あすなろ

塾長日記

第三話 東京に帰ってきてから

2008-05-31 20:32:03 | Weblog
退院をしてから、日本橋を学生時代の友人一人に見送られて、東海道を歩き続けました。静岡の三島で10万円拾った時も、なんか心が清くなっている気がして、悩むことなく警察に届けました。10万円が裸で落ちているから、最初はドッキリカメラかよと思いました。静岡県の由比というところまで行ったのですけれど、東京じゃいつ塾を再開してくれるんだという声も出ていて、そろそろ街道の景色にも飽きてきたので、東京へ帰りました。生徒がみんな戻ってきてくれて、うれしかったですよ。それからは、早いもので2年は一生懸命やってきました。
一生懸命やりすぎて、最近いかんなと思って、今日人生がコトッと音を立てて変わる時というのを書きました。
うつ病の反対にあるのが躁病じゃなくて、躁病というのは、うつ病のなれの果てうつ病を力で抑え込んでね突き抜けた状態をいうのだそうであります。
私はね突然倒れた経験から、自分では明るく前向きにとふるまっているけれど実は不安で、それをごまかすためにっっぱってきたのではないかと思うに至ったのであります。

第二話、東海道を歩いてみた

2008-05-31 17:34:16 | Weblog
私は、8月に阿波踊りを見ていて、倒れて救急救命病棟に運ばれてから、次の年の3月までに3回の入院と1回の手術をしました。その間にも受験はあって、授業をするにあたって、一番つらいのはなんだと思いますか?それは字が見えないこともあるのですけれど、受験が近付くに従って、不安からかやたらと生徒のテンションが、上がっていく。こちらもいつもニコニコ、楽しそうにしていなくてはならない。ことでした。今の子供たちはいじめられないようにクラスで孤立しないように、いつも明るいキャラをそれは涙ぐましいくらいしていなくては、ならない。先生がすこしでも落ち込んでいると生徒たちは途端に不機嫌になるんです。そうはいってもこちらも限界。都立高校の発表を待って、入院、手術をしました。
退院してから、ひたすら東海道を歩きました。無私の心境。箱根の山を超えるとき
この山を越えるために食料として、小田原では、梅干しやかまぼこが発達したとか
まったく普段の生活では知ることもないことを学んで、こういうことをしていると
日常生活でのストレスというのは、消えていくのですね。ウォークマンで、あんまり普段クラシックなんか聞かないのですけれど、バッハのカノンを聞きながら、箱根の山奥で、梅と桜と桃の花が咲き乱れているところにたどりついたときは、自然に涙が流れていました。聞いているだけでも浮世離れした世界でしょ。浮世離れが
精神も救うのですね。そして心が安定してくると、血圧とか血糖とか、さらには不整脈まで正常になってきたのであります。

人生がコトっと音を立てて変わる時 第一話、倒れてから

2008-05-31 15:08:21 | Weblog
もう3年前のことでしょうか。夏期講習というのは長時間で休みがなくて、本当につらくて、高円寺の阿波踊りを授業放棄して見に行って、どんどん押されて前に出て、暑いな、のどが渇いたなと思っているうちに、まわりの景色がグルグルと回りだして倒れてしまったのです。救急車で日赤の救急救命病棟に搬送されて、ここで初めてテキパキと走り回るお医者さんや看護師の人たちを見て、私は、自分の仕事場しか見たことがなかったので、24時間ずっと病室で、テキパキと働いている人たちを見て、自分が動けないのに、その時は、目も開かないのに、感動してしまって、ただその時は、このあとの人生、いきてりゃいいさ。もう仕事はどうでもいいけれど、仕事の中にも、確かに気高い仕事というのがあるんだなと思いましたね。
それまで休みもしないことが自慢だったけれど、ここで死ぬとか考えた時から、とにかくこれからは一生懸命生きようと思いました。やがて一生懸命生きるとはどういうことかと考えるようになりました。それだけでも十分に入院の意味はあったのでしょう。初めて、ザワザワしていた人生を休みました。