貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

田原市: 伊良湖崎灯台と恋路ヶ浜 芭蕉と杜国を想う!

2024-07-08 10:16:24 | 日記
令和6年7月8日(月)
田原市: 伊良湖崎灯台と恋路ヶ浜   
 フェリー港の近くの、
道の駅「伊良湖クリスタル」に
一旦停車。
 その後、
灯台の北側に回る。
 広い駐車場があり。
 そこに停め、
伊良湖崎の灯台と恋路ヶ浜を散策。           
 伊良湖崎灯台の光景は
見応えあり。

(ああ、ここからやっぱり伊勢へと
行くべし)
とも感じる。


 夕日と荒波と灯台…
芭蕉と杜國と…の恋路?
を散策した感じ。

 時の流れがちょっと違う。
<恋路ヶ浜>

 一組のアベックと出会うが、
何となくゆったりした感じで、
微笑ましくもあり。




田原市保美 芭蕉の句碑園地 大発見の境地!

2024-07-07 10:07:07 | 日記
令和6年7月7日(日)
田原市保美  芭蕉の句碑園地  
   
   伊良湖岬の近くで、
目の前がゴルフ場。

 そこに芭蕉句碑園地がある。  
<入り口>
  
 真夏に伸びた草が伸びたままで、
生い茂る手前。
 ちょっとびっくりの
句碑公園。
<芭蕉句碑>

 勿論、芭蕉句は、
「鷹ひとつ 
   見つけてうれし    
     伊良湖崎」
である。
<今月の秀句掲示板>


田原市潮音寺②芭蕉の愛した杜国を弔う山頭火など!

2024-07-06 10:38:24 | 日記
田原市潮音寺②
 夢にまで杜國を見て泣いた
というほど杜國の天分を
愛した芭蕉は、貞享4年10月、
「笈の小文」の途中、
鳴海より門弟越人を伴い、
愛弟子の悲境を慰めようと
二十五里の道を引き返し、
保美の閑居に杜国を尋ね得る。
 再会した師弟が
そのとき詠みあったのが、
この三吟の句。

 翌日杜國の案内で同行三人は、
伊良湖崎に吟行の杖をはこんだ。
 芭蕉の名句、
「鷹一つ 
  見付てうれし 
    いらこ崎」 
は、このとき詠まれたもの。
 翌年2月、
杜國は伊勢に渡り芭蕉と落ち合い、
吉野の花を愛でた後、
各地を吟行。
 5月にこの地に戻る。
 この旅が、
後の『笈の小文』として刊行される。
 その2年後の
元禄3(1690)年3月、
杜國は、望郷の念と吉野の思い出を
胸に寂しくこの世を去り、
潮音寺原に葬られる。
 行年30余歳。
 現存の墓碑は
没後54年の延享元(1744)年に
建立されたものであり、
師弟三吟の句碑は、
杜國を慕う地元の有志により
明治28(1895)年に造られたもの。
<杜国墓碑>

 明治44(1911) 年5月30日、
河東碧梧桐は潮音寺を訪れ、
杜國の墓碑を供養。
 山頭火の句碑も建立。
「あの雲が 
   おとした雨に 
     ぬれている」
<自由律俳人山頭火の句碑>


 行(ぎよう)乞(こつ)の僧として
雨の日も風の日も、
ただひたすら歩き続ける山頭火は、
雨とも一体となり、
自然の中に溶け込もうとする
禅の境地が伺うことができる。
「波(なみ)音(おと)の 
    墓のひそかにも」
 旅日記によると、
昭和十四年四月十九日、
知多半島の師崎より船にて
福江港に着き、港近くの宿に一泊。
その翌朝、
伊良湖岬に向う途中潮音寺を訪れる。
俳人杜國の墓に詣でた時に一句詠む。


田原市保美 潮 音 寺 ①芭蕉三吟句碑と杜国の墓碑!

