落ちぬれば かをりをさめよ あだよ花 あるじなければ 春を語るな
*本歌取りに挑戦してみました。要するに、有名な歌を意識的に取り入れて作歌する技法です。元歌はわかるでしょう。菅原道真のこの歌です。
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな 道真
道真が左遷されて流罪となり、九州の大宰府に落とされることが決まったとき、自宅の庭に咲いている梅を見ながら詠った歌だと言われます。後にこの梅が、都の自宅から、筑紫の道真の元に飛んで行ったという「飛び梅」の伝説が起こりましたが、この伝説は真実ではないと言い切れません。かのじょを追っていた水仙の花のように、その梅も、道真を慕って追っていったかもしれない。当人に聞いても、あまりこういうことは教えてくれませんが、心が明るんできそうなエピソードだ。
それはともかくとして、表題の歌はこういうところです。
落ちてしまったのなら、香りをたてることをやめなさい、あだし世の花よ、自分というものがないものは、自分に目覚めた人間の春の時代を語るのではない。
「あだよ花」とは、「あだし世」つまり無常の世界に咲く花という意味です。「あだ花」というとはかなく散るという意で桜のことを意味することがあるが、もちろんそれではありません。嘘ばかりが咲き乱れる無明の世界に咲く嘘の花という意味だ。
「あだ(徒)」とははかないとかいい加減とかむなしいとかいう意味の言葉です。「あだ名」の「あだ」もこれだ。だからこの言葉を接頭語のようにすればまた面白い言葉ができる。「あだ言葉」とすれば言っても無駄な言葉という意味にできる。「あだ顔」と言えば、顔を出しても無駄だという意味にできる。活用してみてください。辞書になくても、読めばなんとなく意味がわかる言葉を作ることができれば、歌に活用できます。
「東風(こち)」を「落ち」にしゃれたのには、菅原道真が大宰府に落とされたことを、もちろん意識しています。あの時は馬鹿が彼を馬鹿にして、あんな田舎に落としてしまったが、今度は馬鹿が、大宰府よりも遠いところに落とされる。それは、昨日まで住んでいた家と10メートルも離れていないかもしれないが、人間世界から最も遠いところなのだ。
本歌取りというものは、元歌の作者をたたえるものでなくてはなりません。あなたの歌を使って、こんなことができましたという意を添えて、美しく上手に歌いあげ、元歌にささげねばなりません。絶対に、元歌より自分の歌を上げてはならない。それでないと、こういう本歌取りは実に痛いものになる。
何千年とときは離れているが、なかなかに絶妙なやりとりだ。もちろん表題の歌は、道真の作ではありませんよ。