美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

小浜逸郎氏特別寄稿・第二弾 「戦後日本型知識人の文体を排す」 (イザ!ブログ 2012・10・7 掲載)

2013年12月01日 04時24分25秒 | 小浜逸郎


ブログ主人より 

批評家・小浜逸郎氏による特別寄稿第二弾です。第一弾は、消費増税問題にまつわっての橋爪大三郎批判でした。(http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/39d7f9c89e9a5cbb718b26c1c6af4c4d)今回は鷲田清一批判です。彼の文章を批判的に取り上げることによって、戦後知識人に共通する問題点があぶり出されています。全部で12000字、400字原稿用紙で30枚分の力作です。

小浜氏からの私信に「こういうわがままが許されることにとても感謝しています。」とありました。「こういうわがまま」とは、当ブログに氏の論文が掲載されることを指しているものと思われます。この「遠慮」の感覚に小浜氏の思想的美質が宿っているように、私は感じます。

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               戦後日本型知識人の文体を排す
                                       小浜逸郎


原発問題と領土問題について書きます。

いえ、この言い方は正確ではありません。私がこれから書こうとしているのは、ほんの小さな小さな、ほとんど誰も気にかけないようなある文章に対する批判なのです。私は偶然その文章を目にする機会を得ました。

その文章の最後に原発問題と領土問題への言及がちらりと出てくるのですが、私はその書かれ方にどうしても素通りできない引っ掛かりを感じてしまったのです。読者のみなさんにこの私の引っ掛かりを共有していただけるかどうか自信がありません。でも、なるべくわかりやすく何を言いたいのかを敷衍(ふえん)してみるつもりですので、どうかおつきあい下さい。

鷲田清一(わした・きよかず)さんという優秀な哲学研究者をご存知ですか。長年、大阪大学に勤務し、2007年から2011年まで総長を務めました。

彼の名を高からしめたのは『モードの迷宮』(1989年)という著作です。私は詳しい中身については忘れてしまいましたが、この著作が、身体とファッションとの不思議なかかわりあいの模様を、とても繊細かつしなやかな、しかもいたるところに知性のきらめきを感じさせる緻密な文体で記述した名著だったということだけは覚えています。いまは懐かしい80年代バブル期、物書きたちの感覚と関心はみなオシャレな領域に登りつめていきました。フランスのポスト・モダン哲学が鳴り物入りで紹介され、70年代以前の泥臭い文章は相手にされなくなっていったのです。『モードの迷宮』は、その時代の雰囲気を代表する著作の一つと言ってもよいでしょう。現在でも、ちくま学芸文庫版で読み継がれているようですから、ロングセラーとみなすことができます。

鷲田さんは、哲学のなかでも、当時はやりの(ポスト・モダン哲学からは批判の対象だった)現象学、特にメルロ=ポンティに深く傾倒した人で、その文体には、彼の影響が色濃く見られます。メルロ=ポンティは同じ現象学者とはいっても、フッサールのように、ドイツ的なゴリゴリとした、芸のない厳密一筋の文体の持ち主とは大きく違って、ともかく知覚や身体の現実のありようにじかに寄り添うように丹念に論を展開してゆく、いかにもフランス的なエスプリに満ちたセンスの良い哲学者です。私も翻訳を通してですが、当時大きな魅力を感じてけっこうハマったおぼえがあります。

鷲田さんは、このメルロ=ポンティの精神を自家薬籠中のものとしつつ、わが国で身体やファッションに関して新鮮な哲学的境地を開いた人として有名です。彼の文章は流麗でありながらしかも論理的な骨格がしっかりしているので、大学入試問題に頻出します。かつては外山滋比古さんが一番人気でしたが、現在では鷲田さんの文章が圧倒的な人気です。このブログの読者でこれから難関大学に挑戦しようとしている人がいたら、ぜひ彼の本を読んでおくことをお勧めします。

