやだ。馬鹿にして、嫌なものにして、糞にしてしまいたい。
だが、果たして美女が糞になってしまうと、ひどく残念がるのだ。しかし、糞にならなければ、もっと憎む。
この激しい矛盾が吹きすさぶ世界の中を、自分の誠を通してまっすぐに生きるのは、本当に苦しかったのです。誰も味方はいなかった。夫でさえ、自分を守ってはくれなかった。一人で戦わねばならなかった。
かのじょは今眠っているが、その顔はとても安らかです。もう苦しんではいない。忘れてしまったからでしょう。苦しいことも、何もかも。
あなたがたに今、かのじょの言葉が理解できているかどうかを、わたしは今は判断しません。だが、20年経って、あの人の真心があなたがたに理解できたとしても、もうあの人は、何も覚えていないのだ。こんな歌を詠んだことさえも。
果たして、悲しいのはどちらなのか。
愛というものは、時にとても難しいパズルのようだ。食い違う。だがなぜそうなるかと言えば、結局は、愛するものを憎んでしまう心が、間違っているからです。