あすなろ

塾長日記

起きちゃったらどう処理するかだよね

2011-09-30 16:48:50 | Weblog
彼女はもっとも初期の生徒だった。うちの塾では合宿をすると言ったら何でも面白がってしまう彼女のお母さんがその合宿に申し込んで、ポツンと一人参加したのが彼女との最初の出会いだった。以来時代はバブルに向かっていたし、うちは合宿ばかりやっていて、彼女は延々6年くらい殆どの合宿に参加していたな。
 ある女の講師がいた。よく考えたらボクは彼女を正式に雇ったことはない。雇った講師についてきたんだ。時々こういう女子大生はいる。私の学生時代にもいた。地方の優秀な高校を出て地方では高校の名前を言うだけで凄いと言われるのに、東京へ出てくると埋まってしまう。それで田舎者と思われたくなくて、派手なカッコをして(彼女もチョーミニスカートだった)とにかくその講師は合宿の時、講師を集めて、生徒の前で私の紛糾大会を開きやがった。
生徒だった彼女が悲しそうな顔をして、私が追及されるのを見ていた。時はバブルの終わりで、このホテルもでかいのを建てたけれど突然客が入らなくて、うちに売りに来たというわけだ。子供の合宿なのに1800円もするうな丼が出た。そのことまでこの女は批判していやがった。さらにカラオケルームも勝手に使って9万円も請求書が来た。自分で使ったくせによ、講師料から引くと言ったらそこからこの珍妙な団交が始まったというわけだ。次の日他の講師は全員詫びを入れてきた
今、私は思う。こんな事件誰が正しいと言う話ではなく、起きちゃったらどう処理するかだよね。だよね元首相
長く付き合っているからそんなとろまで彼女は見ていた。

負けんけんね

2011-09-29 21:15:30 | Weblog
俺は負けない
サラリーマンを10年やって予備校を2年
これ以上転職はできなかった。予備校の仕事はおもしろかったから予備校をやろうと決めた。近くに東大があったから、最初は随分東大生なんかを雇って何でもできますとやった
講師26人、生徒130人くらいになった。教室は8教室、すべてにクーラーとかコピーを設置した。結局倒産や受験の失敗は見栄にある。小さい会社なのに受付嬢がいたり、同じ偏差値の学校を滑り止めにしたりね。失敗の本質は見栄にあるんだね。うちは代々木ゼミナールではない。全教科教えられる必要があるのか。ボクは社長だ。ボクの指示に従わない教室と一緒にやる必要があるのか。煩悶したぜ。サラリーマンは1年やった。予備校には2年いた。でもその後は27年になる。やっぱり自分の作った塾には思い出が染みついている。一生懸命やってるもんね。つらかったけれど楽しかったけんね。

その予備校をやめる

2011-09-28 19:53:10 | Weblog
最近、友人が新しい会社を作ったけれど仕事を続けるのは金だけの問題ではないね。さらにこの予備校は作問だの採点だの父母に営業電話だのまったく眠る時間ももらえなかった。休みも正月もなかった。ノウハウを覚えたら自分でやろうと決めていた。決めていたからね。だから一生懸命できたのだと思う。
のちにわが塾ができた後、一回だけ講師をしかったことがある。有名な作家の家に家庭教師に行っていた時国語をうちの講師に行かせてた。答えをわからないの連発で相手から、
問い合わせが来た。『ボクだって最初は問題を解けなかったよでもさ、行き帰りの電車の中で夢中で予習復習をした。君はいい大学に行っているのに全然勉強をしていかないじゃないか。あの作家の家で家庭教師をやっていたと言うだけで次の予備校でも働けるのに、と言うようなことを行ったと思う。確かにあの頃は夢中で電車の中でも中学生の教科書などを読んでいた。

