負けてらんにぇ ! みんなでなんとかすっぺ !!

南相馬市から新潟県三条市へ集団避難→同市内の雇用促進宅に→2015.2~同市内の戸建に転居 妻と二人暮らし。

小さくなった日本人 ・・・ 1.むかしの人は大きかった

2013-11-11 23:00:52 | 原発震災避難者


大遠足



わが師は 明治45年生まれでしたから

たしかに よくもわるくも 明治人の特性を備えておられました。


その師が晩年 口ぐせのように

「 日本人は小さくなった 」 ・・・ と嘆いておられました。


「 小さい 」 とはむろん 肉体の大きさのことではありません。

心が 腹が つまり ・・・ 精神的に小さくなってきたというのです。

人間が小粒化し スケールの大きい 「 大もの 」 が少なくなった

・・・ と嘆いたのです。


彼によれば 明治 → 大正 → 昭和 → と

時代が下 ( くだ ) るにつれて ・・・ 人間が小さくなり

とくに戦後 その傾斜が急激である ・・・ といわれたのです。


こういう現象は 私ども昭和生まれのものにさえ

ハッキリ看取できるように思われます。


いちがいに言えぬことですが 平均をとっていうなら

「 明治人 」 には 「 自分たちにないものがある 」 ように感じられました。

「 とても及ばぬ 」 という何かを感じさせられたのです。


大きい というか

太い というか

硬骨 というか ・・・

なにか一本 たくましいシンが通っていることを感じられました。


市井の平凡な人たちのなかに ・・・ それを感じたのです。

やはり 私たちより ・・・ 人間が大きかったのでしょう。



さて なぜこのように人間が小さくなってきたのでしょうね?







「 コレデハイケナイ 」 と心であせる癖のある人は

2013-11-11 21:00:18 | 原発震災避難者


大遠足



それと反対の

「 コレデイイノダ 」 という言葉を ときどき声に出してみられるとよい。

・・・ 何度もくりかえし 呪文のように唱えてみるのです。


自分自身をふくむ すべての現実を

「 いま あるがままでよいのだ 」 とする ・・・ 大肯定の精神です。



「 コレデハイケナイ 」 は ・・・ 現実を否定する想念です。

否定する精神は 何ものも創造しません。 だから

「 コレデイイノダ 」 とする肯定の精神から出発しなさいというのです。



この言葉をくり返し唱えたあと ・・・

ヘソの下あたりに

なんとなく ・・・ 気が満ちてくるような感じがしませんか ?







人生 : 要するに 気の一字

2013-11-11 18:00:35 | 原発震災避難者


大遠足



心が健康で人生が楽しければ 人は陽気にならないわけにはゆきません。


生活がおもしろくなかったら 心は陰気になります。

いわゆる 「 ふさぐ 」 ことになるわけです。


これを逆にいえば < 気 > を陽にすれば 人生は楽しくなり

これを陰にしたら 人生は暗い場所になる ・・・ ということです。


このへんに自己改造 心のスイッチを切りかえる方法の

カギ カナメがあるように思います。


では < 気 > とは何か?

ばくぜんとした ひじょうに内容の広い言葉ですが

心身両面をふくめた < 生命力 > というような意味に解したら

だいたい当たっているのではないでしょうか ?


「 気が晴れて 」 いれば ・・・ 人生は楽しい。

「 気が滅入って 」 いるのが ・・・ ノイローゼ。


与えられた潜在生命力をフルに発動させている人が ・・・ 「 気が強い 」 人。

それを出しきれないでいるのが ・・・ 「 気が弱い人 」。


その気にブレーキがかかっていれば

気力 気迫 気骨 また生気 元気 活気 勇気 根気 覇気 などに欠け

そのために人生の虚無感に苦しみ 

つねに ・・・ 「 気が重い 」 ということになります。



「 人生要するに ・・・ 気の一字 」 そういういい方さえできるかもしれません。


人間とは つまりは 

・・・ イノチ ( 生命 ) 以外のなにものでもないのですからね。







アリガトウを連発せよ

2013-11-11 15:00:30 | 原発震災避難者


大遠足



私の亡父が 晩年に 「 ありがたい ありがたい 」 と

・・・ ときどきつぶやいていました。

かなり大きな声で そばに家人がいても ・・・ これを口にするのです。

一種の口癖のようにさえなっていたようです。


とくに何がありがたいというのではなく 生活全般にかんして

なんとなく ・・・ ありがたい気持がするのでしょう。

あるいは 「 ありがたいと思え 」 と

自分にいいきかせる気持であったかもしれません。

もしそうなら 唱えたことによって

ありがたい気持になれたであろうことはまちがいありません。


亡父の この口癖をはじめてまねしたとき

「 ありがたい 」 では どうも足りない気がしたので

ていねいに 「 アリガトウゴザイマス 」 といってみたら

そのほうが心にぴったりくるように思われました。


それで ときたま思いついたように

こちらの方を ・・・ 口にすることにしています。



不平や不満 怒ることが多い人は

ときどき これをお題目のように唱えてみられたら如何ですか。

感謝の対象を とくに想定する必要はありません。

ただ 「 アリガトウ・・・ 」 といいさえすればよいのです。

そういう気持になれなくても ウソでもいいから 演技でもいいから

・・・ 口にしてみるのです。


これをときどきやっているうちに 心がだんだん ほんとうに

感謝の気持に満たされるようになってゆくでしょう。

言霊の創造力によって ・・・ そうなってゆくのです。


怒りがこみあげてきたとき はげしい不満にとりつかれたときなど

これを思いだして口にしてみれば ・・・

それら悪しき感情を鎮静する役を果たしてくれるかもしれません。


なにか感謝の対象を想定したほうがいいやすい というなら

自分自身を その対象にされたらどうですか ?