ところでこれは蛇足ですが、彼はある時期からいじめや死などの倫理問題にも取り組むようになりました。しかしこれらは、私にはあまり彼の得意領域とは思えず、それ以降、おのずと私の視界から消えてしまい、現在に至っています。

さて、ここからが本題ですが、筑摩書房が広報誌として出している「ちくま」という月刊誌があります。私のもとにも毎月送ってくれるので、時々ちらほらと眺めています。その今月号(2012年10月刊。第499号)に、鷲田さんが、「綴じが外れるほどにくりかえし開いた本」という一文を寄せています。この文章をこれから批判しようと思いますが、短いですし、全体の雰囲気を感じ取ってもらったほうが私の批判の意図がよく伝わると思いますので、全文を転載することにします。

          綴じが外れるほどにくりかえし開いた本

学術系の文庫本についていえば、わたしにはそれぞれの書肆にきわだって愛着のある一冊がある。講談社学術文庫なら柳田國男の『明治大正史 世相編』であり、岩波文庫だと『オーウェル評論集』であり、角川文庫ならアランの『精神と情熱に関する八十一章』といったところだ。他社のはなしが先になってしまったが、ちくま学芸文庫はというと、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』がそれにあたる。

じつをいえば、わたしがはじめて繙(ひもと)いたオルテガの著作は、主著とだれもが認める『大衆の反逆』ではない。卒業論文、修士論文で、それぞれ〈他者〉、〈世界〉という大きな主題を取り上げたのだが、論述したのは、フッサールの、遺稿もふくめた現象学のテクストの事細かな分析だった。薄暗い地下室にいるかのような、じめじめした文献分析にちょっと気が塞ぐところがあり、博士課程に進学したあとは、しばらくウィリアム・ジェイムズとオルテガの著作に「浮気」をした。

建物の骨組みばかり問題にし、それも釘一本の位置すらおろそかにしようとしないフッサールの議論とはうってかわって、彼らの書き物には、ジェイムズ自身のことばでいえば「いたるところに出入口がある」家のようなおおらかさがあった。世界を、そして歴史を、まずはどう大づかみするかについて、とても風通しのよい語り口で述べられていた。

オルテガについていえば、私はスペイン語ができなかったので、まずEl hombre y la genteの邦訳『個人と社会――《人と人びと》について』を読み、ついで当時まだ翻訳のなかったUnas leciones de metafisica(形而上学講義)を英語版で熟読し、ついにオルテガの世界にはまり込んだ。

『大衆の反逆』と記された表紙は、読まずとも内容がわかるかのような印象を与えてしまう。きっと社会のマス化現象を論じているにちがいない、と。わたし自身がそうだった。だからオルテガの著作を読みはじめてからずいぶん後になってはじめて開いた本なのである。が、よんですぐ、すぐれた哲学の著作にかならずある「殺し文句」にふれることになる。歌舞伎の見得のようなそれは、こう謳っていた――

「哲学は自己自身の存在を疑うところから始まり、その生命は自己自身と戦い、自己の生命をすり減らす度合いにかかっているのであれば、どうして哲学が自分のことを真剣にとりあげてくれるよう要求されることがあろうか」

こうなるともう魂ごともっていかれたようなものである。最後まで夢中で読んだ。

ちくま学芸文庫版が出てからは、こちらに乗り換えて、ついに綴じが緩むところまでくりかえし開いている。オルテガのいう「大衆の反逆」は、今日の、といっても一九三〇年時点のことだが、官僚と学者という、エリートであるはずの人々に象徴的にみられる精神の大衆化のことをさしている。いいかえると、「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性を内にもっている」、そういう「優れた人間」の消失、つまりは「社会的な生(パブリック・ライフ)における知的凡庸さの支配」を憂えたのである。そういう意味で、現代を「他のあらゆる時代に優り自己自身に劣る時代」だともいっている。

