貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

17. 多賀城碑

2017-03-10 08:50:20 | 日記
17. 多賀城碑

<平成27・7・18(土)>

壷碑 市川村多賀城に有。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。

苔を穿て文字幽也。

四維国界之数里をしるす。

此城、 神亀元年、按察使鎮守府将軍大野

朝臣東人之所置 也。

天平宝字六年参議東海東山節度使同将軍

恵美 朝臣修造而、十二月朔日と有。

聖武皇帝の御時に当れり。

むかしよりよみ置る哥枕、

おほく語傳ふといへども、山崩川流て道あら

たまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木

にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかな

らぬ事のみを、爰に至りて疑なき千歳の記念、

今眼前に古人の心を閲す。

行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれ

て、 泪も落るばかり也

蘇我入鹿の暗殺から2ヶ月後の8月、新政府は、

伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関・越前国愛発

(あらち)関の三関で東国と西国に分けて使者を

遣わし、人口や土地、国造の支配状況、武器

所有の実態などを調査した。

この結果に基づいて地方支配機構の改革が

推進される中、政府は地域ごとに境界を定め、

大和政権以来の国造に変わるものとして評

(こおり)を置き、地方の再編に着手した。

 東北の太平洋側では、南は福島県南部の

白河から北は宮城県南部の日理(亘理)、伊具

にかけて評が置かれ、多賀城成立の礎となる

「道奥国」(のち陸奥国)が設けられた。

それ以北は政府の支配下から外れた蝦夷の地

だったが、7世紀半ばになると支配領域の拡大

が図られ、7世紀後半には宮城県北部の玉造や

新田にまで及んだ。

天武天皇の時代に移ると、皇族中心の政治

権力を背景にして律令制国家の建設が強力に

進められ、大化の改新から半世紀ほど経過し

た701年に大宝律令が制定された。

地方行政については、全国を畿内と七道

(東山道、北陸道、東海道、山陰道、山陽道、

南海道、西海道)に分け、

さらに国、郡、里に分けて役人を配置し、

地方組織の強化を図った.

律令においては、北陸道の越後国、東山道

の陸奥国、出羽国など東北地方の国に対して多

くの特例が設けられ、その中には、「蝦夷の

様子をうかがう」「蝦夷を服従させる」

「蝦夷を討つ」といった国守の職務規定まであり、

蝦夷対策が律令政府の大きな課題であったことが

窺い知られる。

下記年表に、東北地方における郡の分割や新設、

国の再編が度々行われたことが書かれるが、

これはそうした蝦夷対策の一貫として行われた

もので、律令制支配を徹底させることが狙いだった。

霊亀元年(715年)になると、陸奥国の更なる充実

経営のため、坂東6ヶ国から1000戸の住民移動が

行われた。

 こうした経緯の中、陸奥国支配の本拠地として

多賀城が創建されるに至り、政府は、此処に、

陸奥国府と蝦夷の反乱を鎮める鎮守府を設置し、

陸奥出羽按察使・陸奥守および鎮守府将軍を兼任

する国守を駐在させた。

708年の出羽郡設置は、後年の出羽国建置を

前提にした施策だったが、これに反発して越後国で

反乱が起きた。

 神亀1 724 陸奥国に多賀城を築く。

多賀城碑によれば、陸奥鎮守将軍従四位下大野

朝臣東人が築いたとされる。

平成10年6月30日、国の重要文化財に指定された

多賀城碑は、市北西部の多賀城跡の一角にあり、

江戸の昔から創建年代や後年の偽作か否かについて

論争されてきたが、近年の発掘調査の結果などから、

現在は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と

判断されている。

碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、

最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。

今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌

いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は

野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で

覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。

つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て

文字幽也。(おくのほそ道)

○義仲寺所蔵「芭蕉翁絵詞伝-壷の碑」

碑は、自身と同質である砂岩の基部全体を土中に埋め、

正面をほぼ真西に向けて建っている。

一般に砂岩はもろいとされるが、碑石に使われたものは

アルコース砂岩と呼ばれる硬質のもので、今も碑面の

風化はほとんど見られない。

昭和40年代の前半に碑近くの丘陵から同質の石が出た

ことから、多賀城碑に使用された石材は建立地近辺から

掘り出されたものと推測されている。

○大淀三千風について
 「つぼのいしぶみ」は、実は歌枕であり、西行や

藤原清輔、源頼朝らによって、未知なる陸奥の象徴として

和歌に詠み込まれている。

「山家集」 西行

陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風

「家集」 藤原清輔

石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ

「拾玉集」 源頼朝

陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ

歌枕「つぼのいしぶみ」の成立過程は定かでないが、

文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」

が、その伝承に大きな役割を果たしたようである。

歌枕「つぼのいしぶみ」が、こうした伝説や和歌に

よって後世に伝播されていく中、多賀城碑は、

江戸時代になって土中から掘り出され衆目に晒された。

石碑は一般に「石文(いしぶみ)」または「立石

(たていし)」と呼ばれることから、発見当座も、

まずはそうした呼び名であったろう。

それが彼の事物と絡められて一体化し、次第に

「壷の碑」と称されるようになった、というのが

事の真相かと思われる。

以上の歴史的ないわれを、説明ボランティアの

男性から聞くことができた。

「どちらからお見えですか。」「東京の青梅です。」

「青梅は縁がありまして、明治時代に叔母が千ヶ瀬で

教員をしていまして・・・。」「今、私は千ヶ瀬の○○に

勤めているんですよ。」

 自前のファイルをもとに坂上田村麻呂、仲麻呂、

碑が贋作ということで、芭蕉以降の話題となり、

平成9年まで真贋が不明のままで・・。」等

真剣に説明くださった。

多賀城趾説明板





多賀城の跡・・・広大









壺の碑のある所







壺の碑