たましひは どこにゆきしか 死せる蝉 夢詩香
*歌ばかりでは何なので、たまには俳句にいきましょう。これもこのブログを始めた時に、わたしがたくさん詠んだ句の中の一つです。
今これを書いているのは9月2日ですから、まだ夏のうちだ。道を歩いているとクマゼミやアブラゼミの死骸に時々出会います。ですがこれを発表するのは9月の下旬ですね。それまでにうまく蝉の亡骸の写真が撮れるといいのだが。
なければ何かで代用しましょう。
この活動は、みんなで一つの媒体を利用しているので、みんな事前にたくさん原稿を書いて蓄えているのですよ。それで、順次発表しているのです。今はケバルライが長編小説を書き終わったところです。推敲も終わっています。あと何らかの事務的なことが片付いたら、また誰かがこの媒体を使って、新たに何らかの活動を始めるでしょう。
それはそれとして。表題の句にいきましょうか。
夏の盛りには、うるさすぎて静寂にも聞こえるほど騒いでいた蝉も、短い命が終われば、紙のように軽い死骸となって落ちています。そんな死骸を見ると、時々感慨を覚えますね。すばらしい形だからです。
こんな造形を、人間が真似してみようと思えばきっと一つ作るのに大変な苦労をすることでしょう。だがそんなきれいですばらしいものが、惜しげもなくあちこちに落ちているのだ。
機能的でバランスのいい顔も、薄い妖精のような翅もすばらしい。人間はこんなものを見て、いろいろな想像をかきたてられます。
この生き物は、ほんの少し前まで、うるさいほどの声で鳴いていたのだ。一体それをやっていたのはだれだろう。今は動かないこの死骸の中にいたものは、どこにいったのだろう。
そんな感慨を、去りゆく夏を惜しむような気持で詠んでみたものです。去っていたものはどこに行ったのか。消えていったものはどこに行ったのか。
遠い昔から人間は疑問を持ってきた。目に見える形がとつぜん動かなくなり死んでしまう。それはなぜなのか。骸は形は変わらないが、何かが完全に欠けたような感じがする。
それを、魂と名付けたのです。形ではない、本当の自分という感じで。
永遠に答えのない問だと思っていたが、もうそろそろその答えは分かって来る。人間も、もうそれがわかってもいい段階に入ったからです。
勉強していきましょう。教えてくれる存在の声が、人間にも聞こえるようになった。蝉の魂はどこに行ったのか。
問えば誰かが答えてくれるでしょう。