思いあたるところがありすぎて、びくっとするというより怖ろしくなる本で、世の中になにか事があるたびに開いていると、このところその頻度が上がる一方である。このたびの大震災と原発事故への対応のなかで、かつて過剰であったとおもわれる専門家への信頼が、一転して過剰な不信へと逆ぶれしている。この二つの過度をオルテガは口を酸っぱくして戒めていた。

つづいてこんどは、反原発デモの盛り上がり、そして島々の領有権をめぐるナショナリズムの衝突。前者については「国家による社会的自発性の吸収」への断固たる抵抗の声が、後者については「彼〔凡庸人〕はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに⋯⋯⋯⋯強行しようとする」という指摘が、耳元で響きわたる。


いかがでしょうか。

なんだか学者先生が難しい言葉をひねりまわしていてよくわからんね、と感じられた人もいるでしょう。あるいは、オルテガの大衆批判を最近の日本の「感情的な騒ぎ」批判に結びつけるのはなかなか知的な芸当だ、と感じられた人もいるかもしれません。いずれにしても、こういう文章の書かれ方が、戦後日本のごく一部を形成してきた「インテリ村」あるいは「文学村」住民(日本の総人口の1%にも満たないでしょう)の、ある種の心理的傾向にとって、自分たちの実存不安をなだめてくれる大きな効果を持っていることは否定できない事実です。このことについてはまたあとで述べます。

私はといえば、「へえ、オルテガと鷲田さん? なんだか組み合わせが合わないね」というちぐはぐ感がまず素朴な感想としてやってきました。精神の貴族主義者・オルテガは、第一次大戦後における急激な大衆社会の出現(特にアメリカのそれ)を、あきらかに自分の価値観に対する思想的な「敵」として定めて、それに対する危機意識と克服の必要とを『大衆の反逆』に込めています。その切実な声があの書物のメイン・モチーフをなしていることは疑いようのないところでしょう。

しかし『モードの迷宮』に代表される鷲田さんの仕事は、別に大衆社会現象を「敵」と定めるようなものではありません。むしろバブル期の多様で豊かな大衆文化を基盤として花開いたセンスあふれるファッションの世界の秘密を、「人間身体」の原理的な考察を通して奥深く追究したものです。ですから、彼のこの面での仕事は、あの時期、あたかもかつての宮廷貴族たちのような華やかな世界の気分を束の間味わうことができた日本の多くの都市大衆たちの繁栄のおかげで成り立っていたともいえるわけです。もちろん、鷲田さん自身が大衆社会現象を「敵」と感じるような思想的スタンスを意識的にとったことはないに違いありません。彼が、そういう社会哲学的思想の持ち主とは思えないからです。

しかしまあ、学徒時代、フッサール研究に息が詰まってきた時にさわやかな空気が吸いたくてオルテガの文章にふれ、そこで解放感を味わったという体験談にウソがあるとは思えませんから、それは事実そうなのでしょう。そしてそのことは、個人的な体験の範囲内の問題ですから、別に外からとやかく言うことではありません。

けれども、次の文章にふれたとき、私の第一の違和感がやってきました。

オルテガのいう「大衆の反逆」は、今日の、といっても一九三〇年時点のことだが、官僚と学者という、エリートであるはずの人々に象徴的にみられる精神の大衆化のことをさしている。いいかえると、「自分を超え、自分に優った一つの規範に注目し、自らすすんでそれに奉仕するというやむにやまれぬ必然性を内にもっている」、そういう「優れた人間」の消失、つまりは「社会的な生(パブリック・ライフ)における知的凡庸さの支配」を憂えたのである。

オルテガのいう「大衆の反逆」が、「エリートであるはずの人々に象徴的にみられる精神の大衆化のことをさしている」という断定ですぐに連想するのは、思想家・西部邁(にしべ・すすむ)さんの『大衆への反逆』(1983年)を中心とする一連の大衆批判論です。