「 ありがたい自分 」 と思って ・・・ これに礼をいうのです。



万物同根なのだから やがてその心は

あらゆる他人 他物へと拡大されてゆくでしょう ・・・


究極的には ・・・ 神への感謝というものになってしまうはずですね。







男の人生は60から ・・・ 40・50は鼻たれ小僧

2013-11-11 12:00:44 | 原発震災避難者


大遠足



若いころから私は 「 男の人生は60から 」 というふうに思ってきました。


かならずしも 社会的な仕事についていうのではなくて

人間的な成熟 完成の道程として ・・・ そういうことを思うのです。


数え年の61を還暦といいますが ・・・
 
女は知らず 少なくとも男というものは

還暦をすぎてから イチニンマエになってくるのだ

・・・ というふうに思われてなりません。


だから 40・50は まだ鼻たれ小僧だ ・・・

ということを ジェスチャーではなくて ・・・ 本心から思うのです。



大器晩成ともいいますが ・・・

大器であろうと なかろうと ・・・

ゆっくり ユックリ成熟してゆこうという人生のペースが

・・・ 私は こよなく好きなのです。







万物の霊長といいますが ・・・ 霊短 ?

2013-11-11 09:00:51 | 原発震災避難者


大遠足



チャールズ・ダーウィンの 「 進化論 」 の思想が正しいものかどうか

・・・ 私ごときにわかろうはずがありません。


ただひとつ ハッキリ言えるのは

人間があらゆる生物のなかで

いちばん後に登場した生きものであることです。


これはマチガイのないところでしょう。


人類の生命史なんて 長くみても何百万年でしょうが

たとえば 台所でチョロチョロ走りまわるゴキブリ様のごときは

何億年もの歴史をもっています。人間とはケタのちがう大先輩です。

ゴキブリ・ホイホイなんて 気やすくいってほしくないゾ

・・・ むこうサマは そう思っておられるかもしれません。



人間は 最後に登場した生物です。


それゆえに いちばん進化しており いちばん高等である

・・・ という面もあるでしょうね。

だが 同時に 最後輩ゆえにもっとも劣悪である

・・・ という面も たしかにあるにちがいないのです。



早い話 ・・・ 病気になるのは人間だけです。

野生の動物は ぜったいに病気にはなりません。


その 病む ・・・ というマイナスを埋めるために

健康法や 医学の進歩が必要でした。


マイナスを埋めるためのプラスにすぎないのだから

医学ごときを人智の勝利などといって誇ることは ・・・ まちがっています。

「 病むことを知らぬ 」となって 動物なみになれるのに過ぎないからです。



野生の動物は 象から小鳥に至るまでみな

死骸を他者にはぜったいに見せません。

みずから死期を悟り 誰にも見られぬところでヒッソリと死んでゆきます。

崇高ともいいたい最後です。 ・・・ 人間にこのマネができますか ?


きわめて少数の人をのぞいて

人間には みずからの死期を悟ることができないし

自然死 ( 老衰死 大往生 ) という死にかたが また ・・・ できません。

たいていは 病気になってまわりの者に世話をかけて死にます。



万物の霊長どころか ヒョッとしたら ・・・ 霊短なのかもしれませんゾ。







病人に共通するアヤシイ点 ・・・ 小人物

2013-11-11 05:01:21 | 原発震災避難者


大遠足



怪我 ( けが ) という字は 「 怪しい我 」 と書きます。


ケガをする人は

どこか自分にアヤシイ ( 筋道からそれた ) ところがあるのです。

だから ケガによって反省が迫られるのです。

ケガをしてこそありがたかった というのが正しい受取りかたです。


そう言えば

かの双葉山は力士生活中 一度たりともケガをしなかったそうです。

力士にケガはつきもの といわれているのにです。

このことは かれの偉大さの ひとつの傍証でありうるでしょうね。

かれ自身

「 理にかなった相撲をとれば ケガはぜったいしないものだ 」

・・・ と言い切っています。



病気についても同じこと言えましょう。

「 理にかなった生活をしていれば

病気など ・・・ ぜったいにならないものだ 」 と。


こういうストレスの多い

大気からして汚れている社会に生きているのだから

体調の不調というくらいのことはやむをえません ( ? )。

だが

寝込んでしまって 人なみに働くことができぬ

というほどの病気にかかる人は

自分にアヤシイところがかならずある

 
・・・ と反省しなくてはなりません。


わが肉体の管理にマチガイがあることは もちろんですが

とりもなさず わが心にマチガイがあるということです。


病人に共通するアヤシイ点は

我 ・ ワガママ ・ 感謝の心に欠ける ・・・ などでしょうね。


病の真因は ・・・ 自分自身にあるのです。

自分が ・・・ 病気をつくっているのです。


「 病人は ワガママなものだ 」 といいますが

「 ワガママな人だから ・・・ 病気になるのだ 」というほうが

・・・ より真実なのではないでしょうか?


そこに反省をしないで

病の因を外部 ( バイキンなど ) にのみ求め

・・・ 医者とクスリにのみ頼って治そうとします。

そういう心では 一時的にはよくなっても ・・・ またいつか出てきます。


リッパな死にかたは ・・・ もちろん できますまい。


病気もまた 反省の機会として天があたえたもうたものなのです。

寝こんだら 虚心に反省します。

そういうふうに受けとれたら 病気もまた ・・・ 天の恵み

・・・ マイナス即プラス ということになります。


つらい 苦しいとグチばかり言ったり

病気を利用して いっそうワガママにふるまったり ・・

そういうふうでは ・・・ 救いようがありません。


・・・ 小人物の最上級です。