2024-07-05 10:03:49 | 日記
令和6年7月5日(金)
田原市保美  潮 音 寺  ①       
 潮音寺は、1370年頃の創建寺。
<本堂>

 本堂の左手に芭蕉の三吟句碑がある。

<芭蕉第三吟句碑>

「麦生えて 
   能隠家や 
      畑村」
       芭蕉
「冬をさかりに
      椿咲く也」    
          越人
「昼の空 
   蚤かむ犬の 
      寝かへりて」 
          野仁 
 野仁は、杜国の別号。
 三吟句碑の左下に
杜国の墓碑がある。
<杜国の墓碑>

 杜国は、
通称を坪井庄兵衛といい、
名古屋の御園町で壺屋という
米穀商を手広く営む傍ら、
町総代をも勤める豪商であった。
 貞享元年(1684)、
芭蕉の「野ざらし紀行」の帰途、
名古屋で作られた連句集
「冬の日五歌仙」に
作者の一人として加わった杜國は、
尾張俳諧の重鎮として
その名を馳せていたが、
貞享2年、
ご法度とされていた米延商
(空米売買)の科により、
家財没収のうえ所払いとなる。
<杜国墓碑と三吟句碑についての説明>

 そして、この地、畠村に移り住み、
程なく保美の里に隠棲することになる。
~つづく。

名古屋市笠寺観音③笠寺千鳥塚の奥深き由緒と玉照姫を詠む芭蕉!

2024-07-04 10:07:23 | 日記
令和6年7月4日(木)
名古屋市笠寺観音③
 ふと、師匠の宗匠である
芭蕉の句がよぎる。
「星崎の 
  闇を見よやと 
    啼く千鳥」
 芭蕉は、この句の中で、
具体的に何を見なさいとは
言っていないし、
また、何かを闇の中に見たとも
言っていない。
 それを千鳥に託すとは、
何を千鳥に托すのだろうか。
 師匠が  言わんとしている
ことの意味は、
この句に手がかりがあるのかも
知れないと、以之は思いを巡らす。
 この句では、
連歌発句の頭として、
「星崎の」と置き、
月が出ていれば、
星崎の夜はどんなに美しかろうかと、
恐縮している主人をなぐさめている。
 季語を千鳥とし、
闇と組み合わせることにより、
夜の寒さや夜風の冷たさを
想わせている。

 耳をすますと、
障子越しにいろいろと聞こえてくる。
 それは、
あゆちの浜の松林の間を、
くぐり抜けて来る松風の音だったり、
風に飛ばされた落ち葉が 
障子に当たる音だったり…。
 十七文字の中で、
闇の中の千鳥の声だけが実体であり、
あとは闇一色である。
 千鳥の声を称賛することで、
星崎の松林をくぐり抜ける
夜の風の音や、
落ち葉が風に運ばれて来る音など、
闇夜のすばらしさを千鳥に託している。
 芭蕉は、この句の中で、
自然を巧みに詠んだ。
 この句には、「軽み」が表現されて
いるのではないかと、
以之は思い至る。
 いつの間にか、
雲が風に流され、
満月が顔を出した。
 気がつくと、
隣に各務支考が立っていた。
「お師匠様、
『星崎の 
   闇を見よとや 
      啼千鳥』
という句は素晴らしいですね」
と、丹羽以之は話しかける。
 各務支考はおもむろに、
口を開き、
「私も、たいそう好きな句の一つ。
句は、感ずるままにとは申すが、
目に見えるだけでなく、
耳、鼻、手の触感、
五感をとぎすまして感じ、
それを言霊にして、
心を句に表現しなければなりません」
 各務支考は、さらに話を続ける。
「芭蕉は、
ここ笠寺の絵馬奉納において、
歌を寄せている。
「笠寺や 
  もらぬ崖も 
     春の雨」
という句だ。

 笠覆寺の玉照姫が、
観音様に笠をあげた話を聞いて、
感じ入って詠んだ句で、
玉照姫のお話を知っている人には、
句の中に、玉照姫の優しさの
言葉が一つも入っていなくても、
玉照姫の優しさが伝わって来る。」
 各務先生が、
芭蕉翁の句について語る話に、
丹羽以之は、
自分の未熟さを思い知る。
 丹羽以之は、わずか三年で、
俳諧を分かろうとした自分を恥じて、
それ以後俳諧の勉強を続け、
芭蕉の没後、
三十六回忌の法要の際に、
ここ笠寺観音に供養塔を建てる。
 それが、「笠寺千鳥塚」である。
 その碑の底に、
松尾芭蕉遺品の手鏡を納めた
という伝説が残っている。
 また、
笠寺観音の境内にある春雨塚には、
芭蕉の尾張の門人の句碑が
刻まれている。

旅寝を 
  起こす花の 
      鐘楼  
       知足 
笠寺や 
   夕日こぼるる 
      晴れしぐれ 
          素堂
大悲の 
    この葉鰭と 
        なる池  
          蝶羽 
笠寺や 
   浮世の雨を 
        峰の月  
        亀世