西部さんは戦後の産業主義、民主主義を善と信じて疑わない時代風潮への一貫した違和感から「戦後大衆社会」批判を展開し、その途上で、とりわけそうした戦後精神を領導した官僚や知識人の「精神の大衆化」こそは、堕落の中核であるという趣旨の議論を繰り返し提示しました。この文脈からは、戦後知識人・エリートこそは、本来ならばおのれがもつべき高貴な精神に反逆した当の「大衆」である、という逆説が成り立つことになります。

たしかにこの指摘は的を射ている部分があり、また同時に西部さん独得のオルテガ解釈が躍如としています。オルテガの文章のなかにそう解釈できる部分が随所に見られることも事実でしょう。しかし、基本的にオルテガのいう「大衆」とは、群れている自分たちだけがこの世界の支配者であり、異質な他者の存在を認めず、自分自身の正しさをけっして疑おうとしない傲岸な「愚者たち」のことを指しており、こういう「愚者たち」がじっさいに自分たちよりも優れた人の価値を認めないような事態が実現するためには、政治、経済、文化などあらゆる領域における「数」の上での圧倒的な優勢が条件となります。オルテガが「大衆」というとき、その背景には明らかに、第一次大戦後の都市社会における無名のマスの氾濫という強烈な視覚的イメージがあったのです。

とはいえ、戦後知識人批判のためにオルテガの大衆批判を援用するという西部さんの思想的モチーフには、是非の判断はとりあえず差し置き、少なくとも彼の懐疑と孤高の精神がよく発揮されており、方法的な必然性もあり、他の人の追随を許さないオリジナリティが感じられます。

さてひるがえって、鷲田さんの先の断定には、鷲田さん自身の思想的な突き詰め、彼自身の自己懐疑の痕跡が感じられるでしょうか。「綴じが外れるほどにくりかえし開いた」にしては、オルテガの精神の貴族主義に対して、戦後日本知識人の一人としての自分はどう思うのか、オルテガは「『社会的な生(パブリック・ライフ)における知的凡庸さの支配』を憂えた」と評している、その鷲田さん自身は、その知的凡庸さの支配からどのような距離をとることによって精神の自由を確保しえているのか、そういう問題意識がさっぱり伝わってきません。要するに西部流オルテガ解釈をそのまま無反省に継承しながら、自分はエリートたちの「知的凡庸さの支配」からは超越しているというポーズをとりたいのだと思います。

もっとも、すぐ次に、「思いあたるところがありすぎて、びくっとするというより怖ろしくなる」と言っているからには、知的エリートである鷲田さん自身にも、むしろ自分もまたこの時代のなかで「知的凡庸さ」に支配されているという自覚がないわけではないのでしょう。だったら、そのことについて自身に内在する問題として内省を深めてもらいたいのに、それに続くくだりをもう一度読んでみてください。テーマが知識人としての自分の実存問題とは何の関係もないはずの、外在的なものにひょいと飛び移っていますね。ここが、じつは私がいちばん問題としたいところです。

では問題の箇所をもう一度引用しましょう。

このたびの大震災と原発事故への対応のなかで、かつて過剰であったとおもわれる専門家への信頼が、一転して過剰な不信へと逆ぶれしている。この二つの過度をオルテガは口を酸っぱくして戒めていた。

つづいてこんどは、反原発デモの盛り上がり、そして島々の領有権をめぐるナショナリズムの衝突。前者については「国家による社会的自発性の吸収」への断固たる抵抗の声が、後者については「彼〔凡庸人〕はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに⋯⋯⋯⋯強行しようとする」という指摘が、耳元で響きわたる。


今回、私の批判意識は、この最後のわずか数行に凝縮されます。この数行がなかったら、おそらく「へえ、鷲田さんとオルテガねえ、何となく意外だな」と感じただけで、そのまま読みすごしていたでしょう。

鷲田さんはもともと政治派・社会派知識人ではないのだし、こんな広報誌のわずか数枚のエッセイで、何も目下ヒート・アップしている政治・社会問題に言及する必要などないはずです。大江健三郎翁などが、よせばいいのに、岩波・朝日文化村におだてられ、何も勉強していない歴史問題・平和問題に触れて得々としている痴呆ぶりはつとに有名ですが、ヘタをすればその轍を踏みかねません。

