昨日、新しい朗読のワークショップのテストを行いました。
予想通りと予想外が半分半分くらいで、ちょうど良い一回目という感じ。
やはり頭の中だけでは見えないものがいっぱいある。、生の役者とやると違うよね。
受けた方の反応は大分よき。
朗読劇をどう面白くするかへの提言になっていますし、ナレーションや台本をどう読むか、一つのパフォーマンスとして、俳優をミュージシャン的な表現者にするスタイルの提案にもなっています。
来週もう一回テストして,来年の本番までに磨くぞ。
で、来年、旧作を朗読劇に改訂したもので、朗読劇をやることになりそう。
漫才コントに近いものと車内での会話劇のコメディです。
動いてみるもんだな。
まさかの年末滑り込みでのワークショップの依頼で、いろいろスケジュールを再調整。
ちょうどここのところやっていた基礎についての内容をさらに深めたものを再調整していたので、それがちょうどよさそう内容。
ここに二か月で、10回ほどワークショップやって、レッスンは別に18回ほどやってるので、ぼちぼち実戦に活かしたいところ。
先月のワークショップでかなり好評だったものをさらにシンプルにして、根本的な部分へと切り込んだものです。
芝居で高評価を得た洋画(日本以外のアジア映画含む)のオリジナル音声と日本語吹替をシーンごとに切り替えて聞いてみると、今の日本の演技が世界とは違う種類の芝居(吹替なのに)を主流にしていることがわかる。
それは声優がメインでやっているから出ている違いだけではない。
俳優が出ているドラマでも演技の表現の方向性はそれと近い。
それが求められているから、それをやっていることがわかる。
近々で観た最近の邦画(長編)
『偶然と想像』
『浅草キッド』
『サイダーのように言葉が湧き上がる』
『ひらいて』
『燃えよ剣』
『スパゲティコード・ラブ』
『聖地X』
『フタリノセカイ』
『she Q』
『ミュジコフィリア』
『宮田バスターズ(株)‐大長編‐』
『たまつきの夢』(完全版)
『自宅警備員と家事妖精』
『吾輩は猫である!』
芸を表にし物語に生きている人間にする演技と芸を裏にし生活に生きている人間にする演技がある。
一人の人は,5つの姿を持つ。
社会に見せている姿。
親しい相手に見せる姿。
剥き出しの自分を見せていい相手に見せる姿。
自分だけが見ている姿。
自分さえ見ていない姿。
これを演じ分ける。
そして、演じ手の意図した姿と見える姿のズレがよく起こる。