前回「恵美寿会の山姥を見ました」記事の関連する感想続きです。
Y氏が勤められた恵美寿会の山姥。これはしっかりした舞で、山姥の生き様を充分表現できたことは前回書きました。今回は主催者側に対して、見所(客席の事)で見ていた側から、些か感じたことを書きます。
◆道行き・着セリフ省略
前回でも書きましたが、曲が始まって冒頭のワキの謡とセリフの大部分が省略されたです。このワキの役割は、単なる能舞台から場所の舞台へと場面設定にあることです。これが省略されると、前後が繋がらなくなり、今回のように「なぜここで暗くなるの」「急にシテが出てきた」という印象が残ってしまいます。
◆地謡の声が小さい
これは宝生流の流儀でしょうか。地謡の声が小さく感じております。謡の声というのは「太く」と教わっており、高くても低くても響くような声で謡うものなのですが、ちょっと小さくて聴き辛く感じました。
あまり宝生流の舞台を拝見する機会は少ないのですが、以前も同様に感じており、これが流儀なのかな。尤も地謡の声が小さいのは、名古屋の観世流でも時折似たような印象を感じております。先生方の力量でしょうか。
◆附祝言はもっと後で
今回別項にしてわざわざ記事を書いたのがこれ。Y氏演ずるシテ山姥が橋がかりで留拍子を踏んですぐ、ほぼ一呼吸後に、地謡からの謡が始まりました。附祝言です。
附祝言というのは、最後の曲が祝言性を持たない曲ですと、その日の能の会を目出度く舞い納める為に、祝言性のある曲の最後の一節を地謡が謡うものです。元々は祝言のために半能を演じていたほどで、それの省略形が附祝言です。
ですので、本来はワキなどの立ち方に続き、囃子方も舞台から去って、残った地謡方がやおら謡い出すのが附祝言の本来なのですが、なぜかどの会も(観世での舞台でも)囃子方が去る頃に附祝言を謡い、落ち着きが無いように感じております。
それが今回はまだシテが橋がかりにいる途中で謡い出すものですから、余韻もクソも無い。シテの舞が上出来であっただけに、この雰囲気ぶち壊しには正直腹が立ちました。主宰者のI先生、猛省を促したい。
ちょっと厳しい事を書いてしまいましたが、「間(ま)」を大切にする能にあるまじき行為で、能楽ファンとして残念に思いましたので、問題提起の意味でも記事にさせて頂きました。
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