この最後の数行がいかに戦後日本知識人特有の自己欺瞞的なスタンスを象徴しているか、それをはっきり示すために、以下、番号と標題を付して順に述べていきます。

鷲田さんは原発問題について、原発事故以前に専門家への「過剰な信頼」を問題視していたのか

そうでないならば、それこそ原発問題の専門家でもない鷲田さんが、事が起きてからあとで、「過剰な信頼」を訳知り顔に批判する資格はないはずでしょう。

ことわっておきますが、私は、日本国民がみな原発エネルギーの恩恵を受けていたのだから、日本国民の一人である鷲田さんも事後に批判するべきではない、などと言っているのではありません。ふつうの受益者のだれにも、事後に批判する権利があるのは当然です。

私が言いたいのは、現代社会の「知的凡庸さ」を批判するオルテガに同調している言論知識人の鷲田さんが、自分が事故発生までは思想的な危機意識を持ちもしなかった原発問題に関して、事後になって「あれは過剰な専門家信頼だ」などと高みから「大衆批判」をするのは、それこそ「知的凡庸さ」の典型でしょう、ということです。

これには既視感があって、戦中に軍部の暴走に同調していた知識人の一部が、戦争直後に「あれは暴走だった」としたり顔に「反省」してみせたのと同型です。「利口な奴はたんと反省するがいいさ。僕は馬鹿だから反省などしないよ」と言ってのけた小林秀雄のことばが、「耳元で響きわた」ります。

「過剰な信頼から過剰な不信への逆ぶれ」という単純二元論的な捉え方は実態を正しくとらえているか

鷲田さんは、現在の原発問題をめぐる事情が、どれほど複雑に入り組んでいるのかを多少とも把握したうえでこういう単純なことを言っているのでしょうか。東電の組織内問題、原子力規制委員会の内部実態、今後のエネルギー行政に関する学者たちの百家百説、行政当事者、政権担当者、野党政治家たちの見解、廃棄物処理の問題、被災者たちの感情、マスコミや、さまざまなメディアの論調、一般国民の立場の違いによる複雑な感情、再生可能エネルギーの実用可能性や火力発電の耐用年限や資源確保の問題、脱原発依存の長期見通しと展望、などなど、素人なりにちょっと考えてみただけでも、この問題の現在における実態を多少とも正確に把握しようとすれば、判断不可能と言ってもよいほどのめったやたらに錯綜したイシューがどっと押し寄せてくるのを感じます。

よって私のような門外漢には、とても「過剰な不信」が支配しているなどと断定を下すことができません。おそらく、過剰な不信を表明している人もあれば、それを役目柄じっと引き受けて悩んでいる人もいる。で、現時点で私に言えることは、おそらく人類は、軍事利用にしろ平和利用にしろ、これまでに代わるよほどの新技術が開発されない限り、あの途方もないエネルギーが得られる核分裂反応のコントロールという技術を手放さないだろうということだけです。

仮に「逆ぶれ」現象が一部に認められるとして、それがバランス喪失でよくない(「オルテガが口を酸っぱくして戒めていた」そうですが)というご立派な判断を下すなら、鷲田さんは、責任ある言論知識人として、バランス回復のために何が必要だと考えるのですか。問題に触れた以上は、「逆ぶれ」の指摘だけで思考停止せずに、その先の知恵を示してほしく思います。

反原発デモの盛り上がりを「社会的自発性」ととらえ、それが「国家によ」って「吸収」されることにオルテガが「断固たる抵抗の声」を発したと鷲田さんは説いているが、これは、いったい何が言いたいのか。

このエッセイで、わたしが最も欺瞞性を感じたのが、この部分です。原文は韜晦(とうかい)に満ちたわかりにくい文章ですが、私の読みは間違っていないと思います。それにしても、こういうとんでもない言葉の詐術を弄してはいけません。

