菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

餌に食いつくな。 『哭声/コクソン』

2017年03月31日 00時02分07秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1058回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『哭声/コクソン』

 

 

 

 

『チェイサー』、『哀しき獣』のナ・ホンジン監督(と脚本)が、静かで平和な村を舞台に贈る戦慄のサスペンス・スリラー。

 

謎の日本人中年男性の出現と相前後して原因不明の不気味な殺人事件が立て続けに発生する中、捜査を担当する地元の平凡な警察官を待ち受けるおぞましくも不条理な運命を、予測不能の展開で衝撃的に描き出す。

主演は、『弁護人』、『アシュラ』のクァク・ドウォン、共演に『国際市場で逢いましょう』、『ベテラン』、『アシュラ』のファン・ジョンミン。

國村隼が謎に包まれたよそ者の日本人を怪演し、韓国を代表する映画賞のひとつ“青龍映画賞”でみごと助演男優賞とスター賞に輝き、同映画史上初めての外国人受賞者となる快挙を果たした。

 

 

 

 

物語。

現代、韓国ののどかな田舎の村。

いつの頃からか、山の中の一軒家に一人の日本人が住み着き、村人たちの間にこのよそ者に対する不気味な噂が広まり始めていた。

そんな中、村人が自分の家族を惨殺する謎の猟奇事件が連続して発生する。

いずれの事件でも、犯人の村人は体中を奇妙な湿疹に覆われ、正気を失った状態で現場に残っていた。

気のいい村の警察官ジョングは、噂と目撃証言から、よそ者の日本人が関係していると睨んで捜査を進めるが、ある日、自分の幼い娘ヒョジンにも犯人と同じ湿疹を発見する。

母は悪霊の仕業であると言い出し、祈祷師のイルグァンを村に呼び寄せる。

 

 

 

 

出演。

クァク・ドウォンが、警察官ジョング。

ファン・ジョンミンが、祈祷師イルグァン。


國村隼が、山の中の男。

チョン・ウヒが、目撃者ムミョン。
キム・ファニが、ヒョジン。

 

ほかに、チャン・ソヨン、など。

 

 

 

スタッフ。

撮影は、ホン・ギョンピョ。

ポン・ジュノ作品などでも知られる名撮影監督です。

 

プロダクション・デザインは、イ・フギョン。

 

編集は、キム・ソンミン。

編集は、前に作でも組んでおり、祈祷シーンは『ダークナイト』のヒロイン救助シーンを彷彿とさせます。

 

 

音楽は、チャン・ヨンギュ、タルパラン。

 

 

 

 

 

 


韓国の村で家族同士の惨殺事件が相次ぎ、気のいい警官が引っ越してきた日本人を怪しんで捜査するホラー・サスペンス。
剛腕キャスト、クァク・ドウォンの重みvs國村隼の空洞vsファン・ジョンミンの軽みの三つ巴の演技決戦に、少女キム・ファニとチョン・ウヒが投石攻撃。
中盤はどこに到着先が読めない狂気の展開、ラスト30分はもはや新しいジャンル。名づけるなら"サスピション(疑惑)"。裏を疑い、表を信じろ。
ずぶりと刺してくる根源的、物理的、生理的、宗教的で、身近な恐怖。
映画に縛られるという観るサバイバルに歯を食いしばる悩作。

 

 

 

 

 

 

おまけ。

原題は、『곡성(哭聲)』。

ほかにも、コクソンとは『谷城』という実際の地名で、劇中の舞台でもある。

英語題は、『THE WAILING』。

『嘆き』ですね。

 

 

 

 

上映時間は、156分。
製作国は、韓国。
映倫は、G。

 

 

 


キャッチコピーは、「疑え。惑わされるな。」

まさに、それが後半30分を貫きます。

もはや、サスペンス(緊張)とは違うサスピション(疑惑)というジャンルを生み出したかもしれない。

オルタナティブ・ファクトやら嘘ニュース、似非科学に溢れた現代ですしね。

正しい情報を得やすいようで、逆に情報に溢れているがゆえ、どれが正しいかわかりにくい。

逆にいえば、信じすぎることの恐ろしさともいえる。

『沈黙ーサイレンスー』もキリスト教を信じることについての疑いのドラマだった。

邦題も『哭声/コクソン』でなんとなく似ている。

でも、『沈黙‐サイレンス‐』は読みが「ちんもく」なのか、「サイレンス」なのか、『ちんもくサイレンス』で悩めるけど、『哭声/コクソン』は読みが「きせい」なのか「なきごえ」なのか、「コクソン」なのか、「きせいコクソン」なのか「なきごえコクソン」なのか。

