あすなろ

塾長日記

アナログじゃだめなのね

2015-07-18 23:54:35 | Weblog
昨日、路線バスの旅をしたのは1時に用件が済んで友達と会うのが7時だったから旅に出た。7時からは友達と食事した。7時からなんて何年ぶりかの夜間外出だ。家に着いたのが10時でクタクタになった。同じ年の奴らと話をすると何かしら役に立つ。
昨日はガラケイという意味を知った。そして携帯とプロバイダーの会社は分離しているとか聞いているうちにそうかと思った。私なんぞ業者のいうまんまにおまとめ請求とか言っちゃって601円のフォットパネルの料金滞納というだけで残りの電話4本全部不通になったりした。しかも入院中。
おまとめ請求なんか何のこちらにメリットもないのに。積極的に通信費を整理しなくてはねと思った。IPadとか今日ドコモショップに行って初めて知ったくらいだ。入院しているとき、テレビカード1000円なんか何枚も買ってただの民放のつまらない番組を見ていたのは私くらいだった。スマホだったらブログもかけたし、ビデオさえ見れていたんだからね。

路線バスの旅

2015-07-18 19:22:49 | Weblog
路線バスの旅なんて最近はやっているよね。
町田から橋本まで行ってみました。昔は町田街道なんて桜美林を過ぎると何もなかったけれど南大沢とか多摩境とかニュータウンが広がっている先に橋本、横浜線と京王線と相模鉄道がある。町田から路線バスで490円だぜ。知らない街を歩いてみたい。

家族という名の不幸

2015-07-18 10:10:47 | Weblog
デカい声で叫んでいる声が聞こえた。あんなふうに携帯で切れている相手はたいてい家族と思って立ち止まって聞いていたら案の定お父さんはねいつもそうなんだといっていた。その女を見た。あそこまで太らなくてもいいのにというくらい太っていた。服装はメチャクチャで水筒をブラ下げていた.たぶん水とかにこだわって生きているんだろう。その後友達らしき奴と話しているとき無理に笑い声なんか入れちゃってさ。
ケラケラわざとらしい声で話していた。まぁ関係ないけどなんなんだろうねこの女。

あの日から変わった

2015-07-16 23:16:54 | Weblog
昔は、東京電力の集金の人なんか、ちょっと払えないんだけどというと一週間くらい支払いを待ってくれた。今日は大丈夫なんて言いながら集金に来てくれた。2011年の東日本大震災のころ集金の人に大変でしょうと言ってコーヒーを出すと本当に涙を浮かべていたのに。今は全く待ったなし、町田も渋谷も東京電力の支店も今はなくインターネットでのやり取りしかできない。渋谷なんか電力館とか言って和むスペースがあったのにね。コンビニの支払い書がないと払えない。あれ以来変わったよね。東京電力

名前も知らないあなたと私

2015-07-16 19:26:11 | Weblog
二浪の時から話を進める。前半はビル掃除の先輩と毎日仕事が終わって喫茶店で話していたというよりたむろしていた。ある日先輩と新宿の歌舞伎町を彷徨っていた時、
コーヒーお代わり自由という張り紙を見つけて先輩はおごってやるよと言って入って行った。コーヒーは当時一杯120円くらいだった。この店はいっぱい350円だった。先輩は500円しか持っておらず、私といえば所持金は100円くらいだった。仕方ないと先輩は隣のテーブルの女の子に千円を借りた。後日この女の子に千円を返しに行った。彼女は今もある幡ヶ谷の病院の看護婦さんで今みたいに携帯がないから深夜勤務の時などさびしくて泣きながら私の家に電話をしてきた。私の家の電話は父親が緊急用に勤務先の地下鉄から引いていたものだった。深夜の2時3時にこの黒電話がけたたましい音で鳴るのは本当に参った飛び起きたて父親は本当に激怒していたし。名前も忘れた彼女とは何回かデートした。