「国家による社会的自発性の吸収に対しては断固たる抵抗の声」を発するべきだ、とおそらくオルテガは『大衆の反逆』のどこかで書いているのでしょう。引用そのものの正確さを疑うつもりは私にはまったくありません。その点では鷲田さんはとても信頼がおけます。いちいち原典に当たって検証する煩に耐えないので、それはやらずにサボります。

いずれにしても、こういう文句は、知と教養にあふれた文学的な思想家、個人主義的で貴族的なプライドの高い思想家がいかにも言いそうな文句です。つまり、現代の民主主義国家のような、凡俗な群れの付和雷同によってつくられた安手の国家などに、私たち一人ひとりの生存の深奥から絞り出された言葉を奪われてたまるか、というメッセージであろうと私は理解します。「社会的自発性」という用語は、それ自体としては誤解を招きやすい表現であることはたしかですが、折々の制度などに拘束されない、個人の自然な生に根ざした力の発現といったほどの意味でしょう。そう解釈してこそ、オルテガの核心的な思想との間に整合性が見いだせます。

しかし鷲田さんは、これを(おそらくは意識的に)、見事に誤解します。「社会的自発性」の一例が反原発デモの盛り上がりだというわけです。噴飯ものというほかありません。単純な政治的スローガンの下に結集した群衆の行為を本質とするデモンストレーションなどに(私は一概にその意味を否定しませんが)、オルテガが「社会的自発性」の発露などを見るはずがないではありませんか。それこそ、彼が思想的な克服の課題とした「大衆の反逆」の好個の例でなくてなんでしょう。それを完全に取り違えている点がまず言葉の詐欺の第一です。

次に鷲田さんは、社会的自発性を国家が吸収したという記述で、どうやら野田佳彦首相が管直人前首相の圧力によって、反原発デモの参加者たちと会見して話を聞いたことをイメージしているらしい。時局に応じて書かれた文章ですから、それ以外にはちょっと考えられません。

そして? その「吸収」に対して断固として抵抗する? つまり、国家に籠絡されずに、反原発の自発的な意志をあくまで貫け、ということになりますね。鷲田さん自身は、反原発の意志をなんらかのかたちで表現したのですか? それならそれで一つの見識ですからけっこうですが。

こういうもってまわった記述に、講壇知識人、特に戦後日本的知識人の無知無能力と裏腹の、かっこよさげなレトリックを振りまいてすたこら逃げる狡猾さが典型的にあらわれています。本質はただの心情的・同伴者的な「左翼」以外のなにものでもないのに。

この発言のどこが無知無能力か。

国家とある社会的勢力との接触がどういう意味をもつのかに多少とも触れるなら、どういう質の政治権力がどういう質の集団と接触したのかをまず具体的に記述し、その上で、その接触の意味を解き明かして見せるのでなくてはなりません。

反原発デモと野田首相との接触は、なぜ可能となったか。私見では、単純な反権力・反国家思想によってイデオロギー的に統合されていた集団が、もともと反権力・反国家的な体質を濃厚に持つ政権政党(民主党)の甘さを十分に心得ていて、これなら与しやすしと踏んだからこそ、可能となったのです。反原発デモの団体の個々の参加者は必ずしもそういうイデオロギーの持ち主ではないでしょうが、時の権力者の施政方針に集団として反対意思を伝えるためには、主催者がそういう単純なイデオロギーによって全体を統合することがどうしても必要となります。

そういう特殊事情があったために、「社会的自発性」が「国家に吸収」されるという現象が一見成立したかのように見えたのでしょうが、鷲田さんはその具体的な事情にはいっさい触れずに、問題をただ抽象的に「社会的自発性」と「国家」との関係として高みの見物をすることしかできていません。そのため、事の本質がまったく見えていないのです。例の出会いは、時の首相が原発再開の政治的決断をしておきながら、だらしなくも市民運動出身の前首相にそそのかされて、反原発デモの団体にも媚を売ってしまっただけのことです。つまり政権担当者のダメさ加減を表わしている以外のなにものでもありません。あの事態は、じつはひとえに断末魔の政党が票欲しさに見えも外聞もかなぐり捨てた醜態の一例です。それが事の本質です。