たぶん、「サイレンス」と「コクソン」だろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

國村隼の苗字の音読みで、コクソンてのは、さすがに偶然だろうか。

韓国読みだと、國村は「gugchon(グクチョン)」になる。

哭声は「gog shēng(コクセン)」、谷城は「gogseong(コクソン)」となるので、響きが似ているので、偶然とは言えない気もするのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

よそ者、白女、祈祷師の三者をどう見るかが、カギになる。

キリスト教とユダヤ教(旧約と新訳聖書)の言葉が最初に出てくるし、神父も出てくるのだから、キリスト教の隠喩を見るべきだろう。

 

出てくる順番でいくとまず、よそ者。

黒い犬を操り、被害者たちの写真を持っいて、悪魔の容貌を持った状態でも現れる。

しかし、直接、悪意をもって、人を殺したり、行動したシーンはない。

そして、死んだはずが復活するというシーンがある。

これはキリストの復活になぞらえられている。

悪魔の姿で見られたのも実際は、夢の中のシーンである可能性が高い。

そして、映画冒頭に引用される 「ルカによる福音書」の「どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはある」はキリストの言葉で、最後によそ者が神父の甥に言う言葉も同じ。

二つのエピソードから見ても、よそ者はキリストということになる。

 

 

次に祈祷師。

祈祷師は、キリスト教的エピソードでは、旧約聖書の十の災いを受ける。それは、水を血に変える、蛙を放つ、ぶよを放つ、虻を放つ、疫病を流行らせる、腫れ物を生じさせる、雹を降らせる、蝗を放つ、暗闇が覆う、長子を皆殺しする。全部とは言えないものもあるが、ほとんどを受けている。

十の災いは、イスラエル人を救うために神がエジプトに起こしたもの。

つまり、祈祷師はエジプト人ということになる。

加えて、褌を履き、白い服を着る。

祈祷師も最後は写真を持っていたことがわかるが、あれは仲間というよりは祈祷のために回収したものではないだろうか。

 

最後に白い女。

石を投げるのだから、マグダラのマリアのエピソードの「一度も罪を犯したことがない者だけが石を投げよ」というのが当てはまる。

弟子のペテロがキリストに言われた言葉を告げる。「お前は、鶏が鳴く前に、三度、わたしのことを知らないと言う」

この二つのエピソードを持つということは、白い女は善の側に属するものだろう。

白い女はキリスト側の人ということになる。

 

この3人はみな、白い服を着る。

 

 

そして、この白い女のエピソードから、警官はジョングは弟子のペテロとなる。

ペテロはその場の状況に素直な人でキリストの教えを受けていながら、キリストを逮捕しようとする人に剣で立ち向かい、「剣を取る者は剣で滅びる」と叱責されたりしますし、先の言葉のように「三度鶏が鳴く前に」キリストを知らないと言ってしまう人。

そして、十の災いの長子を殺される者でもある。

 

警官の制服は、上が白でズボンが黒だ。

神父の甥は、神学を学んだだけで、神父ではないが神父の服を着ている。その服は黒だ。

 

 

 

客観的で科学的情報が入るのは、キノコについて。

健康食品に混ぜられており、毒の作用、幻覚作用があったことが示される。

 

そう、すべては毒キノコのもたらしたものだと見るとスッキリする。

毒キノコの毒と幻覚作用で、村人はおかしくなっていった。

毒キノコとはわからず、よそ者も祈祷師も白い女も自分でできることをしていた。(白い女は直感ではないか)

村の外から来た者である、よそ者(村からも離れて暮らしている)と祈祷師は正常だが、自分のできることをする。

しかし、村に滞在した祈祷師は毒キノコにやられてしまうが、吐くことである種の正気を取り戻す。

 

神父の甥も同様に、毒キノコにやられていく。

最初に行った神父は、医者に行くべきだとジョングに忠告する。

 

