つかまへし とかげのはらの やはらかさ 夢詩香
*たまには俳句をやりましょう。これもずいぶん前の作品ですが。俳句を詠み始めてからすぐの作品ですから、最近の作と比べると、なんだかすんなりとして単純な感じがしますね。
わたしも、詠みなれてくると、少し上達するようです。
とかげやかなへびという生き物は、蛇ほどに怖くなく、小さいので、かのじょも好きでした。道を歩いている時、とかげやかなへびがどこから出てきたりすると、目を輝かせて追いかけていたものでした。
まるで子供のようにかわいらしい。あの人は元からこういう傾向がありましたが、この人生ではかわいらしい女性になってしまったので、これに拍車がかかりました。美しい女性というものはいろいろなことに耐えねばならないものだが、男としての自分に無理をかけてでも耐え忍んでいるうちに、何か、どこかが変に壊れてしまったらしい。
ずいぶんと女性っぽくなってしまった。
霊魂の進化というものは、不思議なものです。進化というより、変容と言ったほうがいいのかもしれない。人間の女性として、今のこの時代を耐えるということは、おそらくこの人には激しく自分を超えることだったのだ。
とかげなど小さな生き物を見ると、人はどうしても捕まえてみたくなるものですね。実際あの人も何度か捕まえたことがあった。だがそのたびに、すぐに放してやっていた。手で触れて、その柔らかさを教えてもらったら、もうそれだけでいい。神の庭に帰って、自由に生きるといい。そう言って逃げていくとかげを見ながら目を細めて笑っている顔は、愛らしかった。
愛など糞だという人ばかりがいる世界で、物欲しげな人間の、金物のような視線に傷つきながら、あの人はどんどん自分を変えていったのだ。女性というものはそういうものかもしれない。相手が阿呆でも何でも、自分の方を変えてやろうとする。
馬鹿な人間は、とかげのはらの柔らかさなどに触れると、生き物の弱点を見つけたような気がして、つぶしてやりたいという暗い衝動を覚えるときもあるものだが。そうやって自分の強さを実行して、ありもしない幻の権力に酔おうとするときもあるものだが。
いずれそれはとても汚いものになる。
人の弱さばかりを探して、馬鹿にして、嫌なものにして、食うてしまおうとするから何もかもを失うのだということに気付いた時には、もう何もない。
あの人が逃がしたとかげはたぶん、今もその子孫が生きているだろう。神の庭で、愛の光を浴びながら生きているだろう。そしてまた、誰かに会いにきてくれるだろう。誰もに、その命のやわらかさを教えてくれるだろう。
とかげをつかまえて、そのやわらかさを知ったら、すぐに放してやりなさい。