繰り返しますが、反原発団体と政府との接触は、「国家」一般が社会の力を吸収したから、抵抗を貫けなかったのではありません。そうではなく、あれは、まれに見るダメな、特殊な政権だったから、デモ団体代表を官邸に導きいれて「皆さんの気持ちもよくわかります」という話でお茶をにごしたという体たらくを意味しているのです。デモ団体に限らず、国政の最高責任者は、いったん決断した施政方針に反対する特定の圧力団体とむやみに接触したりしてはいけないのです。無数の対立する勢力が中央政界をびっしりと取り巻いているのですから。

これで、例の出会いが、オルテガの思想などとなんの関係もないことがお分かりでしょう。そういう事情をきちんと視野にいれずに、いわくありげに反原発デモとオルテガを結びつけるなんて、鷲田さんはよっぽどズルい人か、そうでなければ、政治思想、社会思想のセンスがまったくない人ですね。やっぱり大江翁と同じで、「よせばいいのに」です。

誤解のないようにことわっておきますが、私はべつに原発容認派でもなければ、反原発思想そのものをくだらないと言っているわけではありません。原発問題をどう考えるかについては、ここでは俎上に載せていません。また、原発問題に言及した以上は、政治的立場をはっきりさせろと言っているのでもありません。私が言いたいのは、ただ、言論知識人がそういう問題に触れるからには、ヘンな「知的さかしら」を振りかざしてごまかすのではなく、問題の難しさを謙虚に認め、局部的な事態の本質をきちんと見極めてから発言してくださいと申し上げているのです。

尖閣諸島や竹島をめぐる領有権問題にかかわる議論について、鷲田さんはどこまで調べた上でものを言っているのか

これについての鷲田さんの高ビーな知ったかぶりの物言いは、ひどいものですね。もう一度その部分を引きましょう。

後者(引用者注――領有権問題)については「彼〔凡庸人〕はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに・・・・・・強行しようとする」という指摘が、耳元で響きわたる。

ここでの「彼〔凡庸人〕」とは、いったい誰のことでしょう。私はこのたびの領土問題に関しては、まだどこにも自分の考えを発表していませんが、少なくとも新聞やネット情報、雑誌記事、テレビの特集番組、知人友人の議論などを可能な範囲で把握し、それらを参考にしながら、だいたいこういうことだろうなという一定の構えをもつに至っています。これらの情報のなかには、もちろん優れたものもあればあまり感心できないもの、理性的なものもあればエモーショナルなものなど、いろいろあります。もしメディアからお声がかかれば、これらへの自分なりの評価を踏まえつつ、その要請の条件しだいで考えを表明するつもりです。知識や言論で飯を食っているなら、それくらいのおつきあいは当然というものでしょう。

もちろん、関心や知識や使命感がなければ、つきあう必要などまったくありません。お声がかかっても、「それは私にはできませんので」と言っておことわりすれば済む話です。

ところが、鷲田さんのこの最後の三行は何ですか。誰に頼まれたわけでもないのに、ちょいとオルテガなど強引に引用して、領有権問題にかかわる人たちのすべてを、「自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに強行しようとする」凡庸人と決めつけ、一括して片づけたつもりでいます。またしても「よせばいいのに」です。

私は鷲田さんに次のように依頼してみたい。この決めつけのあと、原稿用紙3枚か4枚でいいですから、領有権問題に関する「配慮も内省も手続きも遠慮も」踏まえた、「凡庸人」ではないあなた自身のお考えを書いてみてください、と。そのためのよい参考資料として、私が触れることができたものから一例だけ挙げておくことにしましょう。月刊誌『正論』2012年11月号の中野剛志さんの論文「日本の最大のリスクは日本人自身だ」は、たいへん視野が広く理性的な目配りがきいていて、問題の要所をおさえた秀逸な論文です。仮にこの論文も「自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮もなしに強行しようとする」ものだとお考えなら、どうぞその根拠をお示しください。