予備校をやめる

2011-09-28 19:50:34 | Weblog
最近、友人が新しい会社を作ったけれど仕事を続けるのは金だけの問題ではないね。さらにこの予備校は作問だの採点だの父母に営業電話だのまったく眠る時間ももらえなかった。休みも正月もなかった。ノウハウを覚えたら自分でやろうと決めていた。決めていたからね。だから一生懸命できたのだと思う。
のちにわが塾ができた後、一回だけ講師をしかったことがある。有名な作家の家に家庭教師に行っていた時国語をうちの講師に行かせてた。答えをわからないの連発で相手から、
問い合わせが来た。『ボクだって最初は問題を解けなかったよでもさ、行き帰りの電車の中で夢中で予習復習をした。君はいい大学に行っているのに全然勉強をしていかないじゃないか。あの作家の家で家庭教師をやっていたと言うだけで次の予備校でも働けるのに、と言うようなことを行ったと思う。確かにあの頃は夢中で電車の中でも中学生の教科書などを読んでいた。

転職した予備校は大変

2011-09-28 16:46:13 | Weblog
とにかくバカ臭かった。職員会議で『バカヤロー辞めちまえ』とか罵声が飛んだ。罵声の主は社長の愛人の専務だ。女がこんなことを言うのだけでうんざりだった。会議で決めたことを11時ころチャラチャラやってきたこの女がひっくり返す。ボーナスは定まらず、合宿のあと旅行業者が、チラシを印刷した後
印刷やが、払ってくれるまで帰りませんよなんて言って職員室に座っていた。前に勤めていた会社は小さいと言っても社員157人、労働組合結成でもとにかく順法であった。親会社もあったからね。ところがここは会社の体をなしてなかった。情けなくて涙が出た。
すぐに中学部部長になった私は、予算の時でもとにかく一億円達成してくれと言われた。50人入る教室に120人入れてフル回転させてもそんな予算は達成できなかった。経理担当とかのこのババアはヒステリックに達成しろと怒鳴った。まっボクには一度も怒鳴ったことはなかったけれどね。雰囲気的に怒鳴れなかったんだろうね。めんどくさいから一億円の予算を作って出したら通った。仕事はおもしろかったけれどここで続けるのは無理だった。

そして予備校

2011-09-27 19:27:13 | Weblog
現場は楽しかった。なんたってトップだからな。二人の部下と営業所全国250営業所の中で売り上げを50番くらいに持って行った
当然トラブルもその分多くて、何が楽しいって二人の奴がその度に解決に一生懸命一緒に走り回ってくれた。本社の足の引っ張り合いよりよほど精神は安定した。しかし現場だからな。事件は多かったよ。ある日一人の部下が駐車場を間違えて危ない組の人の駐車場に車を間違えて止めてしまった。なんてこともあったな。怖かったけれど最後まで逃げないで相手と交渉した。こういう体験はその後の人生でほんとに役に立った。元暴走族のその男は、以来ボクのチョー味方になった。3年くらいはそんな日々だった。子供の幼稚園の運動会に日曜が休みじゃなくていけないくらいが不満だった。
そうして、3月。どうしても新潟に行く仕事があって、まだ雪の残る三国峠を越えて、東京に午後5時について、お客のところへもって行くと、時間に遅れてもいないのに胸倉を掴まれた。元暴走族の m君がいて、その客を殴ってしまった。左遷の時はやめようと思わなかったけれどさすがにこの時は嫌気がさした。朝日新聞で予備校講師と言う募集があって結構な競争率だったけれど受かったから
その予備校に転職した。一緒にやっていた二人もすぐにやめたみたいだった。そうして夢と希望の予備校講師になったけれどこの予備校は一週間で辞めたくなった。

今思えばね

2011-09-26 14:28:36 | Weblog
30歳の時そのちっぽけな会社で事件がおきた。労働組合が結成された。実は、作ったのはボクも入っていたんだけれど。労政事務所に届け出を出して、もうゴールデンウィーク中に、設立されていたんだけどね。休み明け相変わらず間抜けな役員たちが出社してきて、ゴルフの話なんかしていた。ここで驚いたことは、連休中でも銀行関係から情報が親会社にはもう上がっていて、その子会社の社長はこれも連休中に連絡が行っていたのである。社長は信じられる役員だけ呼んでもう対策をとっていた。だから『ゴルフはどうでしたか』なんて社長室にやってきた間抜けな役員は、社長の固まった顔を見て、さらにいやぁこの前の社長にはやられましたからね。なんてゴルフの話しかないこの役員はその後すぐに解任された。とにかくその会社では大事件だったけれど今考えると詰まんない話しだな。
会社の社内報は総務のボクが書いていた。仕事が終わった後の労働組合の機関誌もボクが書いていた。だから秘密が保たれないと言うことで現場の所長に左遷された。これもその時は大事件だったけれど、脱サラした後の事件から比べればほんに屁のようなものだった