門に下げられてた植物はなんだかわからないけど、祈りの道具だったのではないか。

よそ者も祈祷師も祈祷で何らかの神秘的力は持っているようだ。 

吐くということを促すことに成功している。

これは、『エクソシスト』のあのリーガンのゲロをいみあるものとして取り込んだのではないか。

アジア映画ではよく吐くシーンがある。

この映画は映画史上もっとも吐くシーンに意味を持たしたともいえる。

ジョングの娘もあのまま祈祷を続けていたら、吐き切り、キノコの毒から逃れられたのかもしれない。

 

 

で、このキノコはどうやら、人をいったん仮死状態にさせて、それ以後、意識を取り戻すと周囲を襲うような作用があったのではないか。ゾンビパウダー(植物性の毒と動物性の毒の組み合わせと言われている)のような作用があったものと思われる。

つまり、あのゾンビは、実は死んでおらず、蘇ったもの(キリストの復活と対比されている)だろう。

あの状態に身内がなったので殺したのが、村で起きていた身内による殺人なのではないか。

 

 

 

キリスト教の知識を持っているがゆえに彼らはそういう幻覚を見たのだろう。

おかしな状況から救おうとやってきたもののそれぞれの職業からの知識で行動し、より客観的なものを頼れなかった。

あとは、恐怖の状況から疑心暗鬼になり、行動に出てしまったのであろう。

 

映画的なジャンルによって語られているだと見てしまう観客もまた映画という毒キノコを食べてしまっている。

 

 

 

 

 

ジョングは、その状況に合わせて、信じる対象を替え、疑い、迷う。

この映画の観客も同様に、状況に合わせて、信じる対象を変えていく。

この映画は、人の弱さを描いているのだ。

 

 

 

だからといって、キリスト教の知識がないと読めないかというとそんなこともないだろう。

どちらかと言えば、ない方が楽しめる。

映画が示す疑惑の中にシンプルに没頭できるから。

そして、キリスト教の知識があると、より怖い。わかっていても迷う姿が描かれるから。

このよそ者が示すアンビバレンツ(キリストであり、悪魔に見えはしても、実際、悪意のある行動はとったシーンはない)が恐ろしいが、それはキリストの神々しさとして作用している。だからこそ、韓国の権威ある映画賞大鐘賞で、外国人初の助演男優賞とスター賞という観客の支持をもっとも得たことを讃える賞を國村隼が受賞したのだろう。

 

 

 

ナ・ホンジン監督は、インタビューで、「ジョングが最後、娘との思い出を回想するのは、それでも娘のために一生懸命がんばったことへのなぐさめ」だと言っているが、それこそまさにペテロの信仰心についての描写だろう。

ペテロは、熱心な信者であったが、キリストの教えを体現することはできなかった。だけど、それは間違いではなく、人とはそういうものであり、それでもなにかを信じて、間違っていても、そのために行動したかどうかは裁けるものではないのだ。

結局は毒キノコのせいだし。

だからこそ、どうすればよかったのかを問うわけだ。

 

 

 

 

よそ者が能面を持っていることは意味深い。

能面は、動かないが、光の具合で感情が変わって見える。

それは見せ方次第で変わるもの。

そこには見せる作り手側の意図が込められている。

よそ者が持つことの意味には、日本の物ではあるが、"フール・オン・ザ・ヒル"の思想も込められているのではないか。

"フール・オン・ザ・ヒル"の、つまり、丘の上の愚者が、もっとも社会を見ているものだという考え。

だが、一般的にはそうは思われず、奇人扱いするのが関の山。

やや知的に難ありと思われるような扱いの白い女の証言を最初は信じ、最後は信じないのは、これも反映しているからではないか。

 

そして、あの面は、小面(こおもて)と言われるもので、「小」は可愛らしい、若くて美しいという意味で、もっとも若い女の面。

これは、よそ者と白い女が同じであることを示していると思われる。

 

 

映画全体が、祈祷シーンの前後で変わっている構成になっていると思われる。

前半はジョングはまだキノコに犯されてないが、後半はキノコに冒されたとみてもいい。

 

 

 

すべては、毒キノコの仕業だともいえる。

村にいる人々は全員食べているなら、山に住む日本人以外はみな毒キノコの幻覚を見るのだ。

そして、その毒は、映画という名であり、宗教という名であり、不信と無力という疑いという名を持つ。

 

さぁ、そのキノコ、誰が植えたのか。

 

 

実は、カットされたエンディングと言われる1シーンがある。
youtubeにはすでに上がっている。

それを見るとシンプルさが失われるので、カットして正解だと思うが、そこから答えは出る。

 

 

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