ここまで読んで下さった読者の皆さん、お疲れ様でした。私がなぜこんな片隅の小さなエッセイに引っ掛かりを感じて、批判のエネルギーを注いだか、もうお分かりいただけたと思います。

鷲田さんに限らず、この種の高ビーな構えだけは超一人前で、その本質は「はぐらかし型」インテリでしかない人はこの国にうようよいるような気がしてならないのです。前回このブログで取り上げた橋爪さんもそうでした。ちなみに今までのところ、橋爪さんからなんらかの反論があったという情報は手にしていません。あれから月刊誌『Voice』10月号の「巻頭の言葉」で彼が尖閣問題に触れているのを読みましたが、これまたただの「アメリカ教」信仰を披歴しただけのひどいものでした。しかしあまりにしつこくなるので、深追いすることはやめておきます。

鷲田さんに話を戻しますが、要するに彼は、「下界の騒がしさ」が少々気になり、自分だって言論知識人としてこういう時局問題についてもちゃんと目配りしていますよ、というミエを示したかったのでしょうね。ミエ、大いに結構ですから、どうせやるなら、もっと大見得を切ってくださいよ。

私がこのタイプの「戦後日本型」知識人をどうしても好きになれない理由は、大きくいって二つあります。

ひとつは、自分の得意領域に徹しきれずに、求められているわけでもないのにヘンなスケベ根性を示して不得意領域にちょいと手を出し、結局はその領域での不勉強の馬脚を現してしまうことです。もうけっこうな年季を積んできたのだから、「下界の騒がしさ」など気にせずに、ご自分の職人道をひたすら突き進んだほうがいいとご忠告申し上げたい。

もうひとつは、自分たちインテリ村の住民が共有している実存不安、つまり現実生活から遊離してしまうのではないかという不安を慰撫するために、相も変わらずアチラの権威を借りてくるという性癖から自由でない点です。「虎の威を借る狐」ですね。

このほうが「戦後日本型」知識人の問題として重要です。これは近代以来の多くの日本知識人の根深いコンプレックスを表わしていて、それが特に敗戦のためにいっそう強化され、カタカナ思想をバックに使えば大抵の読者はぎゃふんとなるだろうと、無意識に考えている。ぎゃふんとなる人もいることはたしかなので、それなりの効果はあるのでしょうが、そういう人は、同じ日本知識人村(インテリ百姓)の住人だけです。

世界は日々変化し、もうそういう輸入商売は現実にはほとんど無意味になっていると私は思います。日本の思想は(と、私も少々ミエを切りますが)、かつて戦前、戦中の少数の思想家が西洋と格闘したように、もはや自前でひねり出すしかない状態に立ち至っています。これはもちろん、西洋思想を軽視しろという意味では毛頭ありません。きちんとその価値を値踏みして、その上でオリジナルな日本思想、私たちの思想を編み出し、世界に発信しようではないかという提案であります。

特に今回、鷲田さんを取り上げたのは、彼がオルテガの思想の中核的な部分を思うざま歪曲して悪用していると感じたからです。器用でスマートでオシャレで素敵で知的に見える輸入業者の文体。でもよく見るとインチキです。こういう文章を日本の良質な読者の誰がまじめにとりあげるのでしょうか。誰もまじめにとりあげないからこそ、一部のインテリ村でのインチキ商売が何とか成り立っているのではないでしょうか。

長々失礼いたしました。同じ物書きの端くれとして、私はどうも、こういう売文業者たちのなかのある種の傾向が気になって仕方ないたちのようです。病気かもしれません。お暇な折のお慰みにでもなれば、もって瞑すべしであります。

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