菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

なぜに今、お前は映画を撮れない? 『アリラン』(2011)

2021年03月31日 00時00分52秒 | 俺は好きなんだよ!

【俺は好きなんだよ】第1370回は、『アリラン』(2011)

 

原題は、『아리랑』。
英語題は、『ARIRANG』。
『アリラン』。

アリランは、《(朝鮮語)。 伝説上の峠の名という》朝鮮民謡の一つ。 

『アリラン』(朝鮮語:아리랑、中国語:阿里郎)は、朝鮮民謡。キキョウを掘る娘を歌った『トラジ』とともに朝鮮半島内外で最も有名なものの一つ。明るいメロディーのトラジと哀調を帯びたアリランは朝鮮民謡の代表作と言える。失恋を歌ったものが多い。

韓国の文化体育観光部は、アリランを「韓国の100のシンボル」に選定している。

 

製作国:韓国
上映時間:91分
観覧基準:15歳以上 観覧可  


配給:クレストインターナショナル
 

 

スタッフ。

監督・脚本:キム・ギドク
製作:キム・ギドク

撮影:キム・ギドク
美術:キム・ギドク
音響:キム・ギドク

 


出演。

キム・ギドク

 

 

内容。

寒い真冬、孤独な小屋にこんがらかった頭のキム・ギドクが一人で淋しく暮らしている。
トイレもない小屋に雪でご飯を炊いて,誰も訪ねてこない所で誰かを待っている。
ある日、誰かを待つキム・ギドクにもう一人のキム・ギドクが訪ねて来る。
キム・ギドクは、もう一人のキム・ギドクの質問を受けながら、自分の状況と映画に対して真剣に話をする。
また別の日には自分の影のキム・ギドクが現れ、小屋に住むキム・ギドクに質問をする。影に自分の自然に関する考えについての話をする。
そのような姿を映画外でまた別のキム・ギドクが見ている。
キム・ギドクはキム・ギドクと話す。そのような自分を見て笑うまた別のキム・ギドク、そんな姿と話をするまたまた別のキム・ギドク、またはカメラを見て話をするまたまたまたまた別のキム・ギドクと話をする。

 

世界三大映画祭を制覇した鬼才キム・ギドクが放つ究極の「自問自答(セルフ)」ドキュメンタリー。

『春夏秋冬そして春』、『サマリア』などで知られ、世界の映画祭で評価されていた韓国の奇才監督、キム・ギドク。
当時、彼は2008年の『悲夢』を最後に、突如表舞台から姿を消してしまう。
それにはある事情があった。
彼の中で映画をつくり続けることへの疑問が芽生え、人里離れた寒村の山小屋に引きこもり、文字通り、自問自答を繰り返す日々を送っていたのだった。
本作は、そんな3年におよぶ衝撃的な隠遁生活の一部始終を、大胆不敵な演出を織り交ぜ赤裸々に記録した異色のセルフ・ドキュメンタリーでありつつフィクション。

この後、 2012年の『嘆きのピエタ』で復活する。

 

ラトビアも客死したのは、トラブルを抱えたことで韓国を離れていたためでもある。

 

 

 

受賞歴。

2011年の第12回 東京フィルメックスにて、観客賞を受賞。
2011年の第64回 カンヌ映画祭の注目する視線部門にて、最優秀作品賞を受賞。
2011年の第11回 ニューホライズン国際映画祭の芸術映画競争部門にて、最高作品賞を受賞。
2011年の第20回 オーストラリアのブリスベン国際映画祭にて、ドキュメンタリー部門賞を受賞。
2011年のアリラン賞にて、作品賞を受賞。

 

 

 

追悼キム・ギドク。

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

撮影された自分、それを見ている自分、それを撮影する。

 

好みの台詞。

「幸せになれないから、自分を撮っている」

「愛していても飽きる。人生はそんなものだ。近づけば離れ、離れれば近づいてくる」

「お前は映画のようには生きてない」

「お前の映画の主人公がお前の生き様を見たなら、残念がるだろう」

「いくら、俺自身に言われても、これだという明確な答えは見つからない。俺は俺に対して何も答えられない。答えようがない」

「映画はそんなに偉大か?」

「映画づくりを根本から見直す必要があるということだ」

「仕事には客観的な成果を求めるものだろう」

「先にそんな成果を得たいと思う」

「そんな強迫観念で押しつぶされそうになる」

「俺は誰からも尊重されないと思っていた」

「世界的な監督になった」

「俺は弁解できない」

「ある瞬間、再び、稲妻のように頭を打つのが記憶だ。自尊心を傷つける侮辱は特にたちが悪い。ふとやって来て、俺を苦しめる」

「人間とはなんと酷いと思わせるニュースもあれば、神秘を感じさせるニュースもある、そんなところから生きる力が生まれるのかもな」

「人がいようといまいと、俺は寂しかった」

「無口な分、人を見るのが多かった」

 

 

 

『これは映画ではない』(2011)とほぼ同時期というシンクロニシティ。
今作は個人的事情で、『これは映画ではない』は政治的事情で、という大きな違いはあるが。
両作共に同じ回のカンヌ映画祭でかかっている。

 

これだけ自分のミスを問うた後で、なおも同じように映画を撮っていたと言われている。
ここでは事故による死への恐怖だった。
だが、精神へ御攻撃は映画にためなら、それぐらいという基準は譲れなかったのではないか。

物理と心理の差があったのか。

 

 

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