貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

生きて仰ぐ!

2020-03-15 08:57:58 | 日記

生きて仰ぐ!

令和2年3月15日(日)

 昨夕は、里の雪ならぬ里の霰!

 『ぼくの寄り道 芭蕉の古径』の

推敲とPDF化も昨夕完了!

 余すは、「始めに」と「終わりに」

と目次の作成。

 今日できあがるといいなあ!?

 善光寺参詣で、善行、全稿・・・!

  明治44年に信濃教育会の講師

として招かれ、その時参詣した

夏目漱石。

 漱石の句は、

「生きて仰ぐ 

   空の高さよ 

      赤とんぼ」

  信濃町生まれので二つの句を

奉納した小林一茶。


 

 一茶の二句は、

「春風や 

   牛に引かれて 

      善光寺」

「開帳に 

    逢ふや雀も 

      親子連れ」

 

「歩行禅」という言葉を好み、

全国を漂泊した種田三頭火の歌句、

「八重ぜくら 

  うつくしく 

   南無観世音菩薩像 

 すぐそこでしたしや 

  信濃路のかっこう」

説明書きも整備されている。


  信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様

を御本尊として、創建以来約千四百年

の長きに亘り、阿弥陀如来様との

結縁の場として、民衆の心の拠り所

として深く広い信仰を得ている。

 10回近く参拝しているかな。

『善光寺縁起』によれば、御本尊の

一光三尊阿弥陀如来様は、

インドから朝鮮半島百済国へとお渡り

になり、欽明天皇13年(552)、

仏教伝来の折りに百済から日本へ

伝えられた日本最古の仏像。

 この仏像は、仏教の受容を巡って

の崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の

物部氏によって難波の堀江へと打ち

捨てられる。

 後に、信濃国司の従者として都に

上った本田善光が信濃の国へと

お連れし、はじめは今の長野県

飯田市でお祀りされ、

後に皇極天皇元年(642年)

現在の地に遷座。

 皇極天皇3年(644)には、勅願により

伽藍が造営され、本田善光の名を取って

「善光寺」と名付けられる。

 創建以来十数回の火災に遭う。

 その度ごとに、民衆の如来様を

お慕いする心によって復興され、

護持される。

 災厄の後の民衆の崇拝、協同が

1番!諦めず、明るく!