ワークホリック

2015-07-16 11:13:03 | Weblog
35歳の時、脱サラをして代々木の予備校に転職した。20歳の時の二浪から話は飛ぶが、それは今言われているブラック企業なんてものではなかった。低賃金、休みなし、昼休みすらもなかった。仕事が終わってクタクタになってE先生と毎日王将餃子に行った。ここの店長は一日中、朝から晩まで餃子をすごい勢いでつくっていた。チューハイが140円、餃子が割引券を使って140円くらいだった。毎日楽しみはこれだけだった。独立するつもりだったからこんな生活ができたのだった。と思う。E先生は数学の講師としては業界ぴか一だったけれど、餃子を食っていても酒を飲んでいても数学の教え方の話だった。後に旺文社の問題集を編集する仕事を紹介してもらったけれど
とにかくワークホリックで睡眠2時間くらいで彼は餃子とチューハイだけで生きていた。E先生は後に過労で亡くなった。

自殺者も出た大学入試

2015-07-15 21:31:08 | Weblog
高校を卒業して浪人になった。当時は大学など入試の競争率は40倍とかだった。だから浪人は当たり前で一浪のことを人並みとか言って自分でもこの予備校時代の思い出はほとんどない。二浪になるとき。父親からもう金はださぬといわれた。ビル掃除のバイトを始めた。ゴミ箱に落ちているドーナツをとりっこするような職場だった。一番うんざりしたのは、商社の部屋のゴミ箱に落ちている小包に貼ってある海外からの切手のとりあいだった。当時は古切手というのは価値があったんだね。日給より高く売れたらしい。止めようと思ったらほかの働いている若い人たちは驚くべき名門大学に行っていた。毎日仕事が終わってから彼らと喫茶店で話すのは楽しかったし役に立った。今この会社がちゃんと年金を払っていてくれたから感謝している。ビル掃除以外には英語学校に行っていた。

エレキギターとその時代

2015-07-15 17:06:27 | Weblog
話は高校入学に戻る。私の入った高校は横浜郊外のくそ田舎にあった。佐藤春夫という作家が田園の憂鬱を書いたところだといっていたけれど本当に憂鬱なほど田舎だった。バスにはバスガイドがのっていた。川崎を過ぎると道路は舗装されていなかった
あさってカラオケをやる友達ともう一人と3人で当時はやりのバンドごときをやっていた。その友達は当時から模型とラジオとかいう雑誌に設計図を投稿したりしていて今もその方面で活躍している。私はといえばラジオ講座の投稿欄に詩とか書いて投稿していた。文系と理系という感じだった。当然彼はエレキギターなど手作りだった気がする。もう一人はドラムをポンと親に買ってもらって彼の家に行くと世田谷なのにドラムとかエレキとか家の中で練習できた広大な家だった。その後も結婚した後もそれぞれの奥さん、子供を連れて3家族で遊びにいったり彼が熱心で家ぐるみという付き合いをしていたけれど、別荘も兄貴が2~3持っていて3台の車でドライブしたりしていた。今思えばニューファミリーだよね。けれど不況とともに彼とは連絡が取れなくなった。今回入院した時真っ先に来てくれたのもエレキギターの彼で人間関係がずっと続くというのも運命な気がする。

うららちゃんとその時代

2015-07-15 09:13:03 | Weblog
昨晩幼なじみと30分も電話で話した。何か疲れが取れたな。中三の時転校先が嫌で
彼らからの手紙とか本当に楽しみだった。
だから私の生涯は中三から書き出したのだけれども映画僕の彼女はサイボーグに子供の時の思い出が出てくるがその中に僕の幼なじみ(うららちゃん)が出てきたから思い出話は幼稚園からに差し戻す。うららちゃんは近所の子で今やたらとマスコミに出てくる渋谷に川が流れていたという渋谷川、うちの方では隠田川と呼んでいた
隠田川のほとりを毎日幼稚園まで通っていた。
隠田川には犬の死体とか台所のゴミとかなんでも捨ててあったよ。1964年、東京オリンピックが行われるので東京都知事がその前に開催されたローマを見て東京があまりにも汚いので国家総動員並みに東京の清掃を命じたそうだ。で汚い川は掃除するより埋めちまえととにかくうららちゃんとは毎日この川を眺めながら幼稚園に行った。
うららちゃんはある日、ブラジルに行くということになって、毎日泣いていた。
コドモで意味が分からなかったけれどブラジルで仕事ってなんだったのだろう。今思うと農業なんかできるのだろうかと思う。