介護についてメディアで目にするたび、複雑な気持ちになってしまう。
スタッフが周囲にいる取材のときに誰も、心底疲れ果てた姿を見せる人はいないでしょう。だからあれは少しテレビ用の姿であるってことは分かるのだけれど、要介護者との関係で自己嫌悪に陥りがちな介護者にとっては、それを見て逆に落ち込むものとなる場合もあるのではないか?とも思うのです。「みな、あんなふうに上手に工夫して穏やかに接してるのに、私は全然できていない」と過敏に反応してしまったり。
本人の症状にも波があるように、私たちケアするほうにも波があって「もう無理。明日から、もう無理」と、緊張の連続に押し潰されそうになり、どこにもぶつけられぬ思いが湧き上がってきて、この毎日に、なんともいえない充実感の無さを感じて苦しむ時期がある。
こういうことを人に話したり、ここに書くことについて、時々ちょっと考えることもありますが、その時の状況や感情を、いくら醜くても正直に話すことは悪いことではないと思うようになりました。介護に疲れ、どちらを向いてもどうにもならないような困っている状況の人が結構たくさんいる、そういう社会である、ということは、こうして話していかなければ分からないことですし。
少しずつ少しずつ自由や自分の時間が無くなってきて、友人とも疎遠になりがち。
でも状況が大変になればなるほど友人の存在は心の中で大きくなって、無性に会って話したくなるもの。
「私のこと忘れたんじゃないかな」と思ったころにいつも、ひょっこりと贈り物をしてくれる友人。
包装を開けたら…
ドキドキするような存在感の、銀彩ピューター。
こうして色々な人の気持ちに触れ、心の温度がちょっと上がって、また今日も頑張る日々です。ありがとう。
スタッフが周囲にいる取材のときに誰も、心底疲れ果てた姿を見せる人はいないでしょう。だからあれは少しテレビ用の姿であるってことは分かるのだけれど、要介護者との関係で自己嫌悪に陥りがちな介護者にとっては、それを見て逆に落ち込むものとなる場合もあるのではないか?とも思うのです。「みな、あんなふうに上手に工夫して穏やかに接してるのに、私は全然できていない」と過敏に反応してしまったり。
本人の症状にも波があるように、私たちケアするほうにも波があって「もう無理。明日から、もう無理」と、緊張の連続に押し潰されそうになり、どこにもぶつけられぬ思いが湧き上がってきて、この毎日に、なんともいえない充実感の無さを感じて苦しむ時期がある。
こういうことを人に話したり、ここに書くことについて、時々ちょっと考えることもありますが、その時の状況や感情を、いくら醜くても正直に話すことは悪いことではないと思うようになりました。介護に疲れ、どちらを向いてもどうにもならないような困っている状況の人が結構たくさんいる、そういう社会である、ということは、こうして話していかなければ分からないことですし。
少しずつ少しずつ自由や自分の時間が無くなってきて、友人とも疎遠になりがち。
でも状況が大変になればなるほど友人の存在は心の中で大きくなって、無性に会って話したくなるもの。
「私のこと忘れたんじゃないかな」と思ったころにいつも、ひょっこりと贈り物をしてくれる友人。
包装を開けたら…
ドキドキするような存在感の、銀彩ピューター。
こうして色々な人の気持ちに触れ、心の温度がちょっと上がって、また今日も頑張る日々です。ありがとう。