その時代僕は

2011-09-24 19:33:08 | Weblog
私は今、25歳から30歳までを思い出して書いている。みんなが麻雀とかほとんど毎日やっているのを見ていた。彼らは仕事もしなければ、それでも会社を休まず遅刻もせず、摩擦も起こさず息を吸っていた。昨年にこの会社が整理されるとき、その時の後輩が随分
脱サラしたボクの事務所にやってきた。
『将来性がないと思いましたか』と一人は聞いてきた。『親会社から無能ゆえにやってくる奴ばかりが管理職になっていくのをみてダメだと思った』と言った。『しかし残っている直採用者だってろくなのいなかったもんな』とは言わなかった。でもキミたちは愚痴ばかり言って管理職と麻雀ばかりやっていたじゃないか。
ボクはその分仕事していた。わけではない。ただね。遊んでくれる人がいなかった分、いろんな本を読んで知識は付けていた。遊んでくれる人がいない分、いろんなことを考えた
清水一行なんか全作品を読んではノートにメモをした。

間抜けな時代だったね

2011-09-24 15:41:51 | Weblog
結婚して子供が生まれて、休日など友人一家と家族ぐるみでドライブにいったり、会社では現場があったからまぁいろいろトラブルがあってこれを解決するのが仕事だったから、仕事が終わると疲れてサッサと帰った。この仕事の解決の仕方はその後の人生でものすごく役に立った。他の会社のメンバーは相変わらず、麻雀の話ばかりしていた。部長が何でも麻雀の話をすればいいと思ってお得意様に行って、麻雀の話をして、その会社では麻雀禁止令が発令されていて、相手を激怒させたなんて話もあった。いづれにしても平和な時代だ。あんな話ばかりしていて、OLの女の子にお茶なんて言って毎日を過ごしていたんだからな。まっボクは働いていたけどな。それにしてもガソリンが1リッターで何キロ走るか車種別にそろばんで計算していたんだからね。原始的なものだ。その後リストラなんて言うけれど、確かに無駄な人間は多かったね。部長。君のことだよ。
当時、ボクの初任給4万円。これはその後すぐにオイルショックで12万になったが、自分で買った最も安いオムロンの電卓、4千円
何にもしていない部長の給料は40万円だった。いつもドライブに誘ってくれた友人は、草津や伊豆に別荘を持っていたけれど、その後3人の子供と奥さんを残して失踪した


祭りの後

2011-09-23 18:32:31 | Weblog
何でこんな話を始めたかと言うと、今日は地元のお祭りだ。こんな都心の真ん中で、この日は生徒が全然来なくて、みんな祭りに行くと言うのにも驚いたけれど、やはりこのお祭りにはたくさんの思い出がある。バブルのあたりは夏期講習。朝から晩まで一日中働いていた。朝と言っても7時ごろから深夜は終電か教室として借りていたマンションに泊まっていた。さらに合宿を夏だけで4回もやっていた。今日と同じやっと涼しくなってね。生徒たちと代々木八幡に行くと階段の途中で目が回ってそのまま一週間仕事を休んだ。当時生徒は130人くらいいたからしかも携帯もない時代だったから病床で一生懸命電話をしたのを思い出す。
さてもう一つは、お友達のことだ。事務所の上にお友達がいて、一回神輿を担いでみたいと言うから手配した。こんなに大きなお祭りとは知らずびっくりした。そこをボクの学生時代の友達が神輿を担いでいる。不思議な光景だった。そしてそれは二度とない光景だった。次の年には彼はもう仕事が忙しくなっていたし、祭り好きのボクとしてももう一度でたくさんだった。かつてこの祭りには信金のおねーさんたちがそろいの浴衣で担いでいた
のにね。同じことは二度とないのだね