菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

切実夢。   『インセプション』 (追記あり)

2010年08月01日 00時00分35秒 | 映画(公開映画)

 
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第156回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『インセプション』






『ストーカー』、『2001年 宇宙の旅』に匹敵するSF映画の金字塔の誕生。

映画の持ちうる時間軸に新たな話法をもたらした。

いくつもの速度の時間が同時に流れていく多層時間軸の感覚は、映画では当然の技法なのだが、それをここまで意識的に利用した例はないからだ。
(ウォン・カーウァイが同画面上で使用した『恋する惑星』などの例もあるが)

これは、スローモションを技法以上にエモーションな題材にまで高めたサム・ペキンパーと同様の発明ともいっていい。

またタイプは違うが、彼自身が、『メメント』ですでに成し遂げたことでもある。
それをもう一度行うことができるとは!


何より、きちんと娯楽映画であるという覚悟がみなぎっている。
それが上記の二つと違う点でもある。
その点では『ブレードランナー』と近いのかもしれない。
そこには、イギリス人という共通点があるのかも。
スタンリー・キューブリックはアメリカ人だけど、イギリスを拠点にして撮影し続けた。

娯楽である点は、その肉体を駆使したアクションにある。
カーアクションに、無重力状態でのバトル、銃撃戦と盛りだくさんで、似たようなイメージは見たことがあるというのが肝だ。

そう、その理由は、この映画が、映画というメディアそのもの(起きて見る夢)を描いているからだと読み取るからだ。
そう、これは、映画についての映画でもある。

それには、スターと彼ら自身が喚起させるイメージさえも取り込む必要があった。
構造が似ている『マトリックス』や『夢の涯てまでも』、『ストレンジ・デイズ』、『奇蹟の輝き』との大きな違いは、現実に存在するイメージの大胆な内包だ。
レオナルド・ディカプリオ、マリオン・コティヤール、渡辺謙、エレン・ペイジだけでなく、各国の印象、スタンリー・キューブリック、映画と自然描写、映画文法までも取り込んでいるのだ。

スターのイメージの利用や、時間軸の操作と映画という題材、言葉への信頼、オマージュと、クリストファー・ノーランとクエンティン・タランティーノは、非常に似ている。
二人ともに、現代的に映画の可能性を広げようとしている内部爆発の作家であることを示している。
それは視覚の奥にある脳と直接つながろうとする試み。
3Dが生の視覚へ戻ろうとするならば、思い出を思い返すような映画。


映画のための映画と書いたが、実は映画のもつ根源に触れようとしているのかもしれない。
そう映画は記憶の再現に酷似した構造を持つからだ。
記憶について描くことは実は映画についての映画になりえるのかもしれない。

そう、この映画は、映画が記憶の再現という人間の機能的な一面を拡大した媒体であると思い出させてくれる。
眠らなければ人は死ぬ。
その眠る間に人は必ず夢を見る。
夢は白黒も2次元も抽象化も全感覚が刺激される超現実もありえる。
整合性が取れていて、不条理であるという背反する状況を持てるのもまた夢の特徴だ。
日々行いながら意識できない世界を、意識下で見ようとすることが、映画が求めたことだったのだろう。


なんていうか、まだあまり詳しく書きたくないのよ。
だって、観て感じてほしいだもの。
書きたいことは、たくさんあるんだけど。


巨大スクリーン、抜群の音響で、大勢をと見て欲しい映画。
映画体験とはこういうものだと言わせてもらおう。
一回目にはい回目の、二回目には二回目のそれぞれ違った体験が待っているだろうと感じる。
DVDで見る時はまた違う体験が待っているだろう。
その時がまた楽しみだ。
なので、近い内に二回目を見に行く予定です。

























おまけ。

『インセプイション』をまだ見てない方は今すぐ読むのをやめてね。



『インセプション』は整合性がとれていると、複雑な映画だというが、実際、整合性は取れてないところは、いくつかある。

あえて、以下の文章も少々散文的に書いてみるとする。


それは、けっこう台詞での説明が多く、その実態がつかめないのだ。
(虚無の説明や、モルの登場に理由、サイトーの城にコブとアーサーが入っていたということは、あれは作られた夢であり、虚無の世界とされる老いたサイトーがいる城が同じということは、あれも実は仕組まれている)

台詞の中で描かれることよりも実は行動に答えがいくつも隠されている。
なのに、台詞に惑わされるのは、正直者か、映画を見慣れてないか、もしくは、多層構造に惑わされて、現実感を失っているからだ。

実は、この現実感を失わせるというのが、この映画が狙っているところだと気づいてないで、その入り口で自分が見えた表面のみで、拒否をしている人が多くいるようだ。

夢の自由さを映像的な空想ではなく物語構造に潜ませたと気づけずに、思考を止めている方も多いようだ。
この映画には、多くのイメージや隠喩が隠されている。
物語にはあえて、隙間を多くしているが、それが好き名だと気づかぬように、配置することで、人によって、印象が変わるようにしている。

整合性が取れていない要でいて、とれているという不思議さな状態は狙いである。
それこそが、この映画の狙い、植え付けなのだ。
植え付けられた物語を見てしまう。

あえて、言いたい。
この隙間の配置こそが、この映画の完璧だと言わせるのだと。


ヒントはいくつもある。

列車は、夢での抜き取りへの耐性として現れる。
コブとモルが4層目の夢から戻るために、自殺するのは、列車なのはなぜか?
しかも、4層目で50年以上暮らしていたのなら、姿は老人になっているはず。
コブとモルの二人が老人になっている描写もあるし、サイトーも老人になっている。
だが、自殺する二人は若い。
ということは、あれは、4層目ではなく、3層目もしくは2層目ではないのか?
モルが自殺するシーンは、ホテルからの飛び降り。
調合師の夢、2層目の夢がホテルなのは、なぜか?
最初のミッションでも、2層目はホテルだ。


2層目で、コブとモルは列車で自殺。
3層目で、モルだけが死んだとしたら、どうだろうか?
4層目は、虚無だ。
果たして、虚無とはどういう状態なのか?
戻ってこれないとはどういうことか?
二人は抜けださずに、暮らし続けている。
虚無から抜け出せないといったのは誰だったか?


アリアドネが勝手に入り込むコブの夢では、一層目の夢の世界は、記憶を再現した世界だ。
なぜ記憶の再現は危険なのか・
現実と区別がつかなくなるからだ。
現実と区別がつかなくなっても、トーテムがあれば、夢だとわかるのに?
トーテムでわからないのは、植込みだけだ。
ということは、コブは誰かに植込みをされている可能性がある。


モルの金庫になぜコブの駒がはいっていたのか?
金庫の中に風車が入っていたのと重なっている。
風車は植え付け成功の印だ。
ならば、同じく、駒もコブへの植え付け成功の印ではないのか?
では、誰がコブに植え付けをした?
あの場にいたものは誰か?
そして、彼女を紹介したのは?
なぜ、こんな大事な計画に新人を起用する必要がある?
あんな危険を冒してまで、贋作師を引き入れたのに。


この映画は、たった2時間半しかない。
1層目の夢はせいぜい5分程度しかもたない。
2層目になれば、その10倍で、1時間程度だ。
では、どこからか、この映画は2層目の夢に入っているのではないか。
映画の終わりまで、残り一時間あたりに夢に入るシーンはなかったか?
そこでコブがトーテムを回しそこなうシーンがあるのは、なぜか?


なぜ、夢の中に子供が出てくるのか?
なぜ、わずかなシーンだけのためにマイケル・ケインは起用されたのか?


すべての人物は自分の意識の反映。
モルと子供二人がコブの夢以外でも現れるのはなぜか?
コブの夢だからではないか?


全体がサイトーのアイディアを盗んだのではないか?
相手会社の跡継ぎに植え付けをするというアイディアを。


ノーランから分析する。
『フォロイング』は、尾行し、相手の情報から、物語を作ろうおとする小説家志望の話。
『メメント』は、記憶が長続きしないゆえ、自分で復讐の物語を続ける夫の話。
『インソムニア』は、事故を隠し、無罪の物語を作る刑事の話。
『プレステージ』は、手品師の自分を作り続ける手品師の話。
『バットマン・ビギンズ』は、バットマンを作る話。
『ダークナイト』は、トゥーフェイスの伝説を作る話。
では、『インセプション』は?

しかも、すべての物語は自己破壊する主人公の物語でもある。
ある意味で、自殺し続ける主人公を描いてきた。
『インセプション』でも、最後、自己破壊をしていないのだろうか?


なぜ、映画全体に、音楽カウントダウンの仕掛けが施され続けていうrのか?
エンドクレジットに音楽カウントダウンがかかるのはなぜか?
夢で、パリの街角を作ったのは誰か?
なぜ、アリアドネは、素人なのに起用されたのか?


なぜなぜ坊やになってきたでしょ?

だから、おいらは、もう一度、観に行きたいのだ。
二度目は違う物語が見えてくるはずだから。


 

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追記。

クリストファー・ノーラン作品で、重要な位置に配置されているキャストが今作ではさらっと扱われている。

それは、マイケル・ケイン。

『ダークナイト』三部作では、秘書アルフレッドで、育ての父。

『プレステージ』では、主役二人の師。

『インターステラー』ではヒロインの父で、物理の天才として人類の父的立場でもある。

そして、『インセプション』では、妻モルの父であり、コブの師であり義父、アリアドネの師でもある。

ここから考えるとアリアドネ=モルという構図が浮かび上がってくる。

まだ学生のアリアドネを送り込んだのは誰か?

そう、『インセプション』の物語の起動させたのは、この義父であるマイルス教授なのではないか。

死んでしまった娘に囚われた義理の息子コブ。彼はアメリカに入れず、孫二人に会えない。孫二人を預かる自分は老い先短い。

彼には目的がある、コブを救わなければ、娘も浮かばれない。

そこで、マイルス教授はサイトーにアプローチし、サイトーにライバル会社を潰そうとインセプションさせ、コブを雇わせる(ここまでインセプションさせる。主義を変えるのは大変だが、もともと考えていたことに突き進ませるのはそう難しくないらしいし、アリアドネやほかの仲間と協力したか)ことができたのはマイルス教授なのではないか。

もしくは、サイト―の設定自体の曖昧さから、そもそもサイトーそのものが作り込まれた夢の中の設定なのかもしれない。

そして、アリアドネを仕込んでおく。

モルの呪縛からコブを解放するために。

そもそも、教授自体が夢の研究をしており、コブの師でもある。

コブ夫妻は、マイルス教授が生み出したと言える。

その責任を取る準備をしてきたマイルス教授がしかけた解決策こそがこの映画の屋